静かな日常
「無理しなくてもいいのよ、アンティエーヌ」
母が私を気遣ってくれる。
「何が?」
私は張り付けたような笑顔で、母に振り返る。
女優だった母には、私が無理をしているだろうという事はお見通しなのかもしれない。だが、母はそれ以上の言葉は挟まず、ただ黙ってベッドに居てくれる。
あの日から、私は泣かなくなった。
どんなに胸が苦しくなっても、決して母の前では涙など見せない。
母が私の為に泣かないでいてくれるように、私も母の前で、母を悲しませるようなことはしない。
毎日決まった時間に学校に行き、友人たちの誘いを断って家に返って来る。そして、母の見ている前で本を読んだりネットを検索したり、母に友人たちとの会話を語って聞かせていた。
以前より、明らかに母の部屋にやって来るようになった私を、母は本当はどう思っているのだろう。分からないが、嫌がってはいないと思う。
母は、前よりもだいぶゆっくり動くように変わってきたけれど、とても穏やかな表情で、静かな日常を過ごしていた。
今日もベッドに腰を下ろして、優雅に姿勢よく座っている。
その何気ない風景に、私の胸が鈍い痛みを感じる。
母は、動けないながら懸命に、体力維持の為の運動をしているのだ。
もう満足に動けなくなってしまった母には、ただ姿勢を正して座っているという何気ない行動すら、大変に負担の掛かる行為になっていた。
それを、母自身が知らないはずがない。
それなのに、わざわざ苦しくなる姿勢を崩さないのには理由があった。これだけが、母に残されたたった一つの、体力維持の為の運動なのだ。
ほんの少しでも私の隣にある為に、母はまだ、努力を続けてくれているのだ。
だから、私も母の為に微笑む。
母程自然に微笑むのは無理だけど、せめて母の10/1ぐらいは、なんとか感情を胡麻化してみる。もう泣かないと決めたのだ。
「ねぇお母さま、もう少しで桜が咲きそうよ」
今朝、日課になった散歩の時間にふっくらと膨らんだ蕾を見つけた。
今年は冬が本当に寒かったため、どうやら開花が早引きそうなのだ。ネットで調べたのだが、桜という綺麗な花は、寒暖差で開花時期が大きく変わるらしい。
「まぁ、・・そうなの」
母が、何故だかとても嬉しそうな笑みで頷いてくれた。
「ようやく、本物が見られるわね・・」
とうっとりとした表情で、母が呟いた。
そして、飾られたままの祖父のプレゼントである着物を眺める。
「この着物の桜のように、きっと・・とっても綺麗に咲くのね」
と母が続ける。
「ええ、お母さま」
私が相槌を打ったら、母はとても満ち足りた笑みで頷きかえしてくれた。
その笑みに私の胸が痛んだ。だけど、決して目は放さない。
母が、とても嬉しそうに微笑んでいるのだから。
心が痛くなるような場面に、以前よりもずっと何度も遭遇するようになったが、それでも私は母の側に居ることに決めた。
ほんの少しでも、母の心が穏やかになってくれるように。
母の最期の日々から、目を逸らしてはならないのだ。
ここで逃げ出したら、私はきっと後悔する。私の命が無くなるまで、きっとずっと後悔し続ける。だから、胸が潰れそうなほど痛んでも、私は母の弱っていく姿を見続けることに決めた。
直視するのが辛すぎたら、ほんの少し視線を落とせばいいのだ。
涙で母が歪んだとしても、母に見咎められなければいい。
そう、私は決めた。
だから、今日も下を向いて感情の整理をする。
涙が滲んだ瞳を、瞬きで誤魔化す。
「ねぇお母さま、一緒に桜を見に行きましょうね」
無理に笑って、私は母にそういった。
一輪、また一輪、小さな花が無言のまま開花してゆく。お日様の日差しが降り注ぐ穏やかな場所から。まるで零れ落ちるように、少しずつ。
大都会はまだ朝晩はかなり寒い為、それ程多くの華は咲いてはいない。だが、確実にゆっくりと桜の花はその蕾を緩やかにしていった。
その可憐さに、胸が苦しくなる。
私は早朝の桜の下で、ポロポロと涙を零して立っていた。
こんな時間には、流石のN,Y子もわざわざ公園にやってきたりはしない。何故なら、まだ始発列車すら動いていないような時間なのだ。
疎らに、ランニングをしている人にすれ違うが、基本的には皆無と言っても過言じゃない程、人の通りはなかった。
それに、誰も泣いている女の子に話しかけるような野暮な人はいなかった。
中には、買ったばかりのコーヒーを私に手渡してくれた人もいたけど、事情を聞き出そうとするような人はいなかった。
私は毎日、徐々に咲いてゆく桜を見守りながら一人で泣いた。この時間だけは、思いっきり泣いてもいいんだと、自分に許した時間だった。
そうしていいだけ泣いてから、私は母の待つ母の屋敷に戻った。
最近、母は私を早朝の時間からベッドサイドに呼んでくれるようになった。
朝は特に体が重いから・・という理由で、ベッドの中で食事をするようになった母と二人で、楽しい会話を交わしながら食事を済ませる。そして、母にいってらっしゃいのキスを頬に貰い、私は学校へ出向くのだ。
母は、ただの出無精よと笑っていたのだが、それはきっと方便だ。
朝の急激な血圧の変化が、母の心臓に物凄く負担をかけ始めているのだろう。その為、母は朝の早い時間帯は、車椅子にすら乗る事を拒絶するようになったのだ。
私の中で、医師の言葉が蘇る。
『これから、目に見えて心臓の機能は低下していくでしょう』
この小さな変化が、最初の死への兆しなのかもしれない。
母は車椅子にすら、もうすぐ乗れなくなるのかもしれない。
それはつまり、母の最期の望みすら、叶わないという事を指しているのだろうか。
考えただけで涙が零れそうになる。
咲き始めた桜に、せめてもう少しだけ急いで咲いて!と願う。
母の為に、母が自分で見上げることがまだできる今の段階で、せめて満開の桜を見せてあげたい。だから、私は最近祈るような感じで桜を見上げ続けている。
「お願い・・」
せめて、もう少しだけ早く。
私は、左右にこんもりと枝葉を伸ばした若々しい桜の樹を見上げて、そう呟いた。
また、幾分か冷たい風が、吹き抜けてゆく。
辺りはすっかり暗くなり、冷えてきていた。
朝にも、この桜の下で私は泣きながら桜を見上げていたのだが、また、枝を確認するためにこの場所を訪れていた。
ひゅーひゅーと、冷たい風が桜の枝を揺らす。
私は、せっかく咲いた花が散ってしまうのではないかと不安になる。
「それぐらいの風じゃ、散ったりしないから安心して家に返れ」
誰かが、私の背にそういった。
その声に、私は振り返る。
そこに居たのは、あの寒い冬の日に出会った、変死体一歩手前の彼だった。
「あなた・・・」
私の顔によっぽど驚きが刻まれていたのか、彼が小さく微笑む。
「なんだよ、死んでなかったのがそんなに変か?」
その、なんだか気に障る言い方にカチンとする。
むっとした私に、彼は可笑しそうに噴き出す。
「嘘だよ。俺なんかのこと、まだ覚えてたのかとちょっと驚いただけだ」
変な言い方して悪かったな、と彼がぶっきらぼうに謝る。
そうして、ゆっくりと私に近づいてきて私と肩を並べると立ち止まり、同じ桜の枝を見上げた。
「桜は、こう見えて意外と頑丈な花なんだ。そうやすやすと散ったりしない」
私は、私の隣に立った、私よりも背が高いアジア人の彼の言葉を黙たまま聞く。
この花は、きっと彼らの国のものだ。
私よりずっと、この花に詳しいのだろう。
彼が、綺麗な英語で淀みなく私に桜の樹の説明をしてくれる。その綺麗な英語は、私の故郷のものだった。根っからのイギリス人のようなきっちりとした発音で、アジア人の彼が、彼の国の樹の話をしてくれた。
「だから、早く帰れよな」
もう、心配いらないってわかっただろう?と、あの夜とは反対になった立場の彼が、私に尋ねる。
私は頷きで応えた。
「この様子なら、もうあと数日で満開になる」
彼が、思いがけず最高の情報をくれる。
私はそのあまりにも嬉しい情報に、胸が一気に華やいだ。
まだ蕾のままの枝の先すら、輝いて見える。あの蕾たちが、後ほんの数日で一気に咲くなんて、なんて素晴らしい情報だろうか。
嬉しくて、何度か頷きながら桜の枝を見上げた。
そんな私に、
「なんだよ、そんなに桜が好きなのか?」
と、彼が物凄く優しく微笑みながら、ぶっきらぼうな声で私に尋ねる。
「ええ、お母さまと一緒に、この桜を見る約束をしているの」
さっきまで、絶望的に時間がないと感じていたのが嘘のようだ。
彼の見立て通りなら、もう数日でこの桜は一斉にその美しい花を咲かすのだ。
これなら、母も一緒に桜を見上げることが出来るかもしれない。
「そっか・・」
良かったな。と彼が小さく呟く。
彼も、もしかしたら、桜に何か特別な思い入れがあるのかもしれない。
私のすぐ横で、同じように熱い視線で桜の枝を見上げている。
そうして、数分間、私達は同じ桜を無言のまま見上げた。
やがて彼は、あの雪の日のような出で立ちのまま、それ以上の干渉を挟まず私に背を向けると、あの日のようにまるで友人に手を振るような気さくさで私に手を振り、そのまま振り返らずに去っていってしまった。
私は、彼が偶然くれた情報を胸に、母が待つ屋敷に足を速めた。
「おかあさま、もうすぐ桜が満開になるんですって!」
私が母の部屋に飛び込むと、母がいつものように私を抱きしめ、額にキスをくれる。
「まぁ、素敵ね」
今夜も、母の声はいつもと何も変わらない。綺麗なままの、母らしい堂々とした穏やかな声だ。いつものように、何時間でも聴いていたいと願うような澄んだ声。
また、ほんの少し細くなった指で、私の頬をそっと撫でてくれる。
「でも、女の子が幾ら散歩が趣味でも、こんなに遅い時間に出歩くのはあまり良くないわ」
母が、珍しく私の行動を諫めるような発言をする。
「ごめんなさい、おかあさま」
私は、半分驚きながら反射的に謝った。
だけど本当は、完全な意味では、私は一人で行動している訳ではなかった。
最近知ったのだけど、本当は私には見えてはいなかったボディーガードが、常に数人以上、配置されていたらしいのだ。
まったく知らなかったのだが、この街にやって来るよりもずっと以前から、私は常に、数人の屈強な大人の男たちに守られていたらしい。
誰の差し金かというと、私の祖父、だった。
私にとってはごく最近であったばかりの存在だったはずの祖父だが、祖父の中ではそうではなかったらしく、私は一切知る由もなく、祖父の配下の者にずっと守られてきたらしいのだ。
何故その事実が露見したかというと、尾行が下手な新人さんを、たまたま私が見つけたのが縁で、本人の口からその事実を教えて貰ったのだ。
「殺されかねないので、俺の事は、絶対に秘密にしておいてくださいね!」
という約束で、彼に色々教えて貰ったのだ。
彼らは、元犯罪者だった。
しかも、国際的なテログループの残党らしい。
誘拐やら、銃撃戦がお得意だったある組織の元構成員で、どうゆういきさつがあったのかは不明だが、私のおじいさまに警護員としてスカウトされたらしい。
そうして、念入りな思想教育と再訓練を施された彼らは、私の祖父の為だけのアンダーグラウンド要員として、我がヴィコルト家に再就職を果たしたそうだ。
その為、犯罪者の思考を読むのはお手の物だったのだ。
おじいさまは数十人に上る元犯罪者を、警護員として、自らの家族の身辺に配置しているのだ。もちろん、ご自身の身の回りにも。
ただ、おじいさま自身が物凄くお強い為、おじいさまの周辺にいるガードの人達にはまったくと言っていいほど、出番は回ってこないらしい。
それでも、常に数人以上が警護していた。
私やユーリーにも、おじいさまの眼鏡にかなったガードが常に数人以上、行動を共にしているらしい。
新人以外は、本当にプロなので尻尾を掴むことすら難しいらしい。その為、もしかしたら一生出会うことすらないのかもしれない。
そんなプロ意識の塊たちに、私の穏やかな日常は守られてきたらしかった。
でも、きっと、そんな事母は知っている。
今まで、私の行動には一切何も言わずにきた母が、珍しく私に意見してくれたのだ。
もしかして、母はほんの少し、気持ちが弱ってきているのかもしれない。
いつもは何もかも超越しているような母が、こんなことぐらいで、たぶん本気で狼狽えていたのだ。
ほんの少し、私の帰りが遅かっただけだというのに。
見えないけれど、完璧なガードマンたちに守られてるのに。
分かっているのに、ただ、私がいつもの時間に側に居なかったというだけで、こんなにも心配してくれたのだ。
母は、内心の動揺がつい口に出てしまっただけだったらしく、ほんの少し困ったような複雑な顔をして、
「・・ごめんなさい。貴方の行動に、口を挟む積もりな訳ではないのよ」
出しゃばってしまったわね。と小さく続ける。
私は小さく首を振った。
「そんな事ないわ、おかあさま」
私は何故だか心から嬉しくなって、母を抱き締める。
ぎゅっと、母の首筋にしがみつくような勢いで。
「心配かけてごめんなさい。もう、夜には公園にはいかないわ」
母の耳元で、約束の言葉を呟く。
こんなにも私を思いやってくれる母に、嘘などつかない。
「大好き、おかあさま」
守られていると知っていても、それでも心配で仕方ないと感じてくれている母に、心から私は謝っていた。