022.演劇部の後輩さん2
うまいこと分割できずにちょっと今日は長めです。
「こう見ると、斉藤さんも同じ穴のむじなというか類は友を呼んじゃう感じなのかねぇ」
昼食を食べ終えた後に、牛乳をすすりながらちらりと視線を向けながらつぶやく。
斜め前の席では、あーでもないこーでもないと紙に何かを書きつけている彼女の姿があった。
後輩の手前、自分も満足のできるものをつくらないといけないとか思っているのだろう。
しかも準備期間は二週間だ。先に言われたけれど、時間がないから舞台装置と衣装については目をつぶって欲しいということらしい。さすがにこちらもそこまで求めるつもりはなかったのだけど、彼女らにはこだわりがあるのだろう。それともこちらが疎いと思われたのだろうか。
さすがに衣装をたった二週間で作れだなんて言うつもりはないし、そんなことが出来るのはコスプレ大好きな猛者たちくらいなものだろう。
むしろ二週間でオリジナルの一人芝居なんて作れるものなのだろうか。既存のもののアレンジくらいならばまだしもシナリオまで自分で書いてできるものだろうか。
しかも一人劇だ。掛け合いをするにしても、それこそ高座みたいな感じになってしまいはしないだろうか。
「ムジナがどうしたって? もう二十年前の漫画なのに」
「それを知っているお前こそ、どうかと思うが」
後ろからかかる青木の声に、やる気なさげに答えた。
こいつも一点突出型のバカである。
それをこの前見せられたばかりで、どうして自分の回りはこう自分がやりたいことをしっかりと持っている人間ばかりなのだろうと思わせられる。しかもそれが好きすぎて並みのレベルではない出来に仕上げているのだから、みんな楽しく生きてるのだろう。
思わず微笑が漏れてしまう。
「まあ、なんだ。あんがいみんな青春してるなって、思っただけだ」
前を向くことはけして悪いことではない。
好きなところに向かって自由に動ける時間なんていうのはそう多くはないのだから、こうやって。
ただ時間を過ごすのではない、好きに時間を過ごせるのならば、きっと。
充実した時間を過ごせるに決まっている。
「春ももう終わってるのに少し頭おかしくなったか?」
「進級して周りを見る余裕ができた、といったところかな」
青木にいってやるとなおさらわからないという顔をされた。
わからないなら、それでいい。
願わくば二人ともによい舞台を作ってほしい。
二週間後が待ち遠しかった。
今日も体育館のステージ脇に呼び出された。
待機室に入ると斉藤さんがにひりと笑顔を浮かべながらちょいちょいと誘導してくれる。どうやら今日の舞台になるのはステージの上のようで、そでのほうを正面に見立てて一人芝居を見せてくれるらしい。
体育館に人はいないが、幕は下ろされている。さすがに解放された空間で演じるのは抵抗があるのだろう。
用意されている小道具は椅子や机が数個。そしてその椅子の間にMP3プレイヤーとスピーカーがくくりつけられていた。
そしてその前にたたずんでいたのは、澪だ。
今日は女子の制服を着てそこに立っていた。
ふむ。とりあえずは及第点な女装だろうか。全体的に華奢な骨格をしているし、身長だって木戸よりは高いけれどすらっとした長身の子という印象だった。むだ毛の処理もまあまあで惜しげもなく出されている太ももは産毛もなく、ほどよく引き締まっていて美しい。
髪はそのままの地毛だけれどしっかりケアをしてきたのだろう、柔らかい雰囲気を出すのに成功している。木戸が見れば一発で見抜けるけれど、学内を歩いていても違和感はないレベルだ。
ぺこりと礼をすると、MP3プレイヤーのスイッチを入れて、演技が始まる。
「無言劇と来ましたか」
流れるのは波の音。そんな中でうつぶせになった状態で物語は始まった。
ちゃぷりちゃぷり。波が体にあたっては引いていく。そんな中で目を覚ました彼女は周りを見渡しながら、おろおろと慌てだす。そんな時、一人の男が通りかかる。足音と、澪の演技で相手の姿が見える。
その人に何かを伝えようとして、それでも声が出ないことにはどうしようもない。男はその姿を見るとおぞましいとでも思ったのか、けんもほろろに自分の仕事へと戻って行ってしまった。
「海辺の町。流れ着いた少女は、しゃべろうとしても声がでない、っていうところか」
そして今度は海辺から少し離れて、人ごみが増えていく。
ざわざわとした雑音。波音の小ささ。
それらを合わせて、場所の移動が表現できている。
背景音だけでこれをやってのけるのだから、むしろこの子は音響とか編集とかそっちのほうの技術に長けているんじゃないだろうかと思う。
そこでも人を呼び止めようとして、それでも声はふゅうふゅうと吐息の音ばかりがでるだけだ。
まるでそれは声がでない人魚姫。けれど一つ違うのは人魚姫はしゃべろうと思えばしゃべれるということだ。泡になるだけで。
こちらはただひたすらに声がでない。どうしたってでないのだ。
「声を出すことをあきらめてしまう、か」
そして一人波打ち際でうずくまる。波の音がまた大きくなった。
視線はちらりと村の方を向いて、それでも海に視線がいく。
懐かしさのこもったような、寂しさのこもったような。けれども村のほうに視線を向ける。
何か目的があるような感じがする視線だ。
そして足音に気づいて後ろに振り向く。そこにいたのは。
といったところで終幕だった。確かに五分ちょっと。
しかも最後、誰がきたのかがわからないところでぶつんと切られてしまうのは、すさまじく気になる。これはあれか。発声法を教えてくれたら続きも見せますよ的なものなのか。
「うぐっ。これはすごい」
しかもこれ、この子がつくったのか? それとも演劇部に誰かシナリオライターがいるのか。狙ったように声の大事性を訴えかけるという、まさに木戸向けにつくられた一人芝居だったのだ。
「合格ライン、といったところかしら?」
くすっと斉藤さんに笑われて、やれやれと肩をすくめる。
「正直、積み上げてきたなって感じだね。演技としてもお話の作りとしてもよかった」
「それじゃ、次はあたしの番か」
おつかれー、と澪にねぎらいの言葉をかけながら、椅子や机を移動させつつ、斉藤さんもMP3プレイヤーをいじって演技スタート。
斉藤さんの舞台は……なんというか、バカだった。
一人芝居ではあるのだが、女の子がこういうことをやるか、というような阿呆の役である。
それでもその阿呆が、それぞれの場所で阿呆なことをやらかして回りも愉快にみんな阿呆という、とてつもなくばかばかしく、それでいてどうしようもなく目が離せないという、そんなお話だった。
「だって、澪がシリアスな話をやるのはわかってたもの。それならバカなくらいなほうがちょうどいい」
やり遂げた感のある顔を見せる斉藤さんの額には、照明で焼かれたせいかうっすら汗がにじんでいた。
まったく。二週間で必死に考えたのだろう。こんなものを見せられてしまってはこちらも出し惜しみはできない。
だから声を調整して言った。
「一つ言っておくけど、別にあたしの女装は趣味とか性癖とかじゃなくて、手段だからね。本当の趣味は写真なんだからね。そこんところ間違えないようにね」
何度言ったかわからない台詞を二人にも伝えて、一つ、決心をしたのだった。
るーいー、とごごごごと背景に音がつきそうな感じで彼女が迫ってくる。遠峰さんがやってくる。
「確かにその制服は好きにしていいと言ったし、学校にも是非きてねといったけど、あなたが行くべきなのは写真部なのっ。どうして写真部じゃなくて演劇部に遊びにいくのか、訳が分からない。本当に訳が分からない」
大事なところなので二回言われてしまったけれど、こればっかりはしかたがない。いくらそんなに悔しそうな顔をして迫られてもどうしようもない。
「ごめんねー。賭にまけちゃったんだよー」
本当なら土曜日であろうとつぶしたくはなかった。近場の撮影をと思っていたのだけれど、それでもあの演技にはほとほと参った。
斉藤さんもさることながら、澪のあれに声が合わさったら楽しそうというのは一つある。純粋に見てみたくなってしまったのだ。
「くぅ。カメラ持ってきてるならこちらに合流してよー。後輩があんたに会いたいーってさんざんなのー。ちらっとでいいから。ね、ちらっとちらっと登場してみようか」
「レッスン次第だけどね。まあ完全下校までに終わればちらっと登場してもいいよ」
レッスンのほうが今日で終わるか怪しいけれど、と付け加えると、彼女はぐぬぬ、と言ってぴしりと、ばーかばーかといって去っていった。
まったく遠峰さんも子供っぽいところがあるのだからこまる。
彼女の姿を見送りながら、ふとあれから何回こちらの姿でこの廊下を歩いているだろうか、なんて思ってしまう。四月に一度あいなさんの勉強会があったから、ルイとして学校を回るのは三回目か。もう最初のような緊張は欠片もなくって、まるで自分の学校のように振る舞うことができる。
二年になって余裕もできた。それもあるだろうが、のびのびと過ごせているのはいいことなのだろう。
「さてと。二人はもう来てるのかな」
今日の練習を行う予定の音楽準備室の扉をからから開けると、まだ誰もきていなかった。
うーん。どうすべか、と思いつつ周りに視線を飛ばす。そう。音楽室関連は青木がいることがあるというトラウマがあるのだ。幸い今日は町中のカラオケボックスに行くと言っていたし、外に出ていったのも確認しているのでおそらく大丈夫だろうが、周りに誰も居ないことは確認しておく。
そうこうしていると扉が開いて二人の生徒が姿を現した。
「えと、今日は、私たちがここを使う予定なんだけれど、もしかしてかち合っちゃったかな?」
先生には確認しておいたんだけれど、と斉藤さんが申し訳なさそうにしている。
「いえいえ、別にかち合ってはいないですよ。ちょっと撮影をしていただけなので」
すちゃっと、カメラを構えると斉藤さんは驚いた顔をしながらそれでも、顔をふさがずにこちらを見据えてくる。さすが女優さん。恥ずかしがるということはないらしい。
「こんな感じですけど、どうでしょう? 保存させていただいても?」
「うわっ。なんかちょっと恥ずかしいけど。さすがは写真部」
ピンぼけのない写真は、飾らない彼女の姿を写しだしてくれている。
思えばこちらのカメラで彼女を撮ったのは初めてだ。学外実習の時には散々撮らせていただいたけれど、改めてルイとして撮影するとかわいい子だよなぁと思わせられる。多少お化粧はしてるようだけれど、ほとんどナチュラルできっと男子には素顔だと思われる程度だ。
「写真部、というわけでもないんですけどね。趣味で放課後に撮ってるんです。ときどき一緒に撮らないかってさくらに言われるんですが」
「さ、くら?」
は? という彼女の言葉でにやりと笑う。そしてその愕然とした表情を一枚押さえておく。後で嫌がられたら消してあげよう。
「この学校の写真部の子で、懇意にしている友達です。友達の少ない私にいろいろと手を焼いてくれるいい子なんですけど、私は人より風景を撮りたい人で」
てへへと困ったような苦笑を漏らす。実際一緒に撮影していると、好みというのはわかるもので。さくらは撮影会に行っちゃうくらいに人の撮影が好きで、ルイは山の中をニコニコしながら撮影し歩く人である。
「でも、友達が作れるタイミングがあるなら、がんばらなきゃねってところです」
うん。一人でいいともルイは思っていない。自然のほうが好きではあるけれど、人の撮影も機会があるならやりたいし、ルイとして友達を作るのは好きな方なのである。
「それで、あなたのお名前は?」
「カメラ関係ではルイ、とただ名乗っていますけど」
「じゃあ、ルイさん。ひとつ友達として、お願いがあります」
斉藤さんは演技に没頭してきたらしく、真剣身を帯びた顔で続けた。
「この子に、女の子の声の出し方を是非教えてください」
「わかりました……ぷっ」
「はははっ」
二人しての笑いに、澪はついてこれないようで一人おろおろとしていた。
「ちょっとー。戯曲のセンスもあるんじゃないの?」
斉藤さんがいつもよりも砕けた調子で声をかけてくる。同性の友達を相手にしているときのようなほがらかさだ。
「もう、ルイ、は確立しちゃってるからね。ルイとしては初対面なあなたがたと話をする場合、自然とそうなるって感じ」
演じているかどうかはわからないけれど、ルイというものはもう、ルイなのだ。いつもとは違う。一年かけて培ってきた女の子の姿。
「初対面で写真撮るの?」
「撮るけど?」
それがなにか、という風で答えると、ぽかーんとすこし間が空いた。
「遠峰さんもそうだけどね。被写体なんて初対面が基本なの。まああたしは風景主体だからあそこまでのバイタリティはもっていないけれど」
さくらはこわいぞー、というと、ひぃと斉藤さんの声が漏れた。
そこで、はたと一人で固まっている澪の姿が視界に入る。さすがにこれ以上放置してしまうのも可哀相だ。
「ああ、今日の主役を置き去りにしちゃってごめんねー。えと、今日、あなたに女声の出し方を教える講師です。うん。こっちでいる間はルイと呼んでくれるといいかな。ちなみにこちらの姿で活動もしていますし、こちらしか知らないような人間もいますので、こっちでいる間はルイという個人を相手にしていただきたい」
その方が、楽しいし没頭できるし、と付け加える。
「正直、昼休みに声だけかえたときは、しっくりこなくて気持ち悪くてね。切り替えるならしっかりはっきり。週末だけは楽しくすごそうっていう感じでね」
ぱちりとウインクをしてやると、澪は、体を震わせた。ようやっと理解が追っついたようで、この代わりっぷりを実感しているのだろう。
「せ、先輩は……普段からそういう格好したいとかは……」
「おもわない」
はっきりと。とてもはっきりとそう答えた。
ルイでいることは楽しい。写真の部分が大半を占めるとしても、ルイとしての生活は、普段とはいろいろ違う経験をさせてくれる。
けれどそれは「日常」ではありえない。週末だけのことだ。
「確かにね、楽しくないっていったらそれは嘘。すごくしっくりくるし、みんな優しくしてくれるし。カメラをさ、こうやって構えるじゃない? それでも被写体は緊張しないでくれる。女の子って、すごい便利だよね」
「それって……」
いまいち理解ができないと二人は怪訝そうな顔を浮かべている。
確かに自分でも、写真を撮るためだけに女装をするというのは、少しだけまともではないなぁとは思うのだけれど。
「斉藤さんはさ、前の学外実習の時の写真、どう思ったんだろ? すごい気を使ったんだよ? 女の子の写真撮るときだけ遠慮をしまくって。そこらへんが人間を撮るのが苦手ってことにもつながってくるのだけれど、いくらかこっちのかっこだとそういうの、楽になるの」
だから、こうしてる。
第一義にあるのは、姿よりも写真のほうだ。
純粋にルイでいるときの方が自然といい写真が撮れる。ふんわり笑顔になれる。
「ま、もちろんね。技術と、思いは別物だから。澪がどういう風になりたいのかとかは関係なく、声自体は覚えられるし使えるようになると思うけどね」
あたしが声の出し方とか調べたのは、本当に日常生活で女の子として生きていきたいっていう、おじさまのところだったわけだし、というと二人ともうわぁと目を丸くする。
「……さらっとすごいセリフがいま、聞こえたけど?」
その前のシリアスっぷりが吹っ飛ぶくらいに、斉藤さんはうめくようにつぶやいた。女装のおじさまというフレーズはその単語だけで強烈なイメージが頭に浮かんでしまうものだ。
いやぁ、最初はルイだってそう思った。思ったけど、背に腹は代えられなかったし、なによりすごかったのだ。その変わりっぷりが。もはやそれは執念の域といってもいいだろう。どうすればそこまでこだわれるのかというほどに細かく声の獲得について書かれていた。女装のしかたに関してもあれはこうだと持論を展開したり、研究したりというのが半端なかったのだ。
「うん。四十いってればおじさんって呼んじゃっても怒られないよね? 女の人にその年でおばさんっていうと袋叩きだろうけど」
その説明に苦笑がもれる。確かにあのサイトの主は四十過ぎていて噂ではルイよりも年上の子供がいるとかいないとかいう噂だ。その相手をおじさんと呼ぶこと自体は間違っていないと思う。
「ああ、そういわれると、女の人はいつだって女の子っていうのかなぁ。大人女子的な。まあどうでもいいか」
それでね、と話を続ける。
「実際、声の違いとかを聞いたら、すごいなって思って。もちろんいい年の大人が「女の子」もないとは思ったんだけど、少なくとも、その人はかぎりなく女性っぽくあろうとがんばってたって話」
確かに見た目で違和感はあった。鈴音さんのボイスチェンジャーと題されたそのサイトの主は、やはり男の名残を各所に持っていて、お世辞にもきれいとかっていう単語は使えない。
ただし。それは声に特化するならばその執念はすさまじかったと言える。サンプル音声なんかも公開されていたのだけれど、どんな人よりもいい仕上がりだったのだ。いろいろと情報を探し続けて行き当たったそこは、木戸にとってかなり有益な情報をもたらせてくれた。
もちろんそこにあったそのままを実践した、というわけではない。実験とアレンジ、録音と自己調整。いろいろな行為を繰り返して、今の声を作り上げた。
のどを痛めず、それでいて自然に話ができる声の獲得。
すでに声変りがすんでしまった大人ができるなら、自分にだってできるはず。そういった思いもあった。
「で、これがそこを元にあたしが勝手にアレンジして、作った練習法、なんだけれどね」
舞台演劇で使えるのか、と言われると厳しいかもだけど、と付け加える。
鈴音さんのボイスチェンジャーは日常生活をする声の獲得にはとことん寄与する。とはいえふんわりした自然な声が出せるけれどあくまでもこれは呼気を多く使いつつ鼻腔に響かせて声の周波数を上げる方法であって、大きな声を出すにはそれなりの空気が必要になるわけだ。
通常でも大きな声を出すには大きな息がいる。けれども舞台で使えるほどの大声を出すには通常よりも大きな肺活量を必要とするのである。少なくともルイには叫び声を出すことや大声で助けを呼ぶといったことはできない。もちろん躓いたときのかわいい悲鳴なんていうのはあげられるのだが。
そこらへんはもう、演劇部としての練習で肺活量はなんとかしていただくしかない。
「うわ。これって口周りの輪切り図?」
「そ。舌とか声帯とか鼻とかそこらへんの縦の断面だね。声に関しても物理現象でね。そもそも声っていうのは波で伝わる。振幅、つまりふれる幅が狭ければ高音で広ければ低音になる」
いくつかの図面が並んでいく中で、声帯のところに指をやる。
「声変りの仕組みは、声帯が長く太くなること。感覚的にはギターの一弦と二弦で音は違うし、弦を途中で抑えると高音がでるよね、っていうのと同じ感じでね。声帯を引っ張ることで声を高くする方法がまず一つ。医学的には、軟骨に声帯をひっかけて手術で高音をだそうよっていう目論見もあるみたいだけれど、良いか悪いかはいえないね」
そこまでやるのはさすがに大事過ぎるし、ルイとしてはその声のサンプルを聞いたときにどこか自然な感じとは違うなという感じを受けてしまったのだ。
「それで? 物理的な違いはわかったけど、それをどうやっちゃうとそうなるの?」
「それが、これ」
ぺしぺしと資料を指さして、一通り読み終わるのをまつ。
「声帯を引っ張って高音を出すか、でちゃった音を響かせて鼻や口全部を使って高音をだすか」
ちなみに、私は後者を基本にしつつ、場合によっては前者もやりますよ、と付け加える。
「たとえば、滅多にないけど、媚声だすときとかね。ね? どうかな? 私のレッスン、退屈じゃない?」
きゃんと、かわいらしく澪に迫るように、少し音程を上げた声を上げて見せる。
「うわ……」
ここらへんは、実を言えばエレナからの技術提供だったりするのだけれど、実際滅多に使ったことはない。
あの子は、かわいい声のキャラの時はこれをつかいまくってるんだろうなぁ。職人というのは恐ろしい。もともと低くない声がさらに高くてきらきらした声になってしまうのだ。
エレナは正直とても徹底している。あの子はその力以上に、咳もくしゃみも日常のすべてを女の子で通すことができる。むろん地声も相当高いけれど、意識しないでそれらができるのだとしたら、恐ろしいポテンシャルである。
それを可能とするのは、カメラを生業とする自分とは違う、撮られる側、人と触れ合うのを前提としたリスク回避のためのものなのだろう。
もちろんルイだって、バレを避ける努力は全力でしているけれど、エレナの努力を見せられれば、まだまだだなぁと思わされる。
「なんちゅー乙女声。普通の女子でもでないでしょそれ」
「声優さんとかじゃないと出ないと思うけど、参考程度に思ってもらえればね。声帯引っ張るとこうなるよっていう」
「いいよいいよ。日常にはたぶんそんなのいらないけど、演劇にはすごい必要。なにそれ。他にも演じ分けできるならぜひとも」
斉藤さんがうきうきと前のめりになっている中申し訳ないのだけれど、資料以上のことはしてあげられない。
それは、エレナもあわせてつくったものだから、こちらにできないこともあるのだ。
「残念ながら、演じ分けなんてさーっぱり。むしろ今のルイを維持するだけで精いっぱい。必要だから、やる。斉藤さんにはわかんないかもだけど」
そこに浮かんだ笑みは、なんだったのか。自分でもあまりよくわからない。
ただ、土日だけ、しかも写真を撮るだけの自分としては、徹底はできてないよなぁと思ってしまうのだ。
「ま、話を戻そうか。実際の日常で使えるのはむしろ弦をひっぱるよりも、肺からの空気の量を多めにだして周波数を上げる方法かな。あんまり一般的じゃないみたいだけど、自然な声にはなるよ。声帯を引っ張る方法はのどを痛める元にもなるし、こっちのほうをまずは覚えていただきたい」
話がそれてしまったので、澪に向き合う。
今日のレッスンの本筋は実際はこちらのほうだった。
声を出すときの意識というか、空気の抜ける部位というか、その意識を少し上に持っていく。ちょうど鼻の上、目と目の間くらいに響かせるようにして声を出す。
弦を引くようにした方が安易に高音がでてヘルツ数も上げられるけれど、ポリープなんかができやすいというし、長時間しゃべり続けるのに疲れる。脱力しながら響きで声を高くしたほうがいいとルイは考えている。
もちろんこちらの方法の弱点は確かにあって、風邪をひいて鼻が詰まるとがくっと声が悪くなったりするのだが、風邪引かないように注意する以外に対策はない。
「あと、レッスンの一つとして、家にパソコンとかあるかな? あるなら自分の声を録音して聞いたり、周波数をはかれるソフトが著作権フリーであるからそういうの使ってどれくらいでてるのか、見てみると把握しやすいと思う。実際自分の中で反響してる音と、録音の音だったら、大切なのは周りに聞こえてる方の音なわけだから、それはしっかり知っておいたほうがいい」
骨伝導で伝わる音と、空気を伝わってくる音は、聞こえ方が違う。最低でも録音機能つきのもので自分の声をとって聞いておくことは大切だ。
「それとね、イントネーションとかも結構重要。周波数だけ高くてもしゃべり方がなってないとどうしようもないよ。セリフ回しに関しては演劇の台本的なところでいくらでもカバーできるんだろうけど」
「うん。それは大丈夫。舞台だと割と大仰になる役も多いし」
斉藤さんが補償をつけてくれた。日常のしゃべりでは自力でしゃべり方を作らなければならないけれど、今回必要なのは舞台の上での話だ。そうなってくれば、わざとらしいくらい女の子しゃべりでも違和感はない。
「あとは、男っぽいしゃべり方の部分を削る作業をすればいいのかな。これは演技のほうではできてたみたいだから、そっちと考え方は一緒でいいと思う」
「へぇ。演劇のレッスンでも発声練習はしてるけど、男女の違いというのはそこまで根深いもんなんだなぁ」
斉藤さんがようやく、ほほぅと納得したような声を上げる。
安易に人様に見破れない女装というものをやっているけれど、普通の人間である木戸としてはきちんと技術を重ねた上でそう見せているだけである。感覚も大切にはするけれど、数値やらの助けも借りる。
「ルイって案外、理系?」
「写真屋は物理学に精通してないといけないって、先生もいってますんでね」
光も声も物理現象だ。それを知ったうえで使いこなさなければ、うまくはいかない。そういうのもあって、ルイはもとよりさくらも理数には強かったりする。
そうこうしていると、鞄にくくりつけてある携帯がぶるぶると震えて自己主張を始めた。
木戸の使っているのは今時のスマートフォンではなくガラケーである。
二人に断ってとりあえずメールをチェックさせていただく。崎ちゃんからのメールだとなると早めに返してあげないと拗ねるのである。
「うわぁ、さくらからだ……近くにいるなら、来なさいよぅ、か」
やはり少しは写真部のほうに顔を出した方がいいのだろうか。
資料を読む時間も必要になるし、それならその間だけでもちらりと参加してきてもいいのかもしれない。
「一応、資料よんでおいて。その間、ちょっと写真部のほうに行ってくるから」
「さくらちゃんに呼ばれてる?」
「さっき昇降口で捕まっちゃってねぇ。いちおーあたし写真部の学外部員だし、新入部員さんたちからもラブコールを受けているのですよ。写真の出来を見てくれてるのもあるんだろうけど、まだ会ったことないしミステリアスな感じとか思ってるのかも」
それなら、せっかくだし行ってきたらいいんじゃないの、と斉藤さんが言ってくれるので、その言葉に甘えることにする。顔見せはいちおうしておいた方がいいものな。
「早めに戻ってくるつもりだけど、三十分して戻らなかったら助けてください」
はまると帰ってこれないかもしれないから、と言い置いてとりあえず音楽準備室を後にしたのだった。
女声化手術は、喉だけ局所麻酔をかけて起きたまま声を出しつつ随時修正をかけていくらしいです。怖っ。手術してから100ヘルツくらいは音が下がるから、高めに設定するよーって話でしたが、あれってやったあとなじむんですかね? 術後のサンプルボイスは聞いたことあるんだけど、「高くはなってるけどね……」が正直な感想でした。
音の高さとつなげ方だとか、喉の柔軟性だとか、呼気の響かせ方とか、そっちも駆使しないとなかなか自然に聞こえないということなのでしょうねぇ。
今回、さっくり女声の出し方レクチャーしてますが、この方法論が正しいかどうかはなんとも言えません。個人的には疲れないしゃべり方ということなのは確かなのですが、ボイトレの指導なんてやったことないですからねっ。