510.石倉さんちの社員旅行5
「眼鏡? 風呂なのに眼鏡なの?」
え、と森山さんは脱衣所で不思議そうに首をかしげた。
彼とて眼鏡な人だけれど、さすがにお風呂に入るときは外すようだ。
「お風呂用の眼鏡です。相棒はきっちりと一緒にいないとね」
きりっと眼鏡のふちをさわってそういうと森山さんは、おぅと言った。
彼はすでに眼鏡をはずして裸眼だ。
いちおう風呂に入る程度の視力はあるということだそうだ。
「裸眼のほうがモテそうとか、森山さんいわれたことないですか?」
「……いまは、もてるとかより、写真撮ってたいし」
素顔が割といい感じだったのでそんなことを言ってみたのだけど、彼はふいとこちらの言葉をかわして浴室のほうへと向かってしまった。
どうにも、彼も触れてほしくない話題だったらしい。
「素顔のほうが、ってのは、人によってはトラウマになるよな。あいつ昔ちょっとあってな。それでコンタクトから眼鏡に変えたんだ」
「うわ、マジでMか……」
石倉さんの説明を受けて、うわぁと木戸は驚いた顔になる。
ちょっと自分に似てるなぁなんて思ってしまったのである。
「ん? Mって木戸くんのことだよね。木戸くんも素顔になにかコンプレックスでも?」
「ああ、まあ、なんていうかいろいろと遊ばれたりしましてね……それで」
いやな思い出なので、そっとしておいてもらえると、というと、なにー? と石倉さんはがしっと肩に腕を回してきた。
ちょ。あまり接触は。男ど……あれ。男同士だからいいのか? え?
「木戸くんをもて遊ぶやつがいるなんてなんとけしからん! 今なら俺が許しはしないのに!」
「いや……えと……はい。とりあえずさっさとお風呂入りましょうか」
もう、酔っぱらいすぎじゃないですか? といいつつ、やんわり回された腕を引きはがす。
いくら男同士だっていっても、それはダメ。
「まだこれくらいなら酔っぱらったうちに入らないよ。っていうか酔って風呂に入るのは危険だよ」
「なら、さっさとしましょう」
ほれ、服脱いでお風呂行きましょうと急かすと、そんなに急ぐだなんて、と変な反応をされてしまった。
でも、こればっかりはしょうがない。
今のお風呂状況といえば、見事にがらがらなのだ。
脱衣所においてある服はないし、まさかの貸し切り状態なのである。
正直かなり、人がうじゃうじゃいるんじゃないかと思っていたのに、拍子抜けといった感じだった。
夕飯の時間帯が少しずれているのか、こちらが自炊で早かったからなのかはわからないけれど、とにかく今は人はいないのだ。
いないのだったら、さっさとすます! これが男湯を乗り切る作法というものじゃなかろうか。
「よっし。さぁさっさと入りますよ」
「だぁ、のんびりした旅行なんだから、あんまりあせるなって」
ばたばたと服を脱ぎ捨てて、きちんと畳んで籠に入れてからロッカーにしまう。
そんなにいっぱいは持ってきていないので、まだまだロッカーはすかすかなのだが、まあ無料のコインロッカーなので、遠慮なくカギを閉めることとする。
外のコインロッカーを使うときは、これで300円を使い切っているのか! と思ってしまうこともあるのだけど、さすがに宿のロッカーである。
え、旅館は鍵付きロッカーじゃないんじゃないって? 外にあるような温泉施設だとそういうこともあるけど、最近はだいたいロッカーには鍵がかかるようになっているものだ。
「おぉ、広い!」
わーいと、お風呂場に足を進めると、どーんと現れたのはどうしようもなく広い空間だ。
ゼフィ女の鹿起館の三倍くらいはあるだろうか。
洗い場も八個くらいつけられているし、浴槽は室内に三つ。そして露天が一つだ。
それを見せられればテンションはあがるのだが……
あがるのだが。
くぅ。たぶんもうちょっとすれば、ご飯を終えたお客さんがいっぱいわらわらここに集まってくるだろう。
そうなる前に、入浴を終えなければ!
「いい風呂だが……貸し切りか」
残念だ、と後ろから浴室を見渡した石倉さんは、その部屋を見てがっかりした。
えと。そこでがっかりしないでいただきたいです。
この浴室をこの人数で貸し切れるほうが絶対にいいのに。
「石倉さんはゆっくり入ってていいですよ。俺はさっぱりしたらすぐに出るので」
よいせと、空いている洗い場に座り込んで体を洗い始める。
さて、久しぶりの男子湯なわけだけれど、特別お風呂用具で変わったところはないようだ。
ボディーソープと、シャンプーとリンス。こっちのほうがちょっとボトルが古い感じがするのは、使う人があまりいないからだろうか。
いつも通りよく泡立てて体を洗っていく。
ふわふわな泡がすぐに体を包んでくれた。
それを落として、あとは頭は洗わないことにした。
髪はちょっと、時間節約のためにカットさせてもらった。もともと昨日家で洗っているし、そもそもがウィッグをつけていない今日はそんなに蒸れている感じもない。
もちろん、ほかの女性よりは髪も短いし乾かす時間も短くて済むわけだけど、今はそれすら惜しいのである。
「えぇー、せっかくの広い風呂で頭洗わないとか」
ちょ、ちょー、とか隣に座った石倉さんはいうものの、どうぞ好きなだけ洗えばいいよ!
木戸は一人、浴槽のほうへと向かった。さっさと上がらねばならないのだ!
「おぉ、木戸くん体洗うのはや……ええと、木戸くん、でいいんだよね?」
「どうしました森山さん」
すでに浴槽に使っていた森山さんは、こちらをみると目をすいと細めてじぃーっとこちらを見ているようだった。
「いや、なんていうのかな、ぱっとみでちょっと、ごめん。普通になんで女の子がいるんだろうって思った」
「それ、目、悪すぎじゃないですか?」
輪郭ぼやけてないですか? というと、そうだよね、きっとね、と彼は目をつむって目頭をぐっとつかんでいた。
うん。目の悪さにいちおう感謝しておくことにしよう。
「だよねー、っていうかほんと目が悪くなったかなぁ。木戸くんが女の子に見えるとか、まじないわ」
どうしちゃったんだろ、といいつつ、彼は真っ黒なお風呂の中に身を沈めた。
そう。今回のお風呂は全力でラジウム温泉だ。それこそ石倉さんが言ってた黒い温泉そのまんまである。
「ここは男湯ですしね。ま、俺も細い自覚はありますが……女子と間違えられるのはちょっと、むってしますかね」
ちょっと疲れがでちゃいましたかね、といいつつ木戸も風呂に浸かる。
黒い湯は体をいい感じに隠してくれてありがたい。
顔だけなら、今は眼鏡をつけているので、これならばなんとかなるだろう。
ちなみに、女子と間違えられるのはもはや日常茶飯事なので、誤解されること自体は別にどうでもいいのだけど、まあこの場合は『普通』の対応をさせてもらった。
「あはは、ごめんよ。でも、石倉さんに絡まれてたのに割と早くこれたね」
「そりゃ、そうそうに振りほどいてきましたからね。森山さんほど律義に対応しないのがコツです」
さっさとおいてきました、というと、ははは、木戸くんもやるねぇと森山さんは褒めてくれた。
「うぅ、木戸くんが俺に冷たい……くぅ。水風呂並みに冷たい。そっちの風呂入ったら、あとで水風呂も付き合ってもらうからな!」
「えぇ、水風呂なんて入る趣味ないですって」
そんなやりとりをしていたら、いろいろ洗い終えた石倉さんはこちらの風呂に迷わず入ってきた。
まあ、そりゃ知り合いなら一緒に入るってのはわかるけど、あんまり近くに入るのもどうなのだろう。
高校の時ですら、ここまでずずいと近くで入るやついなかったし、ちょっとざわざわしてしまう。
「お? 木戸くん水風呂あんまり入ったことない? まあ若いとそうだよなぁ。なら今日はその魅力をしっかりと味わってもらおうじゃないか!」
「……あったまったら早くでますよ。俺、あんまり長風呂しない派なんで」
「なら、長風呂派になるためにも、風呂の作法は覚えておくべきだよ!」
さぁ、ある程度あったまったらいくぜ、といわれて、おいとつっこみそうになった。
あのね。木戸さん50数えたら上がろうと思っていたのですよ。
「水風呂ってやつは、サウナとセットでな。体ふいて、それからサウナに入るのから始まる」
ま、普通の風呂とのセットで血行促進なんてのもあるが、と彼はある程度の入浴時間を過ぎた後、外にひっぱりだされた。
脱衣所にまだ人の気配はないので、ちょっとほっとしているけれど、それでも入浴時間が長くなるのは勘弁してほしい。
「もう勘弁して……」
「サウナ、いいよ! 森山もいこうぜ!」
「え、僕はもうちょっとここでぬくぬくしてますよー」
とろけておきます、と彼に言われて、じゃあ木戸くん! といい顔を向けられた。
ええと、石倉さん。あなたサウナ入りたいのは別の目的もあるんじゃないですか?
「サウナのほうが短時間にしなきゃならないでしょう? サウナ入って水風呂入ったら、もうでますからね」
「いや、それだと風邪ひくだろ。サウナ、水風呂、サウナ、水風呂、サウナ、水風呂からの、温泉。これだよこれ」
「って、それどれだけ長風呂するんですか」
ちらっと脱衣所のほうをみながら、新たに入ってくる人がいないかとどきどきする。
いちおう、お風呂用メガネをかけてはいるけれど、さあはたして、どれだけの人がこちらを見て、男同士という感じになってくれるのだろうかと思うばかりだ。
ちなみに目の前の二人は、眼鏡外しているのが一つあるけど、石倉さんはもういろいろ感覚があれなので。
一緒にお風呂に入ってもどうにもならないというのは、この二人がちょっと意識おかしいだけなんだと、気持ちを新たにした。
できればさっさと、着替えて外に出たい。
「っていうか、お酒飲んでるとサウナだめなのでは?」
「泥酔してちゃもちろんだめだが、これくらなら大丈夫だ」
ま、サウナの中でそのまま、とかシャレにならんしな、といいつつ、彼はさっさと体を拭いていく。
こちらもさっさとしないと、じゃあ拭いてあげるとか言われかねないので、しぶしぶ木戸も体の水分を取った。
「うあ……」
そして木製のドアを開けると、そこは一気に温度の高い空間になっていた。
もわっとするというか、空気からして違う感じだ。
木のいい香りがするものの息をするのが大変といった感じである。
「ここに長時間は無理そうですね。五分くらいで俺は出ますよ」
ちらりと壁にかかっていると時計に視線を向ける。
ここの時計は普通の時計とは違って、一周で十二分になるような作りになっている。
短針が動くのが早いタイプのものだ。
「せっかくだし他の客がくるまでいようぜ。人間観察の仕方を教えてやろう」
「それは男性の骨格の見方ってやつですか。それとも男のここがかっこいいとかいうやつですか」
「木戸くんはどうしてそう、俺のことを男好きだっていう風に思い込んでいるのか、不思議になるなぁ」
いくらなんでも、サウナは普通に楽しむだけだ、と彼は言った。
そんなばかな。
「でも、他に人が来たほうがいいんでしょう? それってたんに男の人の裸見たいってだけじゃ」
「ばれてたー。まあ、そりゃ男湯のサウナは男子の社交場だしな。ああ、いい筋肉してるなとか、ちらちら見るのさ」
別に女同士でいい胸してるとか値踏みするのと同じだってきっとと、石倉さんは開き直った。
「もう、そんなことなら、俺さっさと出ますよ。苦しくなってきましたし」
時間にして五分弱だろうか。
体からじっとり汗がでてきたので、石倉さんを置いて外に出た。
そしてそのまま、水風呂の水を足にかける。じわっと冷たい刺激が足に伝わる。
少しなれてきたら、足首くらいまで水風呂に足を入れつつ、腰くらいまでそれを進めた。
うん。たしかにこれが終わった後にあがったら風邪をひきそうだ。
「おや、石倉さん放置してきたんだ?」
「はい。サウナに別の目的を持って入ってるみたいなんで」
きっとあれは長期戦の構えです、といいながら森山さんが入ってる温泉に再び浸かる。
おお。水風呂の後のお風呂でなにか血管が開いているような感じがした。
血管に障害があったり、心臓が弱かったりだとあまりよくなさそうだけど、これはこれで気持ちいい。
「石倉さんはサウナ大好きだからなぁ。老廃物とか外に出したりって感じ。温泉までいかなくても銭湯にくっついてるところもあるから、わりとよく入ってるよ」
「そんなに長時間入らなくても……」
男の社交場とか言っちゃってるくらいだから、いろいろ語らったりなんかもあるのだろうけど。
さすがに体をさらしてサウナで過ごすのはちょっと危険が危ないように思った。
「さてと、体もあったまったし俺はそろそろでますね」
「ええ。もう出るの? まだ来てからそんなに経ってないのに」
「50数えたら出るって決めてたんで」
あらためてまた深夜にでも入りますよ、というと、あぁ他に人がいると恥ずかしいのかな? と森山さんはなにかに納得したようにうんうんとうなずいていた。
たぶん、彼が思ってることとは違うとは思うけれど。
「それではまた、写真の品評会で!」
ざぷんと水面をゆらしながら、木戸はようやく体を拭いて浴室の外にでた。
サウナの中から石倉さんが、おいでおいでと手招きをしていたけれどもちろん無視だ。
「よっし、まだ脱衣所も人の気配なし。やった。さっさと着替えよう」
コインロッカーのカギを開けると、さっさと下着とズボンをはいた。
ズボンといっても先ほどまではいていたものとは違って、旅館の寝間着である甚平の下だ。
この旅館は珍しく、浴衣ではないスタイルなのだった。
「ちょっとだぶっとしちゃうのはしょうがないか」
いちおう男性用のSサイズなのだが、これでも大きいのは男性としてのサイズがきっと最小だからなのだろう。
すそさえ引きずらなければいいやと思いつつ、今度はTシャツを着てから上を羽織ろうと思った。
え、ブラジャーはつけないんですかって? え、ブラ男子じゃないので。本日はなしですよ。
っていうか、どうしても着替えの時は上より下のほうを先に着てしまうのは下半身のほうが隠したい場所という意識があるからだろうか。
さて、さっさと着替えて出発せねば、と思ったその時だった。
「おっ、まだ空いてるじゃん」
「脱衣所も広くていいなぁ」
「ラジウム温泉とか、俺初めてなんだよなぁ」
がらっと扉があいたかと思うと男性グループが話に盛り上がりながら脱衣所に入ってきた。
結構な人数で十人くらいはいるだろうか。
脱衣所の密度も一気にあがってしまった感じだった。
「って……あれ。ここ男湯……だよな」
「間違って……え。へ?」
ちょうどTシャツを頭からかぶろうとしているところで、彼らの視線は木戸に向かっていた。
背中のあたりが見えていたのだろう。彼らは見てはいけないものを見てしまったというような感じで顔をそむけたり、外ののれんを見に行ったりしていた。
もちろん何度見てもここは男湯である。
「男湯ですよ。なーんも気にせずに入ってください」
「……お、おう。って……男の子だったか……」
「最近の若い子はほっそいなぁ……」
「いや、あれが最近よく聞く、男の娘ってやつかも」
ひそひそひそ。
なんか変な話になりそうだったのでひと声かけたのだけど、彼らはこちらに興味を持ったのかなにやら騒ぎ始めた。
ひょいとそのすきに、Tシャツだけは着こむことに成功した。
うん。ひそひそするのはいいから、さっさかこれでお風呂のほうに興味を移していただけると助かります。
「いやぁ、まさかこんなところで現代の神秘に出会えるとは」
「眼鏡外すとちょーかわいいとか、そういうところだよね、これ!」
「男湯にこんな子が入ってただなんてっ。もうちょっと早くに来ておけばよかった」
「ええと、みなさん、酔ってらっしゃいます?」
さっさと各自のロッカーに散るかと思ったのに、彼らの中の数人が興味深げにこちらに話しかけてきた。
少しお酒臭いところを見るに、大宴会からの、風呂に行こうぜパターンというやつだろう。
父様の社員旅行もみんなつぶれていたので、まあよくある光景なのだろうと思う。
「ちょっとテンションは高いでーす。せっかくだから君もお風呂一緒に入ろうよ!」
「えええぇ、さっき出たばかりですし。みなさんでごゆっくりどうぞ」
「そうは言わずにさ。男所帯の我が課にぜひ旅先の楽しみを」
ほらほらさぁ、甚平脱いで一緒にと言われて、すんごく嫌そうな顔をして見せた。
でも彼らは酔っているのか、にらみ顔もかわいーとか言い始める始末だ。
黒縁眼鏡付けているというのに。
結局そのやりとりは森山さんが外に出てくるまで続き。
温泉は混浴か貸切にかぎると、そのとき木戸は深く思い知ったのだった。
男湯さらっと終わろうと思ったのに、石倉さんちょっとテンション高すぎで、収集つかん、みたいな事態に。
そして最後のところまではお約束です。
さぁ、かおたん。がんばれ、これが男湯だーー!




