不安
玄関の扉をあけて二人で帰宅した。
思いがけず、ローリーの母へ寄せる思いを聞いてしまったが、なんだか納得してしまった。彼女の母へ対する真摯な姿勢も、献身的ですらある細やかな気遣いも、そのすべてのベースに母への純粋な愛情があるのだとしたら、もう、至極当然のような気さえする。
私はまだ13歳になろうとしているただの子供なので、本当の意味でローリーの気持ちが分かっているわけではないと思うけど、誰だって、どんな形であれ、いつか特別な存在に出会うと思う。
それが、親友という言葉でくくれる場合もあれば、境界線を越えてしまう場合もあるかもしれないと思うのだ。
ただ、その感情にどんな名前を付けるのかが問題なのだと思う。
一番大切な友人に寄せる気持ちが、必ずしも友情とは限らないではないか。
自分でも気付かぬうちに、じわじわとわき上がってくる独占欲や、側にいない間に怪我や事故にあっていないかと気になって仕方なくなるのも、何か困り事に巻き込まれていないかと心配してしまうのも、突き詰めると結局、その人のことを誰より特別に感じているということなのだ。
それを、なんと名付けていいか分からない感情を、恋と認める強さがその人にあるならば、そのとき初めて恋になるのだろう。
私にはまだ、そんな感情を呼び起こすほど特別な誰かはいないけど、いつかそんな誰かに出会うときが来ると思うのだ。それが、同姓なのか異性なのかの、違いしかない。同性なら親友、異性なら恋人。そんなに簡単に割り切れるほど、人間の感情はたやすくできてはいないと思う。
だから私は、ローリーのことを否定するような気持ちにはなれなかった。
帰るなり、バスルームに直行する背中を見守る。神経質そうに、両手にハンドソープをつけ丁寧に時間をかけて手洗いしている。そんな何気ない行動も、もしかしたら、体調のあまり良くない母を気遣ったものかもしれない。彼女はそんなことは一言も言わないが、なんだかそんな気がしてならない。
よくよく考えたら、最初から不自然なぐらいローリーは母と一緒にいた。母の寝室と彼女の寝室は内ドアで繋がっているし、私が知っているかぎりいつも、母がいるところに彼女はいた。まるで看護士が看護するように、ごく自然に。母の着替えや食事の世話もすべて彼女がやっていた。
急に、不安が胸にこみ上げてくる。何か、とてつもなくやっかいな何かが母に迫ろうとしているのではないかと。
「ねぇ、本当にお母様、どこも悪くないの?」
肯定してほしくて、この不安を取り除いてほしくて、ローリーの背中に質問をぶつける。彼女はいつもの柔らかい微笑みのまま、濯がれた両手を洗い立てのタオルで拭いていた。
「どうしたの?そんなに具合が悪そうに見えるの」
ランドリーボックスのペダルを踏んで、開いた箱にタオルを投げ込みながら答えた。特別におかしな所などないのに、何故だか落ち着かない。質問に、質問で返されてしまったからだろうか。
返事に困っていると、彼女は私の横をすりぬけそのままバスルームを出て行き、母の部屋へ当然のように姿を消してしまった。私の胸に、消えない不安を置き去りにしたまま。
母の部屋のベッドの丁度正面に、一枚の風景画が掛けられてある。
そこがどこだか知らないが、母はいつもその絵を眺めていた。なんだかとても懐かしそうに、とても穏やかな表情で、飽きることなく眺めている。
いつだったか、あまりに母が眺めているので、わたしも母のベットに腰掛けて一緒にその絵を眺めた事があった。母と同じ視線の高さでその絵を見たら、もしかして、ほんの少し母の気持ちが分かるかもしれないと思ったから。
「なんだか、寒そうな感じのする絵ね」
自然と漏れた私の感想に、母が微笑む。
「岬の絵だから。でも、天使の架け橋がきれいでしょ」
天使の架け橋とは、曇り空の中、ある一点で雲が割れ、太陽の光が地上へ差しこんでいる現象で、昔の宗教画などで天使の背景に好んで描かれたことで、この名がつけらたといわれている自然現象だ。
「そうね、きれい」
私が呟いて何気なく母を見た、視線が合ったとき母が笑った。とても嬉しそうに。
「ねぇ、お母様はどうしてこの絵がそんなに好きなの?たしかに綺麗な風景画だけど、もっと明るくて華やかな絵のほうが、お部屋に合う気がするのに」
不思議に思って尋ねてみた。他の部屋に飾られている絵はどれも、明るいかんじのする風景画で、花束か植物がメインとして描かれていた。
母はまた絵を見ていた。とても穏やかに。視線を外すことなく、母が呟く。
「あの場所にまた、行ってみたいから、かしらね」
「え、お母様、あの岬に行った事があるの」
思いがけない母の言葉に、つい余計な質問をしてしまった。好奇心一杯の視線に、母は少し困ったような表情をした。とたんに申し訳ない気分になる。母を困らせたいわけじゃないのに、ただこの景色と母の存在が不釣り合いな気がしただけだったのに。
「ごめんなさい、別に無理に答えてくれなくていいの。ただ、お母様とこの風景があまりにも似合わない気がしただけ」
だから、母が何かを言い出す前に素早く謝りを入れて、おそるおそる母をみた。母の視線はもう、困惑に曇ってはいなかった。その白魚のような細い指で、私の頬にそっと触れる。輪郭をたどるやさしい接触のあと、母が私にそっとキスをする。そのまま肩を抱かれて抱きしめられた。
「ありがとう」
私の髪を愛おしそうに何度もなんども撫でてくれる。母が何に対して礼を言ったのかは結局わからなかったけど、とにかくその絵については聞かないでほしいと、言外で言われた気がして、私はそれ以上の質問を放棄した。
いつものように開かれたままの母の部屋の扉に、軽くノックしてから中に入る。
出かける前に髪を結ってくれた時と同じように、母はベッドに腰掛けてまたその絵を眺めていた。私がベッドの側まできたとき、母がなにか呟いた。
初めて聞く言葉だった。当然、まったく母が何を言ったのか理解できなかった。
そもそも、英語ではないかんじの音だった。
「お母様、いま何といったの」
独り言に口を挟むものではないことは重々承知していたが、聞いたことのない音階が気になって、つい訊いてしまった。母は、不躾な質問に不機嫌になることはなかったが、何故だか答えてはくれなかった。いつものように静かに微笑んで、私の頬にお帰りなさいのキスをくれたけど、それだけだった。何故だか胸がざわざわと騒いだ。もう一度尋ねてみようかと思案していたら、
「ジェニー、明日は朝からお客様が見えるから、今の内にドレス選んだ方がいいわ」
ローリーが、移動が可能なハンガーラックに何着ものパーティードレスを下げて、母の部屋にやってきた。ローリーの声に母が彼女を振り向く。つられて私も彼女の方へ視線をむけた。
私のドレスで重そうなハンガーラックを、母のベッドサイドにセッティングしてくれていた。
「まぁ、素敵ね」
母が楽しそうに目を細める。一緒に明日の支度ができるように、気をつかってくれたのだろうか。
「まずはドレスからね、靴やハンドバックもいろいろあるわよ」
ローリーも楽しげにドレスを広げながら言う。私の胸に一瞬だけ広がったざわめきが、静かに引いていく。母もローリーも楽しそうに私のドレス選びを始めた。色取り取りの煌びやかなドレスたち。母の楽しげな横顔が曇らないように、私も精一杯その時間を楽しむことに決めたのだった。