512.石倉さんちの社員旅行7
「なんで、こんなところに私がいるのか、いまいちわからない、という顔をしていますね」
背後からかけられた声に振り向いた元女マネージャーは、その人物の顔を見て顔をこわばらせた。
そして、そのままくいっと、手に持っているビールをあおる。
酔っぱらって幻でも見てるかなぁという感じなのだろうか。
「まじめな話をする予定です。ずいぶん酔ってらっしゃるようなので、これでも飲んで落ち着いていただけませんか?」
すい、とペットボトルの水を差しだしながら、HAOTOのマネージャーは彼女の隣の席に腰を下ろした。
うん。向かいの席じゃなくてちょっと良かったかなと木戸としては内心ほっとする。
「もう辞表は出したはずです。あなたとは関係ないはずです」
いったいなんですかと、彼女は水を無視してそのままビールに口をつける。
まともに話をする気はない、というところだろうか。
「いいですか? 雇用契約というのはそんなに一方的に断ち切れるものではないのですよ。自己都合の退職とて一か月前には言っていただかないと困ります」
雇用契約というのは、それなりに拘束力があるものなのですよ、と彼はまじめな顔を崩しはしない。
「うわぁ、芸能事務所って、なんかドラマとかだと、出てってやる! みたいなのだと思ってたけど、割としっかりしてるんだ……」
様子見をしてみたかったのだけど、さすがにこそこそしているのもよくないな、と思って先に声をかけておく。
堂々としておくこと。これが疑われないための第一歩である。
「おや、一緒にいるのはだれかと思ったのですが……まさかこんなところで木戸くんですか?」
「ですね。俺もこんなところでって感じですよ。ちらっと見かけたので声をかけたんです」
「ああ、音束とも顔見知りだったんですね。私が離れていた時もあいつらと仲良くしていただいて……」
ああ、本当に感謝してもしたりません、とマネージャーさんはうるっと泣くようなしぐさをしたけれど、まあ、演技である。
ちなみに、音束ってのは、女マネージャーの名前ね。木戸も忘れかけてたけど、たしかそんな名前だったように思う。
家に名刺はおいてあるけど、それを見れば下の名前も思い出すかもしれない。
調べる気もないけれど。
「ちょうどやらかしたタイミングのときにこの人でしたよね。噂にあんまりならなかったMとしては、ちょーっと根にも持ってるんですよ」
謝罪金もいただいたのであまり言いたくはないですが、と軽く視線を逸らすと、その節のことは私からも謝罪させていただきますよ、と、いたわりの言葉をかけてくれた。
うん。いちおういまのHAOTOマネさん、ちょっと強引なことをしたり、ルイを強引に誘ったり、ってのはあるけど、基本的には気配りのできる、ビジネスマンって感じなんだ。
ネジはたしかに抜けてるところはあるけど、それ以上を見てしまっているので、ルイとして勧誘されるのを無視すれば最近はそこまで苦手意識もない相手なのである。
というか、目の前で全力土下座できる人だし、なにげにメンバーにちゃんと注意もするし、ああいうのを見せられると、まあ悪くないのかなっていう感じにもなったのだった。
芸能界にお誘いされるのは断るけど!
「さて、では話をこちらにもどしましょう。音束さん。あなたの退職届ですが、うちの退職に対する規定では、職員は退職届の提出が退職日の三十日前とされています。一般的にも最低限二週間前には退職届をだすものです」
明日から来ません、なんてそんなことがまかり通る世の中ではないのです、というマネさんに、彼女は余裕の表情で切り返した。
「別に、雇用者が労働者を守る義務はあっても、こっちは勝手に辞められるものでしょ」
それを辞めさせないとか、ほんとブラックといいつつ、彼女はジョッキのビールを飲みほした。
口の周りに泡がついているのだが、もう気にできる余裕はないらしい。
「木戸くんにも悪影響だから言っておきますが、円満退社をするなら双方の合意をとることと、引継ぎと根回しは必須です。明日から来ません、というのは社会人としては最もやってはならないことです」
苦しくても引継ぎが終わるまでは我慢です、となぜか彼はこちらに話しかけてきた。
これを社会人と思うな、というアピールだろうか。
「まあ、無断欠勤を繰り返した挙句に、懲戒という形もとれますが……あなたの今後にそれは響きます。少なくともあなたの履歴には、それが残ることになる」
退職金についてのことは触れませんが、と彼が苦笑めいたことを言っていたけれど、果たしてどういうことなのだろう。
「と、まあ、ここまではしくみと社会人として、の話でしたが」
ああ、ビールのお替りでも欲しいですか? と視線をうろうろさせている女マネに問いかける。
彼女は、恨めしそうに食堂のほうを見ながら、それでもさすがに席を離れてお替りを頼むような真似をすることはなかった。
その代わり、バッグに仕舞ってあった、缶チューハイを取り出す。
「……そこでお酒追加ですか。どうして仕舞ってあったのかお聞きしても?」
「部屋用よ。自販機もあるけど、ああいうの、割と早く売り切れちゃうじゃない」
今回の旅行はほんとぶっつぶれるまで無礼講するんだ! と彼女はプルタブをかしっと開けながら、こくこくとそれを飲み始めた。
……ひどい酔っ払いである。無礼講の意味合いも違うし。
「いちおう、ここからは、言った言わないになるでしょうから、録音させていただきますね」
はぁ、と言いながら彼はICレコーダーを取り出した。
ここからは、とかいいつつ、すでに操作をせずにRECの赤いランプがついているので最初から録音はしていたのだろう。
そんなことにすら、音、束さん? は気づかなかったようだけれど。
ちなみに木戸さんのカメラもRECモードで稼働中である。最初に席に座った時にはもう角度も調整して仕込み済みだ。
自白として後で使えるかもしれないしね。
え、お風呂に行くのにカメラ持ってくのかって? そりゃまあ……お風呂の中までは撮れないけど途中でふらふら撮影したいなとも思っていたので。それに女子更衣室にカメラを持ってくのよりは危険度は下がるとも思ったのである。
「ここからは個人の話をしましょうか。あなたとはあまり、話もできませんでしたからね」
飲み会の席などでも、遠巻きにされてしまっていましたから、と彼は意味ありげに腕組みなどをしはじめた。
きっと、社長のところべったりで、ほかの職員を近づけなかった、とかそういうことなのだろうと思う。
「あたしからは特に、話したいことはないけれど」
ストロングは効くわぁーとか言いながら、彼女は缶チューハイをあおる。
そろそろ一缶が終わりそうだ。そう。きっと一巻の終わりというやつである。え、違う?
「今回の騒動を収めるために、協力する気はありますか?」
彼は、少し冷めたような顔をしながら、それでも真摯にその提案をした。
欲しい答えはもちろん、イエス。
ただ、彼女は面倒くさそうにちらりとマネさんに視線を送りながら言った。
「さっきも言ったけど、もうあたしは辞表を出しているんです。どうしても手伝ってほしいというなら、今までよりも好待遇で迎えてほしいものね」
「たはぁ……」
いつもきりっとしているマネさんが、がくっと肩を落とした。
あんまりな言いぐさである。そもそも自分が手伝うことでかなり状況は好転するはず、とすら思ってるあたりが、もう本当にダメダメだった。
騒動の元としては、そこを起点としていろいろ解決できるとか思ってるのかもしれないけれど。
それをしたところで。「出火元などもうどうでもいい」タイプの炎上になってしまっているので、いまさら動画をばらまいた人間の話がでたところで、なんの解決の助力にもなりはしないのである。
世間のみんなが欲しているのはなんだろうか? それはきっと、誰もが納得する都合のいい現実というやつだ。
前に会議した時にも出たけれど、人気者のHAOTOを、ルイがたぶらかしたというストーリーを信じたい人はそれなりの数いる。
もちろんそれなりにルイ擁護の声もあるし、知り合いたちは、あのルイがこんなことをするわけないし、と公式が発表しているカバーストーリーのほうを受け入れてくれていたりもするのだけど。それでもその数はそんなに多くない、というのが実情だった。
ファンクラブのほうにも連絡をこそっといれてみたのだけど、会長さんからは、憤慨のメール殺到だよ~ってか、木戸くんもメール処理手伝いにきてよーなんて泣き言がくる始末だった。
「事件のことはご存知なのですよね。貴女のばらまいた動画でうちはもう、ぼろぼろですよ。それに関してはなにか思うところはありませんか?」
「いい気味じゃないの? それにあなたは有能なのだからこれくらい上手くさばけて当然でしょう?」
「……この問題をすぱっと解決できるとしたらそうとうですよ。社長でも、当然私でも難しい」
ま、当事者たちにはこんな弱音は吐けませんが、とマネージャーさんは本当に困った顔をしていた。
うん。あの会議の時はなんとかなる! って感じに見せていたけれど、実際のところは厳しい状態ではあるということらしい。
それを木戸の前で話すのは、今回の件とは無関係な人間で、かつHAOTOの友人だからなのだろう。
「少しでも人手は必要なんですよ。それにほかの職員のモチベーションの問題もあります。あなたが謝罪をしてがむしゃらに働いて、それで一緒に同じ方向を向いて働く、というようなことでなければ、正直うんざりでして」
「こっちのほうがうんざりよ。いままでさんざんあたしにつらく当たったくせに、いまさら手のひらを反すっていうの?」
「むしろ、こちらのほうがうんざりなんですがね」
ぼそっと木戸も小声でそう呟いてみるくらいは許されるだろう。
さすがにあんまりな対応に、ここまででも社会人ってやれるものなのかーと感動すら覚えてしまうほどだった。
品行方正な人ばかりが働いているわけではないとわかってはいても、ここまでダメダメでも仕事が務まっていた現実にちょっとめまいがきてしまいそうなほどだ。
「つらく当たったつもりはありませんよ。適切に仕事の割り振りはしていますし、あなたにはチャンスもあった。でも掴めなかったのはあなた自身でしょう」
あんまりな彼女の答えに、マネージャーさんも少し声のトーンを落として責めるような口調に切り替えた。
空気が少し重くなったような感じだった。酔っ払いにはあまり効果はないだろうけれど。
「は? あたしがチャンスを掴めなかったですって? HAOTOのことは変な横やりが入ってご破算になっただけのことよ。恋愛OKになって彼らの人気は前よりも良くなったはずだわ」
「結婚してくれとか、付き合ってくれないと死ぬとか、物騒な手紙が増えましたけどね」
ぼそっと言われたそのことは、木戸も初耳だった。
恋愛OKになる、ということはそれだけガードが下がるということだ。そうなればあわよくばと考える人もでてくるのかもしれない。
「蠢のことだって、女性アイドルとして売り出すのがどう見たっていいに決まってるじゃない。それか男装アイドルね。男性アイドルにはない美しさを備えて注目の的になるって形が一番よ」
「まだそんなことを言いますか、このおばちゃんは……」
「あら。木戸くんはご不満なのは相変わらずね」
ほんと、困った子だわ、と彼女は二缶めのチューハイを開けた。
あのバッグの中にはどれだけのお酒が入っているのだろうか。
「音束さん。あなたはいろいろ勘違いしているようだから、あえて新人に言い聞かすようにいいますが」
よれよれスーツのマネージャーさんは、少し身を乗り出すとこほんと咳ばらいをしはじめる。
「マネジメントとは、自分の望み通りにあの才能たちを動かすことではないのです。才能それぞれを開花させ、必要とされるところに連れていく。つなぐ仕事が我らの行うことです」
「あたしだって、あの子たちのことを思ってやっていたわ。どういう仕事が合うだろうって計画も立てていたもの。出る番組の選定もしたし、あまり品位を下げるものは断ったりもしたわ」
「でも、本人たちの意向はまったくもって、汲み取ろうともしなかった」
そこがいけないのです、と彼は言い切った。
「はぁ? 大人として若い子を指導することのどこが悪いっていうの? それに彼らは商品よ。それをどう加工するかはこちら側の仕事でしょう。いちいち本人たちの意向とか聞いてたら仕事にならないわ」
そんなの当たり前じゃないといいながら、彼女は、大きくあくびを漏らした。
お酒が回って眠気でもでてきているのだろうか。少しテーブルにもたれかかるようにしているので、もしかしたらそのまま寝てしまうつもりなのかもしれない。
「ま、それも考え方としては一つありではあるのですが……ね」
あれだけの人気グループに育っている相手となると、それではだめですとマネージャーは言い切った。
売り出し中の若手をうまく芽吹かせるためには、本人たちが嫌がったとしても無理な仕事をさせることはある。
けれど、すでにHAOTOはそのレベルを超えている。
そして、そもそも蠢のことは、本人の意向として男性として仕事をするというのが最優先事項であって、それは芸能活動と天秤にかけてもおつりがくる事柄なのは、見ていればわかることだった。
「私なら、蚕が実は男の子が好きだと発覚しても、それの傷を最小限にしつつ、その事実を最大限にするための方策を考えたことでしょう。けれどあなたは、何をしましたか?」
マネージャーは盾でもなければなりませんので、と彼は言う。
それには、音束氏も反論はないようで、大あくびをあげているところだ。
「なにもしなかった、違いますか?」
「どうして、男同士で付き合うのかわからないって思って、フリーズしてたんですよ、きっと」
思い通りにいかないでヒステリーをおこしたんですってば、と合いの手をいれると、マネさんは、なにもしてない以上か……と、げっそりした。
「あなたがついた半年間、さまざまなお騒がせがありました。炎上商法を私は否定しませんが、彼らにとって必要だったかは悩ましいところです」
そして最後にこんなお騒がせまでさせてくるとは、ほんと……もう、勘弁ですといいながら、マネージャーさんは先ほど受け取ってもらえなかった水のペットボトルをあけると飲み始めた。
「騒動のほうは落ち着きそうなんですか?」
あれから数日。テレビやネットの情報はチェックしているものの、業界的にはどうなのかを改めて聞いておきたかったので声をかけた。
「正直微妙なところです。さわやかさが売りなCMだと契約がキャンセルされたりもありましたしね。あれが練習動画だという話も、信じてくれる人と、どうせ言い訳でしょという感じな人とに分かれてます」
まあ、どちらかというとルイさんエロいという意見のほうが多いですし、むしろあの子起用したいんだけど、っていう声が多かったりするんですけどね、と彼はなぜかにまにましていた。
ええと。マネージャーさん。どうよ自分の発掘能力! とか思わないでいただきたいのですが。
「いっそ、ルイさんが男だったら、なんの問題もなく練習動画ですと言い張れるのですが、さすがに無理があるでしょうしね」
いやぁ、前に会議したときはルイさん、まさかの男装をしてきてくださったのですよ、と彼は先ほど音束氏に話していたのとは変わって明るい声音になった。ちょっとテンションアップという感じだろうか。
「男装……男装ねぇ……」
さて、果たしてこの人は目の前の人がルイさんの中の人だと思っているのかどうか。
ちょっとあきれた顔をしてみせたのだけど、彼は、ああやっぱりあのルイさんが男装とか驚きですか、なんて明るい顔をして言っていた。
どうにもこの人はいまだにルイのことを諦めきれていないらしい。
「そんなわけで、あなたには火消しの手伝いをする義務が……って」
音束氏ごしに二人で話をしていたのだけど、テーブルに体を預けていた彼女はいつのまにか、すーすー寝息を立てていたのだ。
「これ、寝てません?」
「寝てるね……どこからだろう」
「たっぷり呑んでましたし……」
なんか糸が切れるような寝落ちっぷりですねぇ、とげんなりした声を上げると、なんかすごい無駄足したような気がする、とマネージャーさんもがっくりとテーブルにへたりこんだ。
「さて。それでこれからどうします? この人ここに置きっぱなしだと、迷惑になりますかね?」
「いちおうホテルの人に話はしてみましょうか。変に私が介抱でもしたら、セクハラだとか言い始めかねませんし」
ああ、ハラスメント社会がつらい、と彼は肩をすくめた。
「じゃ、俺はそろそろお風呂にでも行かせてもらおうかと思います」
「ああ、お風呂の途中だったんですか。変な話に巻き込んですみませんね」
おっと、口止めの話はしなくても、わかりますよね? と彼はHAOTOに先ほどここで話した件を伝えないでほしいと念を押してきた。
そりゃまあ、彼らに気兼ねなく働いてもらうために、マネージャーが支えてるわけだしね。
「ええと、あとはこれか。さっき俺がこの人と話してた内容とかも、動画で撮ってあるんですが、いります?」
カメラのRECを消してから、どうしましょう? とSDカードを見せびらかすと、彼は無造作に財布を取り出した。
あれ。別にゆすろうとかそういう話ではないんだけどな。
「カードごと売っていただくことはできますか?」
「ああ、カード代金的な意味ですか?」
「ええ、みんなから君は極度の貧乏性だと聞いてますので」
しっかり適正価格で引き取らせていただかないと、あとが怖そうだ、と彼は弱々しく笑みを浮かべた。
そりゃ確かに無償提供はしたくないし、カード代出してもらえるのはありがたいのだけどね。
「あ。何枚か宿の写真入ってるので、それは後で回収させてもらいますね」
「かまいませんよ。というか私もさすがに今日はここに泊まりますからね。明日の朝、それは受け取りましょう」
お支払いはその時でも? と言われていちおう頷いておく。
他に予備のカードは何枚か完備しているし、一枚渡してもそこまでのダメージはない。
いったん取り出したSDカードをカメラに戻して、ちょっと疲れ果てたマネージャーさんを撮影した。
「私のことなど撮ってもどうしようもないでしょうに」
「こんなになってまでがんばってますアピールということで」
HAOTOのメンバーに送り付けてやるしかないですね、と言ってやると、それは勘弁してくださいと彼は立ち上がった。
どうやら宿のスタッフを呼んでくるらしい。
「はぁ、これが乙女ゲームとかなら、歌の力で万事解決! みたいになるんですがねぇ」
しみじみ言う、マネージャーさんは本当に疲れた声をしていたのだった。
マネージャーさんたちの話はこう、しっとりという感じになりましたね。
あんまりガチバトルっていう感じにならないというか、これが暖簾に腕押しというやつかーと。
書くのに苦戦して一日遅れました。けしておとぼく3にがっつりはまったわけでは……わけではあるのですが。
そしてこっそり木戸くんがまたRECしてたりします。
動画撮影はめったにやらない子ですが、むしろよく会話中カメラいじらないで我慢したとほめてやりたいくらいですね。
さて、次話は旅行のクライマックスですね。石倉さんたちとのあれやそれやを予定しております。




