決断
「ジェニーお嬢様、お目覚めですか?」
執事の声とともに、分厚いカーテンを開ける音がして、部屋中が光りに埋め付くされる。
「・・・眩しいわ、サム、もう少しこのまま眠らせて」
私の抗議にちっとも耳を貸さない執事は、ベットの天蓋に付いているレースのカーテンまでも開けてしまう。朝日が目にしみる。もう、今更眠るどころじゃない。
昨日起こった、私にとっては事件ともいうべき事態のおかげで、未だに頭の中は混乱していた。だというのに、寝坊も許すつもりのない執事に、
「どうして、サムはいつも私に意地悪なの」
頭まで羽毛布団に埋もれたまま、無駄な抵抗を試みる。だが、やはり、無駄だった。執事は私のクローゼットから今日のドレスを選び、メイドのメアリーに私の支度を言いつけて、
「奥様がお待ちですよ、お嬢様」
私から、布団をはぎ取り、満面の笑みでそう言うと、バレーダンサーのような大仰しい一礼をしてみせた。
「おはようございます、おばあさま」
純白のまるで舞台衣装のようなシルクのドレスで、食堂でお待ちの祖母に朝のあいさつをする。
「おはよう、ジェニー。今日もとても美しいわね」
以前と何も変わらない優しい祖母がそこにいた。私の大好きなおばあさま。その頬に挨拶のキスをしてから、私の指定席へ腰を下ろす。それを合図に、朝の食事が始まった。
「まだ、心の整理が付かないでしょうね」
あらかた食事を終えた祖母が、私を気遣うようにそっとだずねる。私は小さく頷くだけで、精一杯だ。
祖母は慈愛に満ちた眼差しで私を見詰めてくれる。その眼差しに、私への変わらない愛を感じられて、
なんだかとても安心する。
たとえ、血が繋がってなくても、やはりこの人は私の大好きなおばあさまなのだ。
何も変わらない。
真実が、たとえ違っていたとしても。
祖母の温かな眼差しに勇気づけられる。
だから視線をあげて祖母を見詰め返した。
祖母はそんな私を眩しそうに、目を細て見詰め返してくれる。胸の中に温かな何かが溢れてくる気がした。
「ねぇ、ジェニー、昨日のメールに続きがあるのだけど、読んでくれるかしら?」
「・・え、?」
私は、どうゆう態度をとったらいいのか、瞬時に判断できなかった。言いよどんでいるうちに祖母は執事にタブレットを持ってこさせ、
「あなたの意志を尊重するから、自分で決めなさい」
渡された画面に視線を落とすとそこには、
<もし、あなたが嫌でなければ 、私と1年間だけ一緒に暮らしてみない?>
とあった。なぜ、一年と期限が決められているのか、まったく見当も付けられないが、確かにそう書いてある。
「これって、どうゆう意味なの」
混乱が、動揺が、唇からもれる。ようやく顔を上げられた気がしたのに、撃沈された気分だ。
「言葉どうり受け取ってもいいんじゃないかしら、・・ね」
祖母の優しい声が、聞こえる。
私の母が、私と一緒に暮らしたいと願っていると、そう、理解してもいいのだと私の背を押してくれる。 でも、よくわからない。本当にそうなのか、それにどうして今なのか。
私は来週から稽古が再開される舞台で、プリマドンナデビューが決まっているのだ。
バレリーナにとって、プリマドンナがどれほど焦がれる存在か、私はよく知っている。ようやくプリマドンナの座を勝ち取ったのに、それを捨てなくてはいけないのだろうか。
考えれば考えるほど、分からない。
いったい、あの人は、何を考えて突然こんなメールを私に送りつけて来たのだろう。
私の混乱が目に見えるのか、優しい祖母がいつの間にか私をしっかり抱きしめてくれていた。
「まだ時間はあるもの、急いで決断してはだめよ。ゆっくり考えて、自分で決めるのよ。たとえその答えが間違っていたとしても、自分で決めた答えなら時間がかかっても必ず受け入れられるから」
私をだきしめてくれる優しくて強いこの両手が、いつも力を与えてくれる。私の心に寄り添って、労ってくれる。泣いて、喚いてもいいのだと言外で教えてくれる。私も祖母を力一杯だきしめて、しばらくそのまま動かなかった。
一人きりになりたくて、図書室にやってきた。
子供の頃からここが大好きで、かたっぱしから読みあさった。ここにいると、安心する。
私はお気に入りの出窓の縁に腰を下ろして、ぼんやり外を眺めた。
今、私の目の前には、二つの道がある。
ひとつは、半年後に開かれる舞台で、王立バレリーナ楽団の新プリマドンナとして、デビューが決まっているのだ。
そしてもう一つの道は、私の母だというあの人からのメールに応えること。明確な理由がわからないけど、1年という期限付きの家族ごっこをするために、プリマドンナの夢をあきらめること。
そのどちらかを選ばなくてはならない。
どちらを選べば正解なんだろう、はたして本当に正解があるのだろうか。
考えてもかんがえても、答えがない。私はまだ12歳だというのに、こんな難解な難問突然おしつけられて、しかも自分一人で決断しないといけないなんて本当に酷い話だ。
ふと、ため息が漏れる。もう何度目のため息かもわからない。頭の中を何度もなんどもぐるぐる同じ問題が回っていて、吐き気がする。もう、考えるのを止めてしまいたいのに、それすら許されない気がする。
「どうすれば、いいの」
答えが返って来るはずはない。わかっていたが、言葉が唇の端から漏れる。
自分の言葉に、なにかを弾かれた気がした。まだ形になってない答えのようなものが、ほんの一瞬見えたようなそんな不思議な感覚。結局のところは堂々巡りのままだったが、ほんの少し先がみえたような気がした。
だから、自分を信じてもう一度言葉にしてみる。
「私は、どうしたいの」
どちらを選ぶのではなく、どうしたいのか。自分の声が耳の奥で何度もなんども木魂している。
どうやら、ようやく答えらしき何かが見えてきた気がした。
「もう、行ってしまわれるのですか」
意外そうに、案じるように、けっして出しゃばらない執事が問う。
「もうすぐ、お茶の時間ですのに・・・」
私の大好きな我が家の秘伝の紅茶。おばあさまのために、もう何十年も同じ時間にお茶が出される。この館の優雅なしきたり。でも、私はもう振り返らないと決めたから。だから、さよならの挨拶もせずにここをさることにした。
「おばあさまのことよろしくね、執事サムシード。私、もう決めたから」
きっぱりと宣言して笑う。執事は少し困ったような微笑を浮かべ、小さく頷く。リムジンの扉を閉じると、左手を胸に当てて深々と頭を下げた。
「いっていらしゃいませ、お嬢様」
静かに車のウインドが閉まる。私を乗せたリムジンが音もなく光りの中に滑り出した。