#05
男は虚空を眺めていた視線を膝の上に落した。だらりと下げた両腕の手首が、手の平を上に向けて、床に座り込んだ男の膝の上に置かれている。節の張った手の指は、左右両方とも形状は同じだが、左手の数本が不自然に赤く腫れ、不格好に曲がっていた。何とはなしに、その手指を見ていると、不意に痛みが走り、男は微かなうめき声を上げつつ、顔をしかめた。骨折までしているのか、単なる打撲なのかは分からないが、一旦自覚してしまった痛みは際限がない。男は深呼吸をして気持ちを落ち着けようとしたが、部屋に溜まった淀んで臭う空気は男の鼻孔と気管支に良くなかったようで、咳き込む羽目になった。咳き込む際のどうしようもない筋肉の動きで全身がびくりびくりと脈動し、つられて動かされた指は、痛みが増した。おまけに上手く酸素が脳に回らなくなったらしく、指だけでなく頭にまで鈍い痛みを起こさせた。
痛む指を逆の手で押え、身体を丸め込み、男は咳が治まるのを待った。治まった後もしばらく、呼吸が整うまでその体勢を保っていた。こちこちと時計の針が時を刻む音だけが部屋に響き、ようやく身体を起こし、顔を上げたときには、それなりの時間が経過していた。顔を上げた直後、男の視界には、大きく取られた掃き出し窓の前の、細い隙間を残して、ほとんど閉め切られた黄色と薄茶の中間のような色をしたカーテンが目に入って来た。掃き出し窓は部屋の一面を占拠しているようで、カーテンの隙間から細い植木の生えた庭と、その向うの植え込みと、うろこ雲が見えた。どこか田舎の、一軒家の一階らしい。細すぎて鳥が止まっただけでも折れてしまいそうな細い植木の枝には、ちらちらと赤茶けた葉が付いていて、常緑樹の植え込みの緑と対比を成していた。
また、指に痛みが走り、男は顔をしかめた。殴ったときに、傷めてしまったらしい。そう考えた次の瞬間、男の心臓は跳ね上がった。
…殴った、誰を?
首の動脈に、早鐘の様に打つ心臓の鼓動を感じ取った。先程の失敗から、大きく息を吸うことはしなかったが、息が荒くなって、ひゅうひゅうと音を立てた。男はゆっくりと頭を巡らせ、視線を窓の外から部屋の中に移した。すぐに大きな金属製のベッドが目に入った。ベッドの中には、ひとの胴回りほどありそうな丸太が寝かされていた。掛布団から出ている部分から、ひとの腕ほどの枝が一本、伸びていて、そこから更に細く枝分かれした先に、ひとの手の平のように五つの尖った先端を持つ、真紅の葉が幾つも付いていた。
殴ったのは、これか、と、そう男は思った。道理で、指を傷めた筈だ。右手で押えていた指を目の前に掲げてみると、先程より腫れが酷くなって来ていた。男はよろよろと立ち上がると、部屋を出て、洗面所に向かった。身体全体の動きが、自分が思うより一歩遅れて付いて来ているような鈍さをしていることに苛立ちながら、手すりを伝って洗面所に入る。洗面台に左手の肘をついて身体を支え、右手で蛇口を捻ると、流れ落ちる水に左手の赤く腫れた指を晒した。一瞬、冷たさが脳天にまで突き抜け、左手全体が冷水で痺れを起こしたものの、代わりに痛みは遠のいて行った。
痛みが和らいだことで、一息吐きつつ男は顔を上げた。洗面台に取り付けられた鏡が顔色の悪い初老の男を写し出し、男は絶句すると共に、しばしその姿を凝視した。間違いなく自分の姿である。ただ、どう見ても老け過ぎている。自分の頭の中にある自画像より、ざっと二十かそこらは年齢を食っていた。男は指を水に浸していたことも忘れ、左手で顔をぱちぱちと叩いた。鏡の中の初老の男も同じ様に手を挙げ、顔を叩く。瞬きし、口を歪めても、虚像は同じ動作をした。
心労のせいだと男は自身を無理矢理納得させた。蓄積された疲労のせいで、老けて見えるのだ。疲れているのは紛れも無い事実で、あの女は驚くほどに言うことを聞かないのだから、と思い、何か違和感を感じた。違う、あの女は裏切った、だから殴ってしまったのだ、と違和感が訴えた。そこでずきりと頭が痛み、男は思考を中断した。指先をそうしていたように、洗面台に頭を突っ込んで冷やせば楽になるのかと思ったが、止めた。代わりに出しっぱなしになっていた水を止めると、痛む頭を抱え、洗面所を出て部屋に戻った。
部屋には相変わらず金属製のベッドと、ベッドに寝る丸太があった。部屋の入り口に立って丸太を眺め下ろしていた男は、思わず笑い出してしまった。思い通りにならなかったり、裏切ったりする丸太がある筈が無い。そんな丸太が無い以上、自分が丸太を殴る理由も無い。ということは、自分はそもそも丸太を殴ってなどいなかったのだ。その結論に達し、男の笑いは爆笑に変わった。猫背気味だった背中が更に丸まり、男は手で腹を押えた。途端、それまで冷水で得た麻痺により痛みを感じていなかった指が、またぞろずきりと痛んだ。男は笑いを収めた。左手を腹から眼前に移動させ、冷水に浸していた影響で全体が赤くなっている手の、腫れた指を眺めた。では何故、指を傷めたのだろう。
がさり、と音がした。男は視線を、己の左手から音のした方、ベッドに向けた。ベッドの上の掛布団が少しずれて、端が床に付き掛かっていた。目を丸くする男の目の前で、丸太から生えている枝がびくりと動いた。男は声にならない悲鳴を上げると、丸太に飛びかかった。無我夢中でその辺りのもの、洗面器やお盆や電気スタンドを掴むと、滅多矢鱈に丸太に打ち付けた。いずれも硝子の灰皿と違い、重量がないので余り効いているようでは無かった。男はどうしてここに硝子の灰皿が無いのかと不思議に思ったが、無いものは仕方が無い。手近にものが無くなった後は、ひたすら素手で殴り続けた。
どれくらいそうしたのか、気が付くと男は床に座り込んで視線を虚空に漂わせていた。手は、今度は両方ともが赤く腫れ上がり、指がおかしな方向に曲がっていた。床には散った赤い木の葉がそこかしこに散っていた。また、埋めに行かなければならないと思ったが、何がまたなのか良く分からなかった。