018.先輩達と撮影旅行2
男の娘だって、お風呂にくらい入らせてあげていただきたいものです。
「誰かいますかー?」
ことことと柔らかい水音が鳴る中に小声で問いかけてみて返事をまつ。
夕ご飯を食べて部屋でわいのわいのと写真の品評会をしつつ、みんなが寝静まったころにこっそり抜け出して一人むかった先は、昼に見つけた混浴温泉である。
合宿所よりも少しだけ標高の高いところにあるここは、なんと24時間営業ということで、いろんな事情のあるルイとしてはこれは入っておかねば! と思った次第なのだった。
しかも公衆のものなので料金は心付けでかまわないとくれば、貧乏なルイとしてはなおさら入らないわけにはいかない。すでに募金箱みたいなところに料金は入れ済みである。通常の温泉が五百円程度するわけだけど、寸志なので取りあえず百円玉を一個だけ投入済みだ。気に入ったら帰りにもう少しお金をおいていこうと思う。
ちなみにウィッグはここに来る途中のトイレで外してきている。ウィッグが濡れてしまうと乾かすのも大変だし、風呂場で地毛でないものがあるのも、いささかリラックスするのに邪魔になる。もちろん絵的にウィッグをかぶっていたほうがサービスショットになるのだろうけれど、別段撮られるつもりはないので気にしない。
途中まではもちろんルイできたのだが、そもそももはや公衆トイレで着替え済みで、入るのだって男湯の脱衣所からだ。逆にウィッグをかぶっていたのならそれはかなり怪しい状態だろう。
「おし。誰もいないな」
返事がないのを確認しつつも、用心深く周りを見渡す。
混浴と銘を打ってあったとしても、混浴を嫌がる女の子は少なくない。怒りはしないだろうが、せっかく一人で入っていたのにというようなオーラを出されるのも困る。逆におっちゃんなんかが大量にいたら、嬢ちゃん呼ばわりされる自信は多少ある。眼鏡も外しているので、髪が短くても初見の相手なら女子で通ってしまうのだ。
幾通りもそういう想像をしながら、ひとの気配のないお風呂の洗い場で身体を洗う。
ここは実質無料ということもあって、入浴道具は持ち込みだ。いつも使っているブランドの旅行用パックを持ってきているので、それを使って身体を洗う。ついでに少し山道を歩いて汗もかいていたので頭も洗っておいた。男子にしては長いといわれるものの、肩に掛からないくらいの長さなので乾かすのもそう時間は掛からないだろう。
それを洗い流してから、ようやくちゃぷりと浴槽の湯に足をつける。
三月とはいえ外気温はそうとうに寒いから、お湯の熱さに一瞬指先がぴくりと震えた。
そしてゆっくりと湯につかる。
「ふぃー」
ああ。まさかルイとして出かけた上に温泉に入れるだなんてなんという幸せだろう。
お湯の温度はやや熱め。けれどその温度はとても肌に心地いい。
乳白色の湯が肌にまとわりつくようにして、体を温めていく。
ルイでいることに緊張や負担はないのだけれど、先輩たちと一緒にというのはそれなりに緊張を強いられたりもするわけだ。宿についている温泉にみんなで入ろうという話になったときには、さくらが気を利かせてわざとらしくあの日だからかわいそうとかなんとかごまかしてくれた。確かにそれでは温泉には入れない。
正直写真部のみなさんがほかほかと湯気を立ち上らせて幸せそうにしているのをただ見ていることしかできず、ルイとしてはだいぶ悔しい思いをしたものだった。温泉旅館とかじゃないよ、合宿所だよとかさくらは言っていたけれど、いちおう宿のほうにも小さめな温泉が引かれていたのである。
けれども夜は必ずここにくると決めていたのでなんとか我慢できたのである。
「温泉独り占めとか、なんという贅沢……」
筋肉の凝りが徐々に溶けていく。しかもぽっかりと夜の月が浮かんでいてそれが湯気を照らして神秘的な風景を作り出している。あるのは虫の鳴き声と風のささやき。そして沸いてくる温泉のじょぽじょぽとした音。
どれくらい経っただろうか。そろそろ出ようと思ったところでからからと戸が開く音が聞こえた。
「お約束すぎる」
さすがに物音がしたとしても、こんな時間に露天に入るようなもの好きはいないに違いない。
動物か、はたまた仕事帰りのおっちゃんとかだろう。
そう、思いながら気にしないで、いたら。そこに。
彼女が、いた。
「どうして、こう。どっきりばかりなのか。と問いたいわけで」
彼女の体のラインは確かに美しかった。崎山珠理奈。さすがに売り出しているだけあって、月あかりで照らされたシルエットは均整がとれている。地方ロケに行っているというメッセージが来ていたけれど、つまりここがその地方なのだろう。
「だれ!? だれかいるの?」
月明りでかすかに見えるのは彼女のほうの姿だけ。今いる場所が暗がりになることは最初にチェックしてわかっている。
さあ、どうしたものか。
「はいっ。ゆっくり月でも見ながらと思ってたんですが、お仲間ですかね」
くすりと、蠱惑的な笑み漏らしながら、月影になっていることをいいことに、女声をつくる。
あちらからこちらは薄ぼんやりしか見えないのだ。
女性用の入口から影になるスポットを念のため選んでおいてよかった。
「なんだ。先客がいたんだね。ごめん、さすがに誰かいるとは思わなくって」
あからさまにほっとした様子で彼女はちゃぷんと湯の中に入ってくる。
混浴であることを知ってるのだろう。それで日が出ている間の混雑時間をはずしてこんな深夜にわざわざ入ってきたのだ。
「いえいえ。夜に入るのは珍しいですし、仕方ないですって。私も誰かが入ってくるだなんて」
「あの、そっちからはこっちって見えてるのかな?」
不安そうに、自分の身分がばれるのを嫌ってのことなのだろうか、彼女は心配そうに浴槽の端のほうによる。
「うっすら、といったくらいですね。こっちは見えてます? 正直あの……ちょっと温泉は好きなんだけどみんなでわいわい入るのが苦手なもので……」
お恥ずかしながら、と苦笑を漏らす。それを聞いたからなのか、彼女も肩の力を抜いたようでふっと気楽に湯に体をゆだねているようだった。
「こっちからも全然。お互い様ということで、ゆっくりはいろ」
こんなに気持ちいいのだから、と彼女ははふぅと深く息を吐いた。
国民的美少女といわれる女の子と混浴。
そこにロマンスはあるか。もちろんNOである。と答えてしまうあたり、女子の裸体への期待感がとてつもなく薄いのはどうしたものか。いいや。問題はそっちではなく、むしろ混浴状態になってることがばれることである。
一人で入ろうと思っていたから、ウィッグは外しているし化粧だってしてない。今のところ光の関係でなんとかばれていないようだが、もしここにいるのが木戸馨であるということが彼女に判明したとしたら、いろいろな意味でぼこぼこにされるだろう。もちろんメールのやりとりもストップになる。
なんだかんだで彼女からの愚痴やがんばりは見ていて楽しいし、こっちも楽しんでいろいろやらなきゃと思わせられる。それがぶちこわしになってしまうのはちょっと避けたいところだ。
さて。では現状打破のための手段を考えてみよう。
とりあえず、彼女が近づいて来なければ、このまま一緒に入っていても女子だと思われるので問題はない。
こちらには暗がりと声というアドバンテージがある。さらにいえば眼鏡をかけてないというところもだろうか。崎ちゃんには木戸は眼鏡を外して見せたことがないから、別人だと思われるだろう。
では、そのまま一緒に入っていればいいかといわれると、これまた難しい。
もちろんすぐに出たのでは唐突すぎるし、一緒に入るのを気にして出てしまったという風に映ってしまう。温泉では良くあることだけれど、せっかくなのだから後味が悪い状態での入浴は避けさせてあげたい。ちょっとは一緒に入っていた方がいい。
それともう一つ。外に出るとしてもそれなりのリスクがある。
この混浴風呂。出口が男女でわかれているのだ。当然といえば当然だろうか。中でつながるタイプのもので、着替え一式は男子のほうにおいてあったりする。正確に言えば男子側の脱衣所に籠をさかさまにして隠してある。
ウィッグなどは外のトイレで外してきているし、ここへはいちおう男子としてきているので、当然男性用の更衣室を使うのが当たり前なことなのである。
けれど彼女がいる以上、そっち側にはいけない。
出口の方向が全然違うので、男湯の脱衣所だというのがばれてしまうのだ。
いいやそもそも彼女は疑うべきなのだ。そちらの脱衣所になにもおかれていなかったことを。
けれど彼女はそんなことをまったく気づくそぶりもなく、ご機嫌に鼻唄なんてでてくる始末だ。
「歌、お上手ですね」
「ああ、あはは。まあね。下手の横好きってやつで」
褒められてまんざらでもないのか彼女は月夜の中で鼻唄を続ける。
ちらちらと会話を交えながら、それでもゆったりと彼女は湯につかる。
こちらは話をあわせながら、いろいろな思考実験をくりかえした。
女湯の脱衣所のほうから出る、という手段はとれない。脱衣所の外側は隣り合わせになっているわけでもないので、いささか裸で移動をしないといけない。人に会うリスクは少ないにしても寒空の中でそれをやるのは堪える。
彼女が体を洗っている、背を向けているときに一声かけてでてしまう。これもまったく彼女がその気配を見せないのでだめだ。もしかしたら旅館なんかで入ったあとにこっちに来てるのかもしれない。
結論。
彼女が出るのを待つしか、ない。
覚悟を決めると、もうどうにでもなれと乳白色の湯に体をゆだねるのだった。
「うぅ。へろへろすぎる……」
うっすらと目の前が霞んで、ふわふわしている。完全に湯あたりをしているらしい。
揺れる視界の中で、ちらちらと星の光が揺れている。それは現実の世界ではないほど魅力的で反射的に首元に手を伸ばしそうになってそれがすかっと空を切ってしまう。
んがー。しかもこの景色を撮るためのカメラが今、ないじゃないか。
「ルイー どこいってたん」
「さーくーらー」
あうーと亡者のように彼女に抱きつくと、固い感触が指にふれた。
それはひんやりとしていて、よく慣れた感触だ。
「おーよしよし。どうした? 具合悪い?」
本当にあの日だった? なんていう冗談が漏れ聞こえはするのだが声には心配の色がきちんと含まれている。
「カメラー。いいなぁいいなぁ。この景色をばしばしと撮ろうよー」
ほらー、周りきらきらしてるよー、というと、さくらの顔が明らかに曇った。
「あれ。ルイは夜景撮影じゃなかったか」
てっきりいないからそうだと思ってたのにと彼女は言う。もちろんこちらがふらふらしているのがわかるのか、ぎゅっと肩の辺りを押さえてくれる。
「とりあえずは、ベンチあるから座ろうか」
そのまま抱えられるようにして、ベンチに座らせられる。ひやりとした感触がお尻のあたりに感じられた。気持ちいい。
「温泉。入ってきてたの。そしたら出るに出れなくなって」
混浴は危ないよねぇ、と軽口がでる。それだけで彼女はなにかを察してくれたらしい。
「そういや先輩が混浴の温泉があるって言ってたっけ」
「混浴なら咎められないと思ったし。入るときも出るときも安全だと思ったんだけど」
「だったらなおさらなんでそんなにへろへろなのよ。さっさと出てくればいいじゃない。別にウィッグつけたまま女子として風呂に入ってたってわけではないんでしょ」
「そうなんだけど……さ」
ああ、さすがに知り合いがいたからとはいえない。国民的美少女と友達というのはいまの段階では言えないことがらだ。
「それはそうと。ここの写真、いっぱい撮っておこう」
むしろ元気なら自分で撮りたい。
話をそらす意味合いでもまったくけしからん景色だというと、
「それは否定できないかな」
うん。きれいきれいと彼女は緩い感じで写真を撮っていく。
もちろんルイが今見ている風景は湯あたりが見せる幻覚も多少はあるのだろう。けれどもこれだけ月明かりと星明かりしかない景色の中の絵というのも興味をそそられる。
「でも、風呂上がりでほてったルイたんのほうが魅力的であります」
ぱしゃりと撮られて、うぅと力ないうめきをあげる。
「ちょっとー消さないでもいいけど、男子にばらまかないでよね」
「あら、女子になら渡ってもいいと?」
「もーこんなときに冗談はやめてー。特に男子にたいしては厳重注意ってこと。さすがに切ないし危ないんだから」
さくらだってわかってるくせに、といいつつ冷たい風を浴びてだんだん頭がクリアになってくる。
それに応じて視界もだいぶん開けてきた。これなら大丈夫そうだ。
そんなとき、不意に足音が聞こえた。こんな時間に人がいるとは珍しい。
「あら、こんなところで人に会うなんて」
向こうも同じことを思ったみたいでほかほか湯気を体から浮かべながら、驚いた顔をする。
「って、あなた前のカメラ女子じゃない」
「その節はどうも」
あんまり嬉しくなさそうにルイとして答える。
そう。そこにいたのは、さきほど温泉でニアミスした相手である。
「ちょ、ちょっとルイ。なんて相手と知り合ってんの」
小声で遠峰さんが苦情をいってくる。
そうはいっても仕方ない。崎山珠理奈と知り合いなのも、こんなところでばったり会ってしまったのも全部現実だ。
「あらっ。あなたは、私に興味ある人なんだ?」
「ええ。国民的美少女に選ばれた相手です。人間を撮るのが好きな身としては、一度はカメラに納めたいって感じですね。ああ、でもこのルイは木とか空しか愛せない奇妙なやつなんで、そういうの全然でしょうけど」
「確かに。前に撮らせてあげたときも、すっごいけだるげに撮ってくれちゃって」
そうはいっても、気に入って待ち受けにしてるくらいじゃないか、と言いたいところだけれど、それを聞いたのは木戸なのでうぬぬと静かに黙っておく。
「これが普通の反応よね」
こちらを見てくすりと笑いが漏れる。お前が変なんだと言わんばかりである。
「でも、だからなのかな。あなたが撮ってくれた写真はすっごく気に入っちゃって。待ち受けになっちゃってます」
少しだけ真顔になって彼女はスマートフォンの画面をちらりと見せる。
そこに映っていたのは、もちろんあの時の写真だ。コンビニでもしっかりチェックはしたけれど、相変わらず使い続けているらしい。
「また機会があったら撮ってよね」
そういって彼女は温泉のほうへと戻っていった。忘れ物でもしたのかもしれない。
「ルーイー?」
そんな背後を見送りながら、すぐにさくらにわしりと首をつかまれる。
さすがに、木戸のほうではメル友になってますとはいえないなと思った。なんでかんでで彼女もミーハーさんである。
混浴の露天風呂で無料があるかはしりませぬ。でも月見風呂はよいと思うのです。