存在の証明
「僕たちはおじいさまの孫だから、それぞれに大きな秘密に直面してきたわけだよ」
と彼が和やかにごく自然に微笑む。
その笑みは、もう辛そうではなかった。どちらかというと優しさに満ちたものだった。
彼は綺麗な足を組み替えながら、
「君は、フランの娘だしね」
彼女がもしも女優業をしていなかったら、全く別の秘密に胸を焦がしたんだろうしね。と云い、彼がまた優しく微笑む。
「君がヴィコルト家の孫だって事実を、世間に対して秘密にしてきた理由だって、僕には良く分かってたよ」
と彼が言う。
誰だって、自分という尊厳を固持したいものだ。自分ではどうにもならない理由で、自分を不当に高く評価されたくはない。家の権力で、評価を捏造したなどとよく知りもしない相手に、決して言われたくはないのだ。
「そうだろう?」
彼はまるでそう言われた経験がある様子で、どこか飄々として言い切る。
「・・そうね、確かにそう思ってたわ」
私も素直に認めることにする。
ユーリーとは多少重さが違うけど、確かに私も自分の実力だけを評価してもらいたくて、ソニアおばあさまの性をもう随分と長く名乗ってきていた。
決して、伯爵家の孫だと気付かれないように、寮生活の細部に至るまでサムに裏工作を頼んでいた。彼はその手腕を遺憾なく発揮してくれたので、私は何の不自由もないままぬくぬくと、寮内の安住を貪ってきたのだ。
「でも・・、おじいさまはそれほど、伯父様の事を気にしていらっしゃる様子ではないのに」
と、つい余計な感想が零れた。
私の瞳に映るおじいさまの横顔は、仲のいい兄妹の様子をただ心から愛でているのだ。
言葉数はそれほど多くはないが、確かにおじいさまは、伯父の存在をそのまま受け止めているようにしか見えない。
私の感想に、ユーリーの視線が更に緩やかに丸くなる。
「あの人は、意外なことに、何よりも個人を尊ぶ人なんだよ」
きっとね、と彼が微笑む。
「大事な事しか言わないから、本当はどんな事を考えているのか良く分からない人だけど、きっと誰より自分を大事に生きるようにと、言葉ではない所で言い続けているのだと思う」
と、彼が考察したおじいさま像を披露してくれる。
その姿勢が、更に祖父を神格化しているという事実には、残念ながら本人はまったく気づいてはいないのだろう、と彼が続けた。
祖父は、誰もが憧れるまさに神のような存在なのに、実はあまり自身の感情の機微には敏く出来てはいない様子だった。
それこそ、僕以上に自分の感情には疎いのだ。
あんなに、他人の思惑や感情、それに伴う行動や言動に対して物凄く鋭い洞察眼を発揮するのに、ご自分の感情にはまるっきり無頓着なのだ。
まるで、自分には感情などありはしないと思っているように。
「だから、あの人なりにきっと、父を愛しているんだよ」
そんな事にも、きっと本人は気付いてはいないのだろう、と可笑しそうにユーリーが呟く。
私は何故だか、物凄く彼がいうおじいさま像に合点がいった。
確かに、おじいさまはご自身の感情にはあまり敏くはなさそうだ。というより、ご自身の感情に対してまったく興味がなさそうなのだ。自分がどう感じていても、そんなことはどうでもいいと本気で考えていそうな雰囲気が、おじいさまにはあった。
「まあ実は、僕がその事実に気付いたのは物凄く最近の事なんだけどね」
と彼が続けた。
彼は、壁に掛かった伯父の絵を愛おしそうに眺めた後、私に向き直ると、今度はその時の話を私にしてくれた。
五年前のあの日、世継ぎの君を正式にお披露目するために執り行われたパーティーに招待された客人は、数百人規模だった。
そこには、現王室の本物の王子たちまでも居た。
ヴィコルト家は、現王室とは幾分か血縁が薄くなったものの、ご先祖の代から王室とは大変に近しい間柄だった。何しろ、初代は王家の姫君を花嫁として娶られていた。他にも数人以上、お仕えしている世代が違うものの、姫君の夫になった先祖が居た。
要するに、王家とはかなり複雑な親戚関係にあたるのだ。
そんな華々しい歴史に裏打ちされた伯爵家は、どの時代も、意気揚々と乗り越え現代に続いてきた。
多くの貴族が、時代の変化や荒波を乗り越えられずに沈んでいったというのに、ヴィコルト家にはまったく関係のない話だった。
いつの世でも、時代の最先端にやすやすと乗り決して見間違えない。必ず、その時代ごとに合わせた一番勝機のある事業を最初に展開し、莫大なる財を成した。そして更なる繁栄と血統を、子孫に伝えてきたのだ。
その手腕は本当に賞賛されるべきもので、何度も国家転覆の危機を、伯爵家の資産が裏になり表になり、救ってきたと言われていた。
その為、今現在ではあまり血縁関係はそれほど近くなくなった現王室でさえ、一目置いているのだ。
バッキンガム宮殿並みに煌びやかな石造りの居城は、イギリスに招聘された初代が、当時の国王から頂いたものだ。そのかなり古い古城を、代々の当主が手を尽くして守ってきた。そのため、建立された当時のままの美しい姿を、今現在も誇示していた。
見た目は完全に古城のままだったが、時代ごとに手入れを施された邸内は、空調は勿論、全てが完璧に整備されていた。だから当然だが、熱くもなれれば寒くもない。完全に快適に保たれていた。その為、一度に数百人の人間が押し寄せても少しも不都合はなかった。
中世の頃から、夜な夜な豪勢な宴が模様されたのであろうシンメトリーな豪華なダンスホールには、これまた豪華で華やかな彫刻が施されたYの字の階段があった。
その下のホールに、招待客たちが一堂に介している。
それぞれに、壁際に用意された豪華な食事を楽しみながら、王立オーケストラが奏でる最上の音楽を肴に、本物の王子方を取り巻いて歓談を楽しんでいた。
そんな中、僕は正式に跡取りとして紹介されたのだ。
ダンスホールの2階から、お客様方を見下ろしながら祖父が微笑み、僕の名前を呼んだ。
その第一声に、皆声を潜めた。
一瞬で、賑やかだった会場が静まり返る。
人々はその典雅な美声の出所を探して、一斉に階段上部を見上げた。そこには、漆黒の燕尾服を優雅に纏った麗人が居た。
「皆に紹介しよう、我が孫のユリアスだ」
響き渡る祖父の声に、招待客たちの視線が甘やかに溶ける。
「これからは、我が孫が私の代わりに、ヴィコルト家の当主になる」
その場で、祖父はそう言い切った。
余りにも変わらない姿で微笑む祖父に、皆、茫然と祖父を見上げていた。
祖父は、19歳になったばかりの僕とほとんど遜色のない兄のような姿で、夢のように鮮やかにその場に佇んでいたのだ。
やがて恍惚とした視線が、緩やかな音楽に溶け込む。
期待を裏切らない祖父の美貌に、その場にいたすべての招待客が心から酔っていた。それぞれに潤んだ瞳で、数々の芸術作品よりも価値がありそうな祖父を見上げている。
誰かが、徐に拍手を刻みだす。それに吊られるようにして、続々と拍手が上がった。やがて洪水のような音量に成長する。
それを合図にしたのか、祖父が一歩前へ足を踏み出した。
本来なら、左程特筆するようなことではないのだが、たった一歩階段を踏みしめただけなのに、招待客の中から感嘆の溜息が漏れる。
祖父は、それに、何を考えているのか判別が難しい笑みを一瞬浮かべた。
普段なら、たったそれだけの事でへそを曲げてその場から出て行ってしまうところだが、今夜は流石にそういう態度には出ないらしい。一瞬僕に視線を配ると、そのまま、溜息に埋め尽くされていそうなホールへと静かに下り始める。
僕は、祖父より一歩遅れてその後を追った。
祖父がお客様方に近づくたび、官能に溶けた溜息が、幾人もの客人の唇から零れ出す。
最後の階段を僕がおり切った時、一斉に客人たちが僕らに詰め寄った。
だが、ある意味皆慎重だった。どこか互いを監視し合って、必要以上に祖父に近寄らないように注意し合っている。
祖父が、他人に必要以上に側に寄られることを大変嫌っていると知っている客たちは、祖父でも許容範囲内の距離を、意識的に確保し合っていたのだ。
そして、お互いの身分を値踏みし合って、祖父と言葉を交わす順番をほんの目配せで決め合った。彼らは、もう既に祖父の気難しさを十分過ぎるほど理解しているので、争うこともなく礼儀正しく、暗黙の了解で弾き出された自分の順位を、何事もなかった様子で受け入れた。
僕から見れば、どなたも皆身分の高い方だったが、祖父には遠く及ばないらしい。
一瞬で、目には見えない不文律が、客人たちの間に形成される。
その様子に、僕の胸がほんの少し痛んだ。
だが、僕は内心の焦りを隠して表面上はどこまでも穏やかに、次々と入れ替わる客人たちの相手をする。
そんな僕の横で、祖父が珍しくも自ら、客人たちにを持て成すように次々と歓談を受け入れていた。
一通り、全ての招待客と挨拶程度には言葉を交わして、ようやく僕は安堵の溜息を付いた。
僕の視線のすぐ先で、大勢の人々が砂糖に群がる蟻のように、祖父を取り巻いていた。
僕は、その光景になんだか畏怖を感じながらそっと逃げ出す。
彼らは皆、僕の父親が誰だか心底知りたそうだったが、誰も、直接的には尋ねてこなかった。王室の現皇太子殿下も、噂の的である僕の事はご存じであったようなのに、何一つ尋ねてはこなかったのだ。
僕的には、誰かが一言でも発言したなら答える積もりだったのに。
何故なら、この頃にはもう僕は自分という存在を十分に取り戻していたから、だった。
それに、祖父は昨晩こういったのだ。
「明日、お前が望むのなら、お前の父の事を世間に公表すればいい」と。
驚いて、その言葉の真意を訊き返した。
何故なら、僕はずっと誤解していたのだ。
父の事をひた隠しにしてきたのは、祖父の意志だと。
父の知的障害を祖父が好ましく思っていないために、生まれてからずっと、もう何十年もの長い間父の存在を隠してきたのだと、僕はそう思ってきた。だが、この発言で、僕の見解は全く事実とは違うのではないかと気づいた。
祖父は、孫である僕が見ても十分魅力的な微笑みで、
「私の最初の妻が、お前の父を愛していたから、彼を、好奇の視線に晒したくはなかったのだろう」
と、珍しく想像を交えてそう言った。
祖父は、観察に基づいた事実しか基本的には口にしないタイプだ。だから本来なら、裏づけのない仮定の話などしない。その筈なのだが、その日の祖父は、自身の言葉に仮定詞を付けて発言していた。
「気にし過ぎだと、何度も言ったのにな・・」とも。
その言葉で、祖父が本当に父に対して何の悪感情も抱いてはいないのだと知った。
祖父は、どこか懐かしそうに思い出し笑いを浮かべて、
「我が家に生まれたのだから、紙一重なのは仕方がない」
と言った。そして、これまでも、父のようにたった一つだけ秀でた才能を持って生まれた先祖は幾人もいたのだと、当然の事実を披露する様子で言った。
その者たちを葬り去るような真似は、わが家の歴史に反する行為であるとも。
「だから、別に私としてはどっちでも構わない。発表するのもしないのも、お前が好きに判断すればいい。それに、私の息子に知的に問題がある方が、世間的には実に面白い話になるのだろう」
と、どこか毒を含んだ発言まで他人事のようにくすくす笑いで滲ませて、祖父が言う。
揶揄うような笑みまで含んだ言葉に、僕はなんと答えればいいのか分からなくなる。だが、祖父のそのそっけない態度が、嘘は微塵もないのだと僕に語り掛けていた。
本当に、祖父は全く父を隠し続けるということに、意義や意味を見出してはいない様子だった。
ただ、早くに亡くなった妻の為に、妻が望んだ将来を息子に敷いてやっていたのだ。
どうやっても、幼いまま成長しないのであろう息子を心底案じていた母は、世間の冷たい視線から幼い我が子をどうにかして守りたかった。
神のように、人々の上に存在している夫に、似ても似つかない息子。外見だけは、その血を色濃く引き継いでいたが、知的な意味で言えば息子は完全に失敗作だった。
その筈なのに、意外にも夫は、息子について否定的な発言を一切しなかった。それどころか、隠されてきた息子の才能を目の当たりにしたときに、そのままの彼の才能をあっさり認めてくれたのだ。
そして彼の望み道理、彼が自分を発揮できる道筋だけをごく自然に夫は用意してくれた。
全ての障害を取り払い、彼が自分を余すことなく表現できるように、彼の身の回りから彼を忌み嫌う者たちをすべて排除してくれた。
まるで、”知的障害など大した事ではない”、と云うようなそっけなさで。
だから夫に、息子を守って欲しいと懇願した。
あの子が、このまま綺麗な世界を信じて生きていけるように。
このまま世間から隔離して、存在そのものを隠して欲しいと。
それがいつか、歪を産むことは分かっていた。けれど、どうしてもあの子をヴィコルト家の跡取りにしたくなかった。
夫が、神様の化身のような存在だったからなおさら、血が滲むような努力をしても、”普通の人”にすらなり切れない息子が不憫だった。
彼が、夫に外見が似ている事も、この際彼の人生を阻害しているようにしか受け取れなかった。
だから、彼を隠すことにしたのだ。
夫なら、人間一人ぐらいどうとでも出来ると知っていたから。その権力と財力で、息子一人ぐらいどうとでも隠し通せるのだから。
そう、事実は、僕が想定してきたモノとは相反していた。
現実は、祖母が、父を何としても庇いたがっていた、というのもだったのだ。
ヴィコルト家の当主に、父を据えたくなかったのは祖父ではなく祖母だった。
知的に障害がある父を慮っての事だろう。真実、父とは違って知的には十分祖父の孫である事実を誇れるはずである僕ですら、その地位は辛いものなのだ。
感情の機微が鋭すぎる父に、祖父の跡取りという地位を継げるはずがなかったのだ。
祖母は、心が綺麗すぎる父をそのまま純粋に愛していたのだろう。
綿菓子のようにふわふわとした、ある意味不甲斐なく頼りない息子に、厳しすぎる地位を与えたくなかったのだ。
悪意ある人々に、翻弄され、馬鹿にされ、傷つけられる。
そんな未来しか描けない息子を、どうやっても守りたかったのだ。
そして僕のように、父の描く世界を祖母も信じたかったのだと思う。一心不乱に描きとる世界の輝きを、父という存在そのものとして、愛していたのだ。
それを、祖父は了承していたに過ぎなかった。
父を隠したのは、ひとえに祖母の為だったのだ。僕が父を守りたかったのと同じような意味で、祖父は、亡くなった妻の希望を叶え続けてきたのだ。
そのことに気付いて僕の胸が熱くなった。どこか人間離れした祖父を、同じ人間として見ていなかったのは実は僕の方だった。
「それで傷つく人間は、もうこの世にはいない」
祖父の声で、現実に思考が引きもどされる。
僕の目の前で祖父は微笑んだまま、
「第一、お前は私の孫として、そしてこのヴィコルト家の跡取りとして、明日正式に披露することになっている。もう、お前が全てを決める立場に立つのだ」
だから、私に遠慮する必要はない。
と、祖父はいつもの表情のまま優雅にそう言い切った。そして、誰が見ても溜息を付くだろう魅力的な笑みで、
「次代はお前だ、お前の判断で決めるがいい」
と、僕にすべての判断を譲ってくれたのだ。
「ねぇ、それでどうして、伯父様の事を結果的に公表しなかったの」
私なら、私がユーリーだったら、きっと私はお客様全員の前で事実をすべて言ったと思う。
だって、そうすることでやっと、おじいさまの実の息子疑惑から逃げ出せるだろうから。
彼はこれまでずっと、この疑惑に振り回されてきたのだ。
あまりにも祖父に似た容姿で生まれたために、過剰な期待を込めた視線で、常に他人から厳しすぎる審判を何重にも受けてきた。個性を無くすほどの強迫観念に追い詰められていた。必死でした努力が原因で、更に自分を追い込んでしまっていた。
その辛さを、私は理解出来る。
私にも同じような経験があったからだ。
必死で努力して集めた話題は、いつも空振りで終わった。
それは、友人たちに合わせた話題ではなかったためだったと、別れた後自己分析して反省する。反省を踏まえて、翌日には彼女達が興味を引きそうなモノに絞って話題を揃えてみる。
それなのに何故だか、会話はうまく弾まない。
今なら分かるが、彼女達の中に流れる暗黙の空気感を読めずにする発言に、誰も、同調が出来ないからだった。その事実に気付いた私は、ある日を境に、あまり口を利かなくなった。
ある意味おじいさまのように、ただ何となく微笑んでそこに居る。それが常套手段になった。本当は、誰の話にも共感できないので、返す言葉が見つからないのだ。
第一、人間が発す言葉には大抵の場合、二通りの解釈が成立するものなのだ。ちょっとした言い方や言葉使いの差で、正反対に近い答えが同時に成立してしまうのだ。
すべてを、自分に対して好意的に解釈する人も居るのだろうが、私にはそれは不可能だった。どちらかというと、言葉の裏に隠されている事にこそ意識が向いてしまう。言葉の意味をつい深読みしてしまうので、一瞬で返さなくてはならないリアクションが遅れるのだ。
皆が、一瞬でそれらの遣り取りを熟しているのを、常々不思議に感じていた。
どうやって、二通りの意味を、その場に合った解釈として判別しているのか私にはよく分からない。分からないので、私のリアクションはいつも、彼女達のペースより数秒遅れてしまう。上手く返せないリアクションに、関心を持ち続けて貰うことは難しかった。
元々、自分の家を隠していた私には、絶対的にしゃべれない話題が多すぎたのも原因だとは思う。だが、私なりに必死で、周りにいる普通の女の子に同化しようと頑張っていたのだ。
それなのにまるで、自分だけが異世界の人間にでもなったように、どうゆうタイミングで声を出すのが正解かすら、段々と判断がつかなくなっていった。気付いたら、モニターに移り込むCGのような味気ない存在になっていたりするのだ。
その恐怖感は、計り知れない。
一度でも味わったことがある者しか、絶対に分からない感覚だ。
まさか、似たような感覚に彼が居たなんて、話を聞くまで想像もしていなかったけれど。
「そうだね・・、何でだったんだろう」
あまり深く反芻してこなかったな、と彼が呟く。
「どうやら僕らはあまり、本当の意味では、感情を表現したり理解したりするのが得意ではないのかもね」
祖父も、神様のように完璧な人なのに自分の感情にはとことん無頓着だし、とユーリーが揶揄するように続ける。
「君は踊りという才能を持っていたのに、少しもそこに、自分という感情を反映してこなかったんだろう?」
と、今度は私に鋭い指摘が飛んできた。
実際、そうだと思う。
音符に隠された秘密を想像する癖があっただけで、そして自分ではどうしても解けない秘密に脅えていたから、そこからどうにか逃げ出したくて、踊りという完成された動きに、当時の私は想像の産物を当て嵌めていただけだ。
あのままプリマドンナになっていたら、きっと今頃、私の化けの皮が舞台上で無残にも剥がされていただろう。自分の感情の全てを、真実を、垣根なく全部、踊りに注ぎ込めない私など直ぐに首になったはずだ。
「そうね。そうだと思う」
「きっと、僕も同じだよ」
彼が、物凄く優し気に微笑む。
その笑みに、私の心臓がどきんと鳴った。
「言えなかったんじゃない、言わなかったんだ」
そこまでして隠してきた秘密を、僕が自分の辛さを軽減するためだけに公開するなんて卑怯だよね、と彼が自嘲気味に続ける。
「仮に、僕がその場で本当の事を言っても、きっと誰も信じないと思ったんだよ」
あの場に、父は同席していなかったし。
と彼が呟く。
どんなに自分が辛かったとしても、父を見世物にする気にはなれなかった。僕も祖母のように、綺麗なままの父で生きていて欲しいと切望していた。
だから、絶対、父を狂信的な祖父の信者たちに合わせたくなかった。もしもそんな事をしたら、子羊に群がる狼どもの例え道理、父が厄介な客人たちに汚されてしまうだろう。
それに例え、真実しか発言しなくても、それを受け取る側の人間が信じている事実と相反していたなら、それは確実に真実としては相手には伝わらないものなのだ。
誰が聞いても嘘くさく聞こえる発言でも、それこそが本当である事もあるのに。反対に、誰が聞いても嘘だと感じる釈明にこそ、真実が隠されている事もあるのだ。
どちらが先に嘘を言ったかなど、確かめる術など本当はないのだ。
だが人間は、”自分が信じたこと”だけが、どんなに真実と乖離していても本当だと信じられる生き物なのだ。そこに拭い難い嘘が介在していたとしても、自分が信じたいと思った事実が、その人にとっての本当になるのだ。
本当の意味で、確実に相手の発言を検証して生きている人間など、そもそもいないのに。
だから、自分に都合よく人は解釈する。
自分が信じたいと願う方向で、相手の発言を曲解してもそれが嘘だとは感じないのだ。どんな言葉にも、正反対の解釈が同時に共存するのが当たり前なのに、そこを疑う人間はごく少数なのだ。
そして、全体意識に解釈はさらに歪められ、何が本当だったかなど泡と消える。
「だから、きっとこれからも、僕はこのままの状態で居続けることになるのだと思う」
それこそ、おじいさまが亡くなってもこのまま消えないんじゃないのかな・・と、少しだけ嫌そうに呟く。だが、最初の頃のような辛そうな意味合いはそこには含まれていなかった。
「最近は、それでいいと思ってるんだ」
なんだかんだ言って、僕は自分が決めた通り父と母の為だけに、この世界の秩序を守る一端を担いでいるのだから、となんだか達観した表情で彼が結論を口にした。




