父と娘
おじいさまの年齢を間違えていたので、訂正させていただきました。
「ジェニファー・アンティエーヌ、私のフランソワーズはどこにいるのだ」
頭上から唐突に投げかけられた問いかけに、一瞬誰のことを訊かれたのかわからなかった。
視線で声の主を捜す。見上げた先に、ほんの少し不機嫌そうな顔をした、母によく似た面差しの美丈夫な祖父が、威厳に満ちて立っていた。
この顔で、50代後半を過ぎているなんて何かの間違いじゃないかと、例外なく他人に思わせる奇跡のような美貌の主だ。とても、同じ人間とは思えないレベルの美形。そもそも、母が妖精と世界中から大絶賛されて久しいのだから、その父親が規格外に美しくても道理かもしれないのだが。
つい、そんな下らないことを、一瞬で考えさせられる美貌に見入ってしまった。
そのせいで質問の名前が、母の本名だったと気づくのに遅れた。
母はアメリカでは別の名前を名乗っていたので、しかも、私にとっても通称のほうが、今ではしっくりきていたので、おじいさまには申し訳なくも、すぐには気付かなかった。
「お母様のことよね?お母様は、サムが手配した楽団の方々が引き上げた頃には、いらっしゃると思うわ」
だぶん、という続きは声にはしなかった。言葉にしておいてもしも違っていたら、悲しすぎて泣き出してしまう。会場に母の姿がなかったので、勝手にそう解釈していたのだ。
確かに母は、私の誕生日をとても楽しみにしていた。
なのに、ここにその姿はない。
理由として考えられるのは、サムシードが祖母のために手配した楽団という部外者の存在だけだ。
彼らはゴッシック記者ではないが、彼らの中の誰かの口が、軽い可能性は拭えない。
妖精と謳われている女優に、隠し子がいた事実など、母の名誉を考えたら永遠に秘密にしていた方がいいのだ。彼らにその事実を話した訳ではないのだが、推察は誰にでもできる。それにどのようにでも、好きに邪推することもできるのだ。そもそも人は、自分が信じた方向にのみ、真実すら曲解して解釈できる生き物なのだから。
この家に、13歳になる女の子がいる。妖精と呼ばれている女優の、親族であることは確実である。何故なら、その容貌が女優のそれによく似ているから。あまりにも似ているので、かえって血縁関係を否定する方が不自然である、というレベルの話だった。
だから、きっと彼らが退場すれば、私はこの部屋で母に再会できるのだ。
「そんなに気にする必要が、あるのか・・?」
顎の下に手を添えて、祖父は不思議そうに考え込む仕草をした。ただの、BGMごときに?と本気で呟やいている。
子供の私にはまだどうやら本当の意味で、上流階級に君臨する大人の方々の考え方が、十分に理解できていたわけではなかったらしい。
そもそも執事の眼鏡に叶ってやってきた彼らは、ここで見聞きした事全てを黙秘することのできる人物で、その上重い守秘義務を課せらていたのだ。絶対に約束を違えることはない。何故なら、誰だって自分の人生がなにより大切だから。ほんの僅かな金銭と好奇心で、みすみす光り輝く未来を手渡すバカはいないだろう、ということらしい。
だとしたら、この部屋に母がいない事実が、急に私を不安にさせた。
「そういえば、最近お母様あまり調子がよくないようで・・・」
言葉にするのも怖すぎて、押し黙って俯いてしまう。強ばった私を、労るように祖父の手が伸びてきて、また、小さい子供にするように頭をクシュクシュと撫でてくれた。
ただそれだけなのに、ほんの少し安心する。温かなその手に癒されて顔をあげた。
「お母様の部屋に案内するわ、おじいさま」
優しく微笑んで待っていてくれた祖父に、ぎこちなく微笑み返しながら提案した。
母の部屋を尋ねた。いつもなら、開け放たれたままのそのドアが、今日は重く閉められていた。
祖父を連れてドアの前に立つ。いつもより少し重く、ノックした。
「・・はい」
幾分かの沈黙の後、母の返事が聞こえた。私はそれを確認してから、閉ざされたドアノブに手を掛ける。こんなにこのドアは重かっただろうか、私の気がかりをそっくりそのまま写し出したような重厚なドアを、やっとの思いで開けた。
いつものように、母は巨大なベットにいた。
ベットの上で、私のドレスと同じ色のふわふわとした、あまり動くには適さないドレスをなんの違和感もなく着こなして、母は女王のような風格で座っていた。
「あら、・・お父様」
私の後ろに祖父の顔を見つけて、母が驚いたような表情で、ものすごく嬉しそうに頬笑んだ。
今までに何度も見ている優しい笑顔とはひと味違う、少女のようなあどけなさが漂う頬笑みだった。母は、父である祖父が、子供のころから大好きだったのだろう。一瞬にして20年ほどの年月を遡ったかのような、笑み。
「ご機嫌はいかがかな、私のレディ?」
母の笑顔に、至極満足して、祖父が芝居ががった挨拶をする。
そんな台詞のような挨拶に、母がまた一層嬉しげに笑みを深くした。どうやら、この挨拶は二人にとっては儀式のようなもので、これがなければ始まらない類の、大切なやりとりらしかった。
母はその細い両腕を祖父に差し伸べた。
祖父は満面の笑みのまま、大股にベットへ近寄よるとそのままその場に腰掛け、いきなり母の肩を抱き寄せ、頬にちゅと音をたててキスをした。愛おしそうに、何度も何度も口づける。
母は子供のように嬉しげに、降り止まないキスに首を傾げ、父であるその人の肩に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。
ひとしきりのキスと抱擁の後、祖父が私に振り返る。
「ジェニファー・アンティエーヌ、お前もここにおいで」
母の幸せそうな頬笑みをすこし離れたところで眺めていた私に、祖父が手招いてくれる。呼ばれるままに二人のすぐ側のベットの上に、上がり込んだ。
「ごめんなさいね、せっかくのあなたの誕生日パーティーなのに・・・」
母の瞳が濡れている。熱でもあるのだろうか。それとも、体調が戻らない自分を責めているのかもしれない。私は母を安心させたくて、努めて笑顔で母を抱きしめる。いつも母が私にやってくれるように、私も母を力づけたい。だから思いを込めて大好きな母の頬に、私からもキスをした。
目を細めて受けてくれた母が、愛おしそうに私の瞳を覗き込んで、
「今日で13歳ね、お誕生日おめでとう」
優しい、本当に心から慈愛に満ちた優しい声で、私の誕生日を祝ってくれた。
生まれてきて初めての、母から直接贈られた言葉に、嬉しくてただ嬉しくて胸が苦しくなる。私を抱きしめる母の細い両腕も、いつもよりずっと力強い気がする。それすら嬉しくて、母の頬に自分の頬をすり寄せて抱きしめた。
先ほどとは反対に、私と母の抱擁が一段落つくまで、今度はおじいさまが無言のまま待っていてくれた。
「お父様、お忙しいのにわざわざいらしてくださったの」
「当たり前だろう、お前に会いに来たんだよ。・・・それに私は、基本的には暇人なのだよ?娘に会いに来ること自体、なんらおかしなことじゃない」
何故だか、おじいさまは大まじめに答えている。今まで見てきたおじいさまなら、悪ふざけの一つぐらい簡単にまぎれさせそうなのに。その言葉には、からかいもなければ牽制もない。娘に寄せる、父親の純粋な愛情に満ちていた。
「それにようやく、お前のために注文していた例のモノが仕上がったんだよ」
随分と待たせたねと、母の頬を撫でながら祖父が頬笑む。いつのまにそこにいたのか、執事が祖父の視線の先にいた。その手には、なにやら、白い長方形の紙らしい包みに入った柔らかいモノがあった。
「こちらでございます」
執事がその場に膝間ずいて恭しく母に差し出た。
母は瞳を輝かせてその包みを受け取ると、大切そうに頬を寄せた。私は幸福そうに微笑む母を黙って見詰める。こんなに幸福そうに微笑む母を見たのは、この家に来て初めてかもしれない。
「開けてご覧」
祖父の声に従って、その不思議な形に整えられた白い包みを母が開ける。
中に入っていたのは一枚の着物だった。だがそれはまるで、闇夜に咲き誇る櫻が主人公の、一枚のタペストーリーのようだった。
「綺麗ね、お母様」
あまりに見事な櫻の着物に、それ以上の言葉が思いつかない。私の感想に頷いて、母が着物をベットに広げて見せてくれた。
その木は濃紺の闇夜の中に、たった一本で凛と立っていた。まるで絵画のように美しい光景。三日月に照らされた櫻が、意地悪な風にほんのわずかに身をゆすったのか、その儚い淡い花びらを手放して、深閑とした闇夜に冷然と、優雅に立ちつくしている。
どこか、母を連想させる、芸術的に美しい着物。
「お父様、本当に素敵なプレゼントをありがとうございました」
「まるで、お前のように美しいだろう」
私と同じ感想を祖父が呟く。愛おしそうに細めた目に、何故だか涙が浮かんでいるような気がした。だが、涙は零れなかった。ぎゅと抱き寄せた母の髪に祖父はキスの雨を降らす。母は祖父のキスに静かに微笑んだ。贈られた大切な着物をそっと抱きしめながら。