抱擁
そこは騒がしい街だった。
人も車も地下鉄も、何もかもが騒然としている。私が育ったロンドンの郊外にある緑の館とは大違いだ。ロンドンの中心地も同じぐらい喧噪としていたけど、この街ほどではなかったような気がする。地下鉄で五番街までやってきた私は、ほんの少しだけ後悔していた。
右手で引いてるスーツケースの柄を、何故だか力一杯握り締めながら足早に歩く。
目指す場所は、もうすぐそこなのだ。
セントラルパークの緑が鮮やかな外苑道路を北に上がっていく。
N,Yの中でも最も最上級のビル街の一室が、あの人が待つ部屋だった。そこは、回りのビルに比べたらあまり目立たないこぢんまりとした、もの凄く古めかしいビルだった。まるでそこだけ、百年以上前のまま時が止まったような感じがする。エントランスにいた黒人の太った警備員に声を掛けると、彼はすぐに私を迎え入れてくれた。まるで私がここへ来ることが分かっていたかのようだった。私はとりあえず彼にお礼の会釈をして、エントランスを見渡した。
そこは、驚くほど何もない空間だった。
あるのは、もの凄く古いが芸術的に美しいエレベーターだけだ。
こんな古いものが、現役で使われているなんて。いったいどれほどの時間と手間をかけて残されたのだろう。でも、とにかく美しいのには違いない。このビルに住む住人達にこの上もなく愛されているだろうエレベーターに乗り込むと、最上階を押した。
ゆっくりと重々しくせり上がったそれは、目的の階に到着すると思いがけず優雅に鉄の格子戸を滑らせた。
私は思わず大きく深呼吸する。
私の前には、一枚の古めかしい木製のドアがある。そこに、名前の記入はなかったが、確かにここで間違いはなかった。私の手に握られたモバイルの画面に書かれた住所で、何度も確認したから。
けれど、なかなか次の行動に移れない。
もう目の前にあるのに、何故だか怖くて動けない。ただ、ノックをすれば良いだけだと、ちゃんと分かっているのに、どうしても動けない。あまりの恐怖に足が竦んでしまう。逃げ出したくなる自分を鼓舞するために、もう一度大きく深呼吸をしてみる。
両手は血の気が引いて真っ青だった。
それでも、この階に住んでいるのはただ一人なので、他の誰かの邪魔になることも、見咎められることもないので、ほんの少し気が楽になった。
私は両手をまるで祈るように組んでから、覚悟を決めるために顔の前できつく握りしめた。
深呼吸とともに握りしめた両手を解いて、ようやく顔を上げると、左手でノックをした。
扉を開けて出迎えてくれたのは、年の頃30歳目前のうら若き栗色の髪の女性だった。
この家のハウスキーパーだと自己紹介して、彼女が笑う。少し前までは、別の職業だったのよと意味深長に続けた。
私は、何といえばいいのかわからず、ただ彼女に微笑み返すのが精一杯で、招き入れられた玄関入り口で立ち往生してしまう。
彼女はその柔らかな微笑みのまま私の背にそっと右手を回して、
「さぁ、どうぞ」
と誘ってくれる。
案内されるままに通されたその部屋は、緑に埋め尽くされた明るい居間だった。
全面ガラス張りのそのむこうに、セントラルパークの生い茂る木々が見える。まるで一枚の絵に描いてあるような美しい光景だ。その景色に、とても懐かしさを感じてようやく安心する。この部屋はまるでロンドンの緑の館のサロンのようだった。
「どこでも気に入った席にどうぞ」
開放感に溢れた現代的な居間の奥にあるオープンキッチンから、コーヒーの香りとともに親しげに声が掛かる
「もしかして、コーヒー苦手?」
貴族の娘のたしなみは紅茶のほうかもしれない。入れ直そうかと視線を投げたら、少女は窓際の光りに満ちた白いソファーに腰掛けていた。その横顔が先ほどとは打って変わって安らいだものになっていたので、
コーヒーはこのまま出すことにした。
「良く来てくれたわね、あんなEメール無視されても仕方ないと思ってたんだけど」
少女の瞳に合わせて、濃いグリーンのマグカップに入れたコーヒーを差し出す。少女は素直にそれを受け取ると
「ありがとう」
と頷く。
「アリアン・リンディア=バーグに会いに来てくれて、ありがとね」
妖精と世界中から絶賛されている女優の名前を、親しげに呼ぶこの人はいったい何者なのだろうか。
私は目の前の栗毛の女性に、視線を合わせ探るように彼女を見詰めた。
けれど、私が会いにきたのは女優のアリアン・リンディア=バーグではなかった。
私の生みの母だという、フランス系イングランド人で、今現在も貴族と呼ばれる家に生まれた、フランソワーズ・ド=ヴィコルトという名前の女性に会いに来たのだ。
「私はアリアの秘書で、彼女の親友のローリー=ケントよ。ローリーって呼んでね」
少女の視線の意味に気づいて、彼女の不安を一つ取り除いてあげるために、自分の事を説明した。少女の顔からようやく少し不安そうな緊張がとける。ローリーは続けて語りかけた。
「アリアならもうすぐこの部屋に来るから、もう少しだけ待っててね」
その時だった、繊細な模様が施されたガラス戸が僅かな音とともに押し開かれると、水色のAラインの美しいドレスを着た、本当に美しい妖精のような人が現れた。まるで映画のワンシーンの様なその姿に気圧される。ローリーは当然のように立ち上がると、アリアの手を取り、ソファーへエスコートでもするように彼女を導いた。
その、なんだか不思議な光景を、まるで他人事のように眺めてしまった。
親友という言葉が果たして、本当の関係なのかすら疑問の余地がある二人の様子に、うがった視線をなげる業界関係者は数知れずいた。ネットでは下世話な記事が出回っているのも、飛行機のなかでなんとなく調べて読んではいた。ただ、このローリーの顔写真まで検索してなかったので、今まで気づかなかったのだ。
この人はアリアの恋人ではないかと、ネットで話題の人物だったのだ。
「あら、あれはただのねつ造記事よ、私は恋人ではないから」
私の視線の意味を読み取ったのか、可笑しそうにローリーが言う。私の丁度対角線上に位置したソファーに腰を下ろした、母だというその女優も可笑しそうに微笑んでいる。
「アリアもコーヒーでいい?」
アリアがきちんと腰を据えたのを確認してから、ローリーはキッチンへ歩を進める。
その気配りを越えたかんじのする所作が、噂をさらにあおっているのだろう。そんなことを考えていたら、さっきほどまでガチガチに緊張していたのが嘘のように、体の強ばりがほどけていた。
静かに微笑むその人は、おもむろに口を開いた。
「良く来てくれたわね、ずっと、会いたいと思っていたわ」
静かな告白。
聞き間違いでないなら良いと思うような、胸を打つ独白。
「本当に、今日から、私と一緒にここで暮らしてくれるの?」
私の事を気にして、私の感情がどこに向いているのか探ろうとするように、ゆっくり言葉を選んで尋ねてくる。
その声は、飛行機の中で勝手にイメージしていたのとは真逆で、優しい声だった。聞いているだけで、警戒も猜疑心も疑いも薄れて消えてゆくような、そんな響き。それだけで、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、私はただ黙ったまま頷く。
「大きくなったのね。・・・ねぇ、抱きしめても、いいかしら?」
俯いたままの私に、彼女の白くて細い指が伸びてきて、そっと頬に触れた。愛おしむように、頬の温もりを確かめるように指先で線を撫でる。
もし触れられるのを私が拒んだら、すぐにもその手をひいてしまうのではないかと思うほど、そっと何度も撫でてくれる。
だから、私は自分から顔を上げた。
まっすぐ、母を見詰め返して、頷く。
それを待っていた母が、今までに一度も見たことのない表情で小さく頷くと、触れたら折れてしまいそうなほど細い腕で私をかき抱いてくれた。
「会いたかった、ずっと会いたかったわ」
優しい、優しい響きを耳の奥深くにそっと送り込んでくれる。抱きしめられるままに私は何度も、何度も頷いて、そっと母を抱きしめた。