530.ゼフィロス初出勤のお話4
「まさか初日からここに来ることになるとは思わなかった」
ずもーんと目の前には、鹿起館の姿がそびえ立っていた。
当然、前に来たときからその姿は変わってはおらず、少しレトロな感じなこの建物も健在だ。
前に来たのはそれこそほんの二ヶ月前の事となる。
三月の卒業式の時に、寮のほうの写真もよろしくと言われて撮影に参加したのである。
ちょっと前の事のはずなのに、あまりにもHAOTO事件のインパクトが強すぎて、はるか遠い昔のことのような気持ちになる。
「わざわざご足労をいただきまして、ありがとうございます。無理をいってしまいまして」
さて、そんな気分になりながら建物を眺めていると、隣に歩いていた若葉ちゃんが少しだけ申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
本日ここにやってきたのは、若葉ちゃんからのお誘いを受けて、だ。
ちょっと内密で話したいことがあるので、寮によってはいきませんか、とナンパされてしまったのである。
まあ、セキュリティの兼ね合いで一番安心なのが、寮の部屋の中なのは確かだ。
沙紀ちゃんが使っていた部屋もそうだけれど、徹底的に盗聴対策を取られているし、そもそも扉に耳をくっつけても中の声が聞こえないという堅牢な部屋になっているのだった。寒さ対策だ、という話ではあったけど、お嬢さまのプライバシーに関しても配慮はされているのだろう。
その仕様になっているのはいまみなさんが使っている部屋を中心に十室程度だそうだけれど、他の部屋に関しては寮の利用者が減る一方なご時世ではこれ以上は改装しないだろう、なんていう話だった。
もちろん耐震補強なんてのはしてるみたいだけどね。
「まあ、撮影で遅くなるとは思っていたし、夕飯は仕事なので作れないから! って親には言ってあるので」
そこらへんは大丈夫です、というと、親? と若様に首をかしげられてしまった。
おや、話していなかったっけ?
「うち、カメラ関係で好き勝手やる代わりに、家事もきちんとやれるようにしろっていう家でさ。家にいられる日はご飯当番もあたしがやっているのです」
「すでに花嫁修業済みですか……なんてできたご両親なんでしょう」
完璧すぎる、と若様はいうけれど、別に木戸家の両親は狙ってそれをやったわけではないのですよ?
「ほぅ、ルイ先生はメイドに就職する気などはございませんか?」
家事全般やれるとなれば、ぜひにと志農さんは無表情で言った。
ここまで熱意のない勧誘というのも初めてである。
「さすがにメイドさんレベルにしっかりできる自信はないよ?」
そこは志農さんがばっちりと押さえてくれると信じています、というと、左様ですかと彼女は引き下がった。
冗談だったらしい。
そんなやりとりをしながら鹿屋敷に到着すると、居間には数人の女生徒の姿があった。
今年の一年生の入寮は二人だけだそうで、ああ、ほんとにここも使う人がいなくなってしまいますね、と特別感慨深くもなく志農さんは言っていた。
まあ、泊まる人がいなくなったら、それはそれで合宿所とかにしてしまうプランもあるだろうし、再利用などはそれなりにできるだろうからね。そこらへんもあってあまり心配はしていないのだろう。
じゃあ、壊しますというようなことを理事長先生はしなさそうだし。
「おろ。ルイじょーちゃんじゃないか。ついにおまえさんも教える側かぁ」
初出勤おつかれさん、と声をかけてきたのは寮母のおねーさんだった。
彼女はゼフィロスに似つかわしくない、粗野な態度でようと手をあげての挨拶だ。
「こんにちは。今日は夕飯お願いしちゃってすみません。楽しみにしています」
「いいってことよ。別にちょっと飯を炊く量を変えればいいだけだからな」
じょーちゃん一人くらいなら、あんまり食べ尽くされるってこともないだろうし、と彼女は笑う。
まあ、そりゃ、普通の男性に比べれば食べる量は少ないとは思っているけれど。
普通の女子と同じと思われるとちょっと、それはどうなのかな、という気にもなる。
ちなみに、ご飯の手配は若様がやってくれました。
今年の寮はときどきこういうこともあるそうで、人が増える、減るというときは四時までに連絡を、というのが寮の規則に増えたのだそうだ。
「それでは、我々は部屋にいったん行きますので」
夕飯楽しみにしております、と、志農さんはさらっと一礼してルイをひっぱった。
時間はそうあるわけでもないし、さっさと本題に入ろうというところなのだろう。
確かに夕飯までの時間は三十分もない。
それで寮母さんが余裕なのは、いろいろ仕込みは終わっているからなのだろう。
「相変わらず風情がある建物だよね」
ぎしぎしと階段を上っていくと、若様の部屋に案内された。
あいかわらず、部屋の中はなんというか……
「乙女チックで可愛い部屋ですよねぇ」
「……うぐ。後輩にもさんざん言われてるので、そっとしておいてください」
この部屋の中があまりお気に入りではないのか、若様が灰色な顔を浮かべて目を背けていた。
うーん。是非とも部屋の風景を撮らせていただきたいけど、ここはさすがにいろんな意味で駄目かなぁ。
セキュリティという問題もあるし、心のセキュリティという問題もあるし。
「母の趣味というやつです。ちなみに理事長も一緒になって、きゃーきゃー言いながらこうなったみたいで」
もうおばさまは十分元気になったと思います、と若様はげんなり言った。
うーん、まあおばさまに関してはもう、これでもかと女装潜入系のゲームやりまくってたせいもあると思うのです。
大抵、あの手の物は部屋が乙女チックだったり、服装がゴージャスだったりするものなので。
イベント回避の勉強用っていう話ではあったけれど。
「ちなみに、ルイ先生のご自宅もこのようにファンシーで愛らしいのですか?」
「うち? うちは殺風景だよ? 全体的に寒色系だし。あ、でもぬいぐるみはいますけど」
ぶさかわいくて、ときどきぎゅむってしちゃうんですけどね、と言うと、まじですかこの人……と、志農さんには変な顔をされた。
うーむ。別に、ぬいぐるみが部屋にいるくらい普通だと思うのだけれど。
「ちなみに志農さんのお部屋はどんな感じなんですか?」
ああ、ご実家のほうですよ? というと、うちは、その、とちらりと彼女は若様のほうを見た。
「明日華はうちで生活しているので、部屋は使用人部屋という形です。まあ純和室という感じで、布団で寝るというスタイルですね」
「まあ、本家の方も和風でしたし……志農さんのストイックさを見るに、和室は似合うのでしょうね」
すごく綺麗にしていそう、というと、あ、あたりまえな事をしているだけです、とわたわたされてしまった。
是非とも撮りたい姿なのだけど、残念ながらここは若様の部屋なのでした。
「とりあえず、先生は椅子の方へどうぞ」
「ああ、どうも」
さて、暖色系たっぷりのその部屋にあるのは、レースたっぷりなベッドと、勉強机、そして本棚とクローゼットという感じなのだけれど、そのうちの椅子を提示されてそこにちょこんとお座りさせてもらった。
若葉ちゃんはベッドにぽすんと腰を下ろす。
うん。一年の女子校生活ですっかりとスカートの処理がうまくなってしまっているようだった。
もはや、ずっぽりである。
「これ……咲宮のおうちとしてはOKなの?」
ベッドの脇で立ったまま控えている志農さんに、困惑しながら尋ねた。
自分で望んでそうなるなら良いのだけど、はたしてこれはどうなのだろうか。
そもそも二年目に突入とはどういうことなのだろう。
後戻りできなくなってもお姉さんは知りませんよ?
「そこの辺りを説明しようと思って、お連れした次第です。変なことを言い出されても困りますから」
はぁ、と志農さんはため息まじりにルイに視線を向けてきた。
余計なことはいうんじゃねぇぞこのやろうという感じだろうか。
「そういうことなら伺います。事情は知っていた方が言わない方がいいこともわかるだろうし」
そう答えるとよろしいという答えが返ってきた。
にしても、若葉ちゃんが二年目も女子高生をやっている理由か。
まさか本気で診断書取ろうとか、実はあたい女子なの、とか言い始めるのだろうか。
そうだとしたら咲宮のご当主様の判断ミスだとしか言えないなぁと、ちょっと背中がぶるりとしてしまった。
この試練受けてる子、いちおうなんとか一般的な性癖なのって、沙紀ちゃんだけになってしまう。
ああ、でも、自分が女性だと思っていても女の子と付き合う人だっているんだっけ?
「まず、咲宮本家から言われているのは、一年間女子校で生活をし、そこで問題を起こさず過ごせということだというのは、ルイさんもご存じだと思います」
「ええ。そこらへんは一昨年から知ってますし、口外もしていません」
いくらなんでもとんでもなことなので、というと、うんと志農さんはうなずいた。
さて、果たしてもう一年延ばしている理由はなんなのだろうか。
正直去年の感じだと、若様は息も絶え絶えで、早くこんな生活やめたいなんていっていたはずなのだけれど。
「本来ならばこの前の三月で若のチャレンジ期間は終了だったのです。でも……その」
「一年より二年やった方が、本家の覚えもめでたくなるんじゃないかってことで、一年延長してみたのです」
ちらりと、少し不満げな顔を浮かべている志農さんと、ある程度覚悟を決めている若様に少し温度差を感じた。
おそらく志農さんとしては、もう約束の期間は終わったし、普通の生活に戻ればいいのではないか? なんて思っているのだろう。
そりゃ、明らかにここでの生活自体は異常だからね。
うっかり、みんなやってるから、そういうもんだーとか思ってしまいそうになるけれど。
「ずいぶんと無茶をしますねぇ……」
「ですが、ある程度覚悟は決まりましたから。去年と同じく過ごせば大丈夫と思えばなんとかといったところです」
去年の秋口に比べれば圧倒的に、気分に余裕はでていますと彼は言った。
あのときはほんと、もーやだー、とか言ってたのにね。
「後輩でめざとい子とかはいないの? ぐいぐい来てお姉さまの秘密がばれちまったいー、みたいなのは」
「ああ、そこはないですね。今年入った子たちも良い子達ですし」
むしろ彩ちゃんが、いろいろ脅威ですと、二人は遠い目をした。
まあ、あの子はエレナのこともよく知っているし、実は知っていながらな気がするんだけれど。
「そこらへんはうまくやって欲しいかな……あたしからはあんまりフォローもできないし」
年長者がしっかりと支えていただかなければ、というと、もとよりそのつもりです、と志農さんはぷぃっとそっぽを向いてしまった。
主人思いの人である。
「ああ、明日華。そろそろ寮母さんの手伝い、してきた方がいい時間じゃない?」
そんな彼女のことを思ってなのか、唐突に若様は時計を見てそんなことを言い始めた。
確かに、すでにもういい時間だ。
配膳などの手伝いをするならば、今ぐらいから下に行った方がいいのだろう。
「あまり時間が取れませんでしたね。あとは聞きたいことがあったら若から聞いておくようにしてください」
なぜ写真部に入ったのか気になるでしょうから、と彼女は言うと、ちらりと若葉ちゃんに視線を送りながらも階段を降りていった。
いちおう重要なことは話したので、あとは任せますというような感じだ。
「相変わらず志農さんは警戒心ばりばりですねぇ」
ほんと、心配されまくりですね、というと、あの子も危険だというのはわかっているのでヒヤヒヤしてるのでしょうと、若様は困ったような、それでもにやけた顔を見せてくださった。
撮影禁止でなければ思う存分撮るところなのだけど。
「なんだか、嬉しそうですね」
「ルイ先生にはわかっちゃいますか……」
「まあ、去年会ったときよりずいぶんと余裕がでてきたなって感じなので」
さすがは二年生ですね、と言うと、彼はちょっとだけ背筋を丸めて、ずーんと沈み込んだ。
覚悟は決めたみたいだけれど、やっぱりここに居残る事自体はあまり本意ではないようだった。
「実は……さっきのここに残るようにした理由がもう一つありまして」
明日華には内緒で、聞いてはもらえませんか? と若様はそう切り出してきたのだった。
寮にやってまいりました。
いいですねぇ、女子寮。しかもお嬢さまのだとなおさらいいです。
ゆったりした気分になれるのは……いいなぁ。
さて、そんなわけで若様の告白はまだまだ続きますよ。明日華さんには聞かせられないようなあのお話が!




