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一通のメール  

 突然の一本のメールが、私の人生の暗闇を光りのただ中に導くことになるとは、この時はまだ知りもしなかった。


 ここはロンドンの郊外。緑濃い広大な敷地に古い古城が聳えていている。

 久しぶりの帰省に胸がどきどきする。ここが私の家。私はこの通称「緑の館」の主の孫娘で、ジェニファーアンティエーヌ=ド=ヴィコルトという。フランス系イングランド人で、王冠のように美しい黄金の巻き毛と、濃い緑の瞳を持つ、まだ12歳の女の子だ。

 母のいない私はこの城で、祖母に育てられた。祖母はまるで母のように優しく私を愛してくれた。小さい時から色々な体験を積ませてくれたし、特に何かを禁じられたこともない。その証拠に、今私はこの城を出て王立バレー楽団の寄宿舎に住んでいる。

 半年ぶりにレッスンが一時休止になったため、祖母の顔を見るためにこうして帰って来たのだ。

 早く祖母に会いたくて体がうずうずする。だれも見ていなかったら、今にもステップを踏みそうなほど、心臓が鳴っている。久しぶりの再会を台無しにしないように何度も自分に暗示をかけて、車寄せに止まったリムジンからようやく降り立つとそこには、よく知った顔が出迎えてくれた。

 「お帰りなさいませ、ジェニーお嬢様」

 「ただいま、サム。おばあさまは今どちらにいらっしゃるの?」

 長身の初老の執事は、にこやかに微笑んで

 「奥様は、サロンでお待ちです」

 告げると、私より先にきびすを返した。



 古めかしい外観とはまるで反対の、シックでモダンな内装に改装された館の中は、明るい光りに満ちみちていた。私は口々に挨拶を述べる使用人達に微笑んで、帰宅の挨拶をする。去年までここに住んでいたので、みんな家族のよううな存在だ。ひとしきりハグを交わして、再会を喜び合った。

 ようやく一段落がつき荷物をメイドに預けると、サロンへ急ぐ。光りが降り注ぐ廊下を真すぐ進むともうそこは、サロンだった。

 扉はすでに開いていた、お帰りなさいと言わんばかりに。

 戸口を軽くノックして中を覗くと、大好きな祖母が光りの中で微笑んで立っていた。

 「只今帰りました、おばあさま」

 「お帰りなさい、ジェニー。さぁ、こちらにいらっしゃい」

 差し伸べられたその両手に、思わず駆けだし思い切り飛び込む。祖母の体が少し仰け反るほどの威力で抱きついた私を、いつものようにぎゅうと抱きしめてくれた。

 「まぁ、随分と大きくなったのね。一年前より力も強くなって」

 微笑みながら私の頬にキスをくれる。覗き込まれた優しい瞳に、私の顔がはっきり映っている。とても幸せな一瞬。私はこのためだけにここに帰って来たのだと実感する。祖母の変わらない、穏やかで包み込まれるような優しい気配に、一気に時が逆のぼるように感じた。

 「おばあさま、お元気そうで安心したわ」

 ひとしきり抱きしめられたあと、ようやく祖母の胸から少しだけ離れて、今度は私が祖母に微笑む。

 祖母は愛おしそうに微笑んだまま、私にソファーに座るように促し、対面の祖母専用の肘掛け椅子に腰を下ろした。それを合図にしたように、執事のサムが我が家秘伝の紅茶をいれてくれる。甘い、花の匂いが心地よく部屋に満ちていく。この香りも、この屋敷にもどった時だけの特別なものだ。

 「ありがとうサム、大好きよこの香り」

 テーブルにそっと出されたカップから、温かな湯気と気遣いが溢れているようだ。

 私はカップを手に取ると、幸せな気分のまま一口飲む。

 「ふふぅ、美味しい」

 ソーサーに戻しながら自然にこぼれた率直な感想に、大仰しく執事が一礼をした。

 


 「ジェニー、貴族の娘らしく美しい所作が身についたわね。バレーの学校に進学したのは正解だったようね」

 私を眩しそうに見詰めていた祖母が、最高の賛辞をくれる。

 「それに、ますます美しくなって。あなたは、母親似ね」

 祖母のその何気ない一言に、私は一瞬で体が堅くなるのを感じた。

 何故なら、私は今の今まで、母の存在について一度も、見聞きしたことがなかったからだ。

 それはまるでタブーのようで、けして自ら尋ねてはいけないものだと信じていたほどに。

 けっして開けてはならない、パンドラの箱。

 それが、私にとっての母という存在だった。

 先ほどまでの穏やかで満ち足りた空気が一変、まるで氷付いたように辺りが静まりかえる。

 緊張と、漠然とした不安感が私を襲う。この、居たたまれない空気をどうにかしたくて、突然タブーを破ろうとしているらしい祖母を凝視した。

 いつもなら、私の視線の意味をすぐに察知して、困り事すべてをとりのぞいてくれるのに、この日の祖母は違った。こんなにも助けてほしいと懇願しているのに、話題をすり替える気配すらない。私の顔をじっと見詰めたまま、何も言わないのだ。

 「・・・どうゆうつもりなの、おばあさま」

 沈黙に耐えきれず、喉の奥から絞り出すような声で、ようやく呟く。

 パンドラの箱を開いて良いのか、それともこのまま聞かなかったことにして閉じてしまえばいいのか、分からない。

 唐突に、鍵を渡された気分だ。それも、とても悪い予感しかしないない、恐ろしい秘密の箱。

 手に持ったままのカップ&ソーサーが、カタカタと小さく音をたてて鳴っていた。

 震える手でどうにかテーブルに戻し、祖母をもう一度凝視した。

 「あなたが、帰省すると聞いたときから、この話をしようと決めていたのよ」

 祖母は変わらず微笑んだままだった。

 そんなことにすら気づかないほど、私は感情が麻痺していた。

 穏やかな声のまま、祖母はそう告げると、私から視線を外し、どこか遠く、何かを思い出すように、空中に視線を遊ばせた。

 


 その人の名は、フランソワーズ=ド=ヴィコルトと言うそうだ。現在は違う名前で、アメリカのN,Yに住んでいるという。

 美しいブロンドの髪が、私にそっくりらしい。ただ、その人は私のように巻き毛ではなくて、とても綺麗なロングストレートだそうだ。瞳の色は私よりも明るいエメラルドグリーンで、妖精のような美貌の主と、世間から認知されているそうだ。

 妖精、というあだながついている人物に心当たりがあった。

 彼女は今間違いなく、この地球上で一番に美しいと評されているハリウッド女優で、もちろん、世間的には結婚なんて一度もしていない。

 孤高の女優。美しいゆえに、誰も手さえ差し伸べられないと謳われている。


 そんな美しすぎる人が、母だと、祖母が言った。



 「これを見てちょうだい」

 

 祖母の声が遠くに聞こえて、私ははっとした。

 差し出されたタブレットに、メッセージが書かれていた。

 <あなたに、どうしても話さないといけない事があるの。私に会いに来てくれるかしら>

 味気ないPCの文字。そこには、何の感情も読み取ることはできない。

 ただの言葉の羅列。もしくはある意味単純明快な、会いたいという意志表明なのかもしれない。

 ただ私は混乱してよく意味がわからない。

 そのままの意味で受け止めていいのか、それとも、何か重大な隠し事が発覚したために、やむなく会う決断をしたのか。まったく、状況が読めない。

 混乱したまま祖母を見詰めると、祖母は慈しむような、悲しむような、何と表現するのが正解か分からない微笑みで静かに立ち上がると、私の右横に座り直し、そっと抱きしめてくれた。

 「あなたが決めればいいわ、ジェニー。無理することはないのよ」

 優しい声が、その腕が、そっと私の心に届く。

 無意識に涙が頬を伝う。

 私を抱きしまたまま祖母の右手が子供の頃のように、何度も何度も頭を撫でてくれる。その、感触に、私はしがみついて意識を手放した。






 次に意識を取り戻したときには、もうすっかり日が暮れていた。薄暗い、けれど心地よい場所。慣れ親しんだ自室のベットに寝かされていたのだ。

 「い・・っつぅ」

 こめかみを押さえて起きあがる。

 最悪な気分だ。つい何時間か前まで信じていたものが、全部なくなってしまった。大好きな祖母すら、本当の祖母ではなかったのだ。彼女は、祖父の再婚相手で、私の母だというあの人の母でもなかった。しかも、本当の祖母はもうこの世にすらいないという。

 もう、何がなんだか全然わからない。

 パンドラの箱に隠されていた秘密は、やはり最悪なものだった。

 開けなければ、訊かなければ、良かったのかもしれない。

 ぼんやりと明るい室内に、小さくノックの音がする。 返事すら返す余裕がなく、見るとはなしに眺めていた。やがて重い扉が静かに開くと、執事のサムが紅茶のセットを載せたワゴンを押して現れた。

 「おや、お目覚めでしたか、お嬢様」

 天蓋付きの大きなベットの真ん中辺りで、ぼんやり座りこんだ私に気づいた執事が、いつもの調子で声をかけてくれる。そのことにほんの少し、安堵する。

 「お顔の色がよろしくありませんよ、まだ、寝ていらしてはいかがですか」

 この部屋まで紅茶のデリバリーにきてくれただろうに、静かに気遣ってくれる。それがなんだか可笑しくて、ほんの少し笑ってしまう。

 「紅茶を煎れにきてくれたのに?」

 

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