違和感
衣桁というらしい、室内で着物をかけておく鳥居のような形をした不思議な家具を、いったいどうやって手配したのか、いつでも完璧な仕事をモットーとしている執事が、母のベットから眺めるのに一番のベストポジションに手早く設置すると、母の手から着物を預かって、皺にならないように丁寧に広げ、まるで芸術作品を展示するようにセッティングした。
「これで、いつでも眺めていられるわね」
母が満足げに頷く。
「お母様、日本文化がお好きなのね。全然、知らなかったわ」
これまでの4ヶ月間の生活の中でも、そのような話は聞いたことがなかった。
そもそも、日本文化らしいものが、この家には他にない。
何というか、この家は、たいへんスタイリッシュでモダンで、置いてある高級家具も現代家具らしい、スッキリとしたデザインのものが多く、そもそもほとんど家具らしい家具がないのだった。
ワンフロアー全て邸宅であるのに、部屋数はもちろん賃貸できるほど沢山あるのだが、そこに置いてある家具や調度品の数たるや、控えめレベルを遙かに超えており、むしろ、寂しいとすら表現できるほどのシンプルさ、なのだ。欧州の貴族の家に生まれた母には、この家のインテリアはどこか寂しくはないのかと、常々不思議に思っていた。
その、思い切りのいいシンプルさが、ある意味日本文化への心酔を意味していたのだろうか。
伝統的な日本文化は、極限まで物を排除した先にある、冷然とすら映る美、なのだそうだ。
高校の日本科の授業で、お茶の師範を兼任している日系の教師がそう言っていたのを、今思い出した。
母は私の感想に、特に何の肯定も否定も示さなかった。
ただ、私の髪を優しく撫でると微笑んで、
「ソニアおばさまに、挨拶に行きましょう。おばさまには、あなたをこんな素敵な少女に育てて頂いたお礼を、ぜひ言いたいもの」
と私の頬にキスをした。
母の手を引いてリビングに戻ると、そこにいたはずの、酔いどれた使用人や楽団の姿はもはやなかった。
おそらく母のために、執事が撤収を命じていたのだろう。先ほどまでのざわついた無礼講の会場にありがちな乱雑とした部屋が、あっという間に綺麗に片付けられていた。
一足先に戻っていた祖父は、リビングの一角で祖母との談笑を楽しんでいた。その背に、
「ソニアおばさま」
親しげに、母が声をかけた。
その声に祖母も、久しぶりにあった我が子を迎える母のような頬笑みで、振り返る。
二人はどちらからともなく、お互いを抱き寄せて、頬を寄せ合いキスをしあった。
母の本当の母親ではないという事実を、祖母の口から聞かされた時には、世間一般的によくあるように、二人の間にも難しい関係が存在しているのかと勝手に想像して心配していたが、どうやら杞憂だったらしい。仲の良さが伺える二人の様子に、私は安心して嬉しくなった。
「ソニアおばさま、私の娘を、ここまで育てて頂いてありがとうございました。お陰で、こんなに素敵な少女に成長しましたわ」
母が祖母をねぎらうように、感謝の言葉に満面の笑顔をそえてはっきり言った。けして聞き間違えないように、心を込めて。
「フランソワーズ、私こそ貴方にお礼を言いたいと思っていたのよ」
祖母が母の手を優しく包み込むように握りしめ、微笑み、その手に軽くキスをした。
「貴方のお陰で、自分では産むことの出来なかった乳飲み子を、育てるという掛け替えのない時間をもらえたのだもの。・・・本当に、ありがとう」
真摯な視線が、ほんの少し申し訳なさそうに曇る。
「本当は、貴方の手でこの子を育てたかったでしょう」
母は祖母の言葉に何も言わなかった。ただ、黙ったまま微笑んで、祖母の温かい手を握り返した。
「貴方のお陰で、本当に幸せな時間を送れたわ」
微笑み合う二人に、私こそお礼をいうべきなのではないだろうかと、私はふと思った。
私を産んでくれた母と、私を育て愛してくれた祖母。どちらが掛けても、今現在の私はここにいない。私にとっても、掛け替えの無い、大切な二人に。
私は二人の間に跪いて、重ね合った二人の手に額を寄せた。そして、心から二人に感謝の言葉を言った。
「お母様、おばあさま、お二人とも私を愛してくれて、ありがとう。私、幸せだわ」
いつものクリスマスよりも、ずっと何倍も幸せを感じる。
ツリーの下に並んだいくつものプレゼントよりも、母と祖母が同じように私を思っていてくれた事実に、感激していた。そして、世間一般とは真逆の二人の様子にも。
二人とも、私の成長や環境を考えて一番いいと思われる選択肢を、13年前に選んでくれていたのだ。ひとえに私の健やかな成長を願って。
小さい頃に感じていた違和感が消えていく。どんなに祖母に大切に育てられていても、消せなかった違和感が。
母という、誰もが極自然に持ち合わせている存在がなかったために、私にはどうしても自分の存在が、ふわふわとした頼りない風船のようなものの様に感じていたのだ。
物理的には、何の不足も不自由もない、子供にとって最高な生活環境にいたというのに、いつもどこかで何故だか不安を感じていた。心のどこかで無自覚に、本当に、ここに存在していていいのか、確信が持てずにいたのだと、今ようやく気づく。
事実、祖母の無償の愛と、多くの大人の手による沢山の親切が介在する、丁寧で贅沢な養育環境に置かれていたけれど、私のものだと胸を張れるほど執着を感じるものにも、人にも、巡り会えてはいないと感じていた。
私は自分が本当の意味で、生まれ出るのを許されて生まれた存在なのかという、自分自身に対する根源的な疑問に、いつも悩まされていたのだ。
答えのない、見つける術すらそもそも無いかもしれない難問。難解な連立方程式すら、難なく説いてしまえるほど優秀とたたえられていたのに、どうしても回答がわからない。分からないから余計に答えが欲しくて、必死で考えるのに、結局、答えは手に入らない。
だから最初から、私のためだけに贈られていた祖母の愛すら、信じきることが出来なかったのだ。
その感情が、ようやく本当の意味で昇華されていくのを感じた。
私は望まれて生まれてきたのだと、今本当に、素直に受け入れることができた。
ここにいていいのだと、むしろ、ここにいなければいけないのだと、強く、肯定されている気がする。
「お母様、おばあさま、・・私こんなに嬉しい誕生日、生まれて初めてよ」
嬉しくて、うっかり涙が零れそうになる。目頭を軽く押さえながら、笑って言った。
祖母の手が私の髪に触れ、優しく何度も撫でてくれ、母が身を屈めて私の髪にキスを埋めてくれる。
二人の母に、いつも慈しまれていたことに、ようやく私は気づけた。
震えるほどの幸福感に包まれながら、私はついに探していた答えを見つけることが出来たのだと確信した。
「そうだ、お母様に私からプレゼントがあるの」
ツリーの下に、紛れ込ませていた母へのプレゼントを持ってもどってきた。
母の瞳に合わせて、エメラルドグリーンの、薔薇の花が綻んだような豪華なリボンが結んである。
「これを、私に?」
母の手にそっとおいた。母は嬉しげに目を細め、手の内にある小さな小箱を見詰めて微笑んだ。
「お母様に使って欲しくて、私がデザインしたの」
開けてみてと母を誘う。母は、私が渡した小箱をテーブルの上に置くと、リボンを解いた。そっと開いた箱の中にあったジュエリーボックスを、大切そうに取り出してゆっくり開けた。
「・・髪飾りね」
「お母様の髪に似合うと思って」
大変に目の肥えた母に、わざわざ説明せずともそれがどれほど高価な品物かすぐにわかるはずなので、特に何も言わなかった。
母は嬉しそうに頬笑んで、私に、髪に付けてほしいと差し出してくれた。こうなることを予測して、ローリーが用意しておいてくれたブラシを、手渡された。
金糸のような母の髪に、ブラシが通る。ブラシで解くだけで、どきどきする。痛くはないか、綺麗な髪を不必要に傷つけないか心配になる。髪を解くぐらい、なんということのない自然な行為なのに、それすら母を気にしすぎてしまう自分が、なんだかかわいいと思う。
もしかしたら、母も同じ気持ちかもしれない。
いつも私の髪を丁寧に時間をかけて解いてくれる。私の髪は母とは違い巻き毛なので、さらに丁寧なブラッシングが必要なのだと、母が以前そう言っていたのを思い出し、胸が熱くなるのを感じた。
ひとしきり母の髪を解いてから、流れるような金糸の束を頭頂部に一本にまとめて、高い位置で髪飾りを留める。
「ほう、見事だな」
よく似合うと祖父が頷く。祖母も、目を細めて微笑んでくれた。
「アリア、よく似合っているわ」
ローリーが母に手鏡を手渡してくれた。母は恥ずかしそうに微笑みながら、手鏡で髪留めを確認する。
「・・綺麗ね」
「でしょう? お母様の金髪には絶対似合うと確信してたわ」
力をこめて断言する私がおかしかったのか、母が一瞬きょとんと見詰め返した。
「きっと貴方にも似合うわよ、アンティエーヌ」
ありがとうと、母の唇が花が綻ぶような印象を携えて動いた。
大好きな、綺麗な母。母の存在感を邪魔することなく、まるで一部のような出来映えで調和した髪飾りに、思わず感歎の溜息がもれる。あまりの神々しさに母に見惚れていたら、母が遠慮がちに言った。
「私からも、貴方にプレゼントを用意していたのよ」
「・・え?」
それほど驚くつもりはなかったのに、つい、唇から零れてしまった。
いつも、無記名で私に届けられていたプレゼント達。母の配慮を形にしたそれら。今年は目の前に私がいるのだから、当然母自らそれを用意していたとしても全然不思議ではなかったのに、何故だかとても驚いてしまった。
私はすでに誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントも、もらっていたつもりだったのだ。
母がくれたEメールで、母との幸せな毎日を手に入れたあの日から、私の中の時計はすでに幸福の代名詞のようなこの日に切り替わていたのだ。だから、いまさら新たにプレゼントをと言われても、ぴんとこない。
「でもお母様、私もうプレゼント貰っているわ」
母の気遣いは当然嬉しいのだが、もの凄く自分が我が儘者になってしまった気がして、一応、自分の考えを説明してみる。
この家で母と生活している今が、何より幸福な事であり、
今まで欲しくても望めなかった毎日が、すでに私の手の内にあること、
毎日、飽きることのない母からのキスを浴びていることで、満たされてしまっていること。
それらが全て、母にしか創り出せない幸せで、私がかつて渇望していたモノだったと、心をこめて母に伝えた。
私の言葉をまるで噛みしめるように聞いていた母が、もの凄く嬉しげに頬笑んでくれた。
「でも、どうしても、貴方に贈りたいのよ。我が家伝来の、腕時計なの」
私の頬を愛おしげに撫でながら母が言った。
母の言葉に何故だか、場の空気が一変した。私と母の会話を聞くとはなしに流していてくれたはずの祖父達が、身構えたのを感じた。
「私も、私の母から頂いたのよ。・・・だから、貴方にも引き継いでもらいたいの」
反対に母は、変わらず静かなまま言葉を続けた。
「貴方が、幸せになりますように。・・・代々のヴィコルト家に生まれた女の子に、時間を大切に生きるように願いを込めて作られ、伝わってきた、由緒正しい一品もののクラシカルな時計なのよ」
「そんなに大切なもの、私が貰うの、早すぎじゃないの?お母様」
母がどうしてもと言うのなら、もちろんその時計を受け取るとこを固辞したりはしない。むしろ、そこまで大切な時計を私に譲ってくれるという母に、感動を覚えている。
だがしかし、その時計は、母にとっても今は亡き母との思い出の詰まった大切なものなのではないのだろうか。そんな大事なモノを、いくら娘へとはいえ、手放してしまって寂しくはないのだろうか。
そこが気になる。
私の微妙な、引き取り拒否とは明らかに違うニュアンスに、めざとく気づいた母が綻ぶ。
「貴方が持っていてくれるなら、私の母も喜ぶわ」
何故だか母は、時期尚早についてはなにも触れず、亡くなった祖母すら喜んでくれると嬉しげだ。
「・・そこまでおしゃるなら」
しぶしぶ了承すると、母がまた一段と綺麗に綻んだ。まるで、本物の妖精のような、見ている人の心ごと引き込む不思議な微笑み。例外なく誰もが、母に見惚れてしまう。
話の行く末に緊張を隠しきれずにいた祖父達の空気が解けた。どうやら、口を挟むつもりはないらしい。
母は、私が母に相も変わらず見惚れていることを気にせずに、身を屈めると私の頬に口づけて、声にならない囁きでありがとうと、小さく唇を動かした。