170.志鶴先輩とトランスのこと
今回は長い上に真面目な話です。
ついて来て良かったんだろうか。
そんな思いを抱きながら、志鶴先輩の後を歩いて行くと、ばばんとちょっとオシャレな感じな洋食店に案内されてしまった。
「ええっと……こんな高級そうなところはさすがに……」
「ああ、いいのいいの。別に慰謝料代わりにいろいろもらってるので」
おニーさんとお話をするための報酬と思ってくれたまえよと言われて、時計をちらりと見た。
家には連絡は入れてあるけれど、バイトの無い平日は家でご飯が基本なのでちょっと申し訳ない気にもなる。もちろん夕食の準備を子供に丸投げな親もどうかと思うわけだけれど。
「先輩……いくらなんでも、太っ腹過ぎではないですか?」
もしかして、友達いない人? と微妙な顔をすると志鶴先輩は、えぇーと素っ頓狂な声を上げた。それでも女声を維持できるのはすばらしい。
「そりゃ、女装友達くらいいるよ! いまはネットで知り合えるし、海外でだって付き合いあるし」
べ、別に馨だけにご執心なわけじゃなくて、とわたわた言う姿はどこかかわいらしい。
「でもあんなに女の子になりたいっ、なんて研究してたら働けない、稼げない、お金無いと思うんですが……」
すさまじい熱意じゃないですかあのブログっというと、あーうーん、まあねぇと悩ましい声を上げながら、お店の人に案内されて、慣れた仕草で席に通される。わりと通い慣れてるという感じだ。
「うちの親の場合、ほら、あたしを作ってるのからもわかるようにまーぼちぼち頑張ったわけよ。男として頑張って生活して、ってね。気持ちは女子だって言っても男なわけで、順当に出世してそれなりに責任も負わせられて、若い頃は仕事以外なんもしてなかったっぽいんだよね。それで周りからの評価は高くて、おっと」
お店の人に水とおしぼりを渡されて、話は中断。周りにさすがに聞かれていい話でもないのだろう。
ちなみに高級店とは表してみたけれど、木戸の感覚から言ってであって、エレナが普段使いするようなハイクラスなお店では無いのは先に伝えて置こうかと思う。あそこらへんになるともう入り口にドアマンがいたりとか、椅子をひいてくれたりとかいろいろやってくれるらしい。
「とりあえず注文から先にいっちゃお。好きなもの頼んでくれていいよ? 男の子なんだからたんとお食べ」
「食べる量は男女の中間くらい、という実感はあるのですが」
レディースセットといっても、最近はわりと量が多いものが多い。それを思うと一般女子は遠慮しているだけではとも思ってしまうのだけど、そういうことを言うともてないんだからねっ、と斉藤さんあたりにはこっぴどく言われているので口には出さないようにしている。甘いものは別腹。それは奥ゆかしさから生まれた言葉なのでした。
「無難にオムライスとぷちハンバーグなセットで」
「あ、うん。割と人気商品きたね。んじゃあたしはがっつりお肉で」
あっちだとボリューミーな食事ばっかりだったから、日本のご飯は少し物足りなく感じちゃうのだと、スレンダーな体型を保ちつついってくれるのは、男子の代謝能力あってからこそだろうか。
店員さんを呼びつつ注文を伝えると、デザートはよいのかい? という申し出に首を横に振っておく。そこまで贅沢なことはできない。
「それで、お父様ができる会社人間だったって話まできましたが?」
こくりとお冷やに手をつけつつ、どこまで話したっけとなっている彼女に助け船を一つ。
「ああ、そうそう。それで良い感じに外堀を埋めつつ、そこそこ周りにも受け入れられながら仕事してるからそっちは大丈夫っぽいんだよね」
「仕事関係の話って愚痴の一片もなかったですよね……そういえば」
鈴音さんのボイスチェンジャーはいまだに更新のあるブログだ。この前話をきいてから久しぶりに見に行ったけれど、まだひたすら女の子になるためにというコラムを書き続けていた。
その中に鈴音さんの私生活はまったくもって出てこないのだ。子供がいるという話はもちろんないし、妻がいるという話もない。二年前の、やっと、というところで少しだけ私生活が垣間見えたくらいだった。
「そうなの。そりゃさー、男としての私生活なんてもんにさっぱり興味なくて、義務だけでなんでもかんでもこなしてれば、趣味に私生活にってやってる人よりも仕事できるようになるだろうし、私生活の方をいくらでも犠牲にできるから残業とかもほいほい受けてくれるし、周りからすれば使えるヤツみたいな扱いだったわけ」
「あ、今日はそこらへんの話がしたくて誘って下さったんですか?」
特撮研の部屋での女装お披露目が済んでから、志鶴先輩がご飯に誘ってきたのでなにかしらの話があるのだろうな、とは思ったのだけどこういうことだったらしい。
「そゆこと。もちろん、馨……じゃなかった。しのの話も聞きたかったし、どう思ってるのかなとか、これからどうするのかなとか、情報共有を先にしておきたかったのね。この業界、ちゃんと相手の口から意思を聞いておかないとすれ違っちゃうから」
「あー、そうっぽいですね。いづもさんからも時々そんな話は聞きます」
それに加えて、嗜好と指向の調査といったところだろうか。
いづもさんのブッシュドノエル講座のときにも感じたけれど、この業界はほんとにひとくくりになっているけれど求めるものは人それぞれ違う。それによっての諍いというものは絶えないし、裏切っただの裏切られただのという話にも発展して、つながりが切れてしまうこともある。
だから、最初に聞いておこう。そんなところなのだろう。
「まずは、ちゃっちゃと親父の話を片付けてから、しののことを聞かせてもらおうかな」
本題はむしろそっちなんだからね、と彼女は少しだけけだるい感じの声を上げる。
では、どうぞどうぞと苦笑を浮かべつつこちらもお冷やに手をつける。柑橘類の果汁が少し入ったその水はすっきりしていてのみやすい。
「それで、うちの親はあたしが十歳の時に、言ったんだよね。もう志鶴も十歳になったから、これからもう本心を隠さずに生きます、みたいな」
ちなみに、志鶴って名前をつけたのは父さんですが……めさくさ小学生の頃に苦労しました、まったくと彼女は苦労話を明かしてくれた。たしかに志鶴って名前を男の子につけるのはちょっと変わっているとは思う。せめて鶴ではなく弦の字を当てた方がまだ男子っぽいだろうか。中性名より明らかに女子よりな名前だと思う。
「そこらへん、馨はどう? かおるって音自体は女子っぽいってからかわれたりしなかった?」
馨という漢字は男子にも使われるにしても、と言われて、あー、と小学生の頃を振り返る。
「けっこー私の場合は性別不明って感じでしたし、名前でからかわれることはなかったかなぁ。むしろ男っぽい名前がついてた方がいじめられてたかもしれません」
「へぇ。ちょっと興味深いかも。その話詳しく」
さあさあ吐いてしまおうと言われて、うーんと少し思考を巡らせる。
どの程度小学生の頃の話をしていいのか、ちょっとだけ考える必要はあるだろう。
「私、今でこんな感じですし小学生のころなんてもっとずっと華奢で、男っぽさの欠片も無かったんですよ。外でわーいって活発に遊ぶよりは部屋の中にいたいほうで。そりゃ親は男の子っぽい服を着せてましたから周りは男の子扱いをしてはいたけど、大人しい子であったことには違いないわけです」
「そんな状態で、猛とか、強そうな名前だったらからかわれてたってわけ?」
「そうです。名前負けしてるとかって絶対言われたと思うんです。性別とあってるかどうかっていうのもアレですが、性格と名前とが合ってないと素直に、あれ? ってなっちゃうのが小学生なのかなって」
それを思えばそういう違和感は木戸の小学生時代はまったくもって出なかったわけで、クラスメイトからいじめられた記憶はさっぱりない。ことさら誰かと深く仲良くなったこともないけれど、平穏無事な生活だった。
「ちなみに私は中学に入った頃がめっちゃからかわれました。学ラン着てて女子っぽい名前な上に親父が活動を本格化したのがその頃だからね。精神科にいって女装してって。それまでの二年は会社関連の根回しと夜のお店で限定的に女の子してただけなんだけど」
家でも女の子の格好をするようになって、これがまた……と、最初期の悲惨っぷりに彼女は顔をしかめた。
言いたいことはわかる。年齢の問題もあるだろうし、さらには技術がなかなかついてこない。
女装サロンと呼ばれるようなところになにぶん行ったことがないからよくはわからないけれど、夜のお店で女装をするのと、昼間の明るいところでやるのとでは、粗の出方は半端なく変わるわよ、とはいづもさんの言葉だ。
それは撮影をするものとしては想像できる。薄暗い照明が良い感じにすべてをうやむやにしてしまうこともある。
「それで親父の話に戻ってくるわけだけど。必死に頑張ってきた分だけ仕事のほうのスキルはあるし、根回しもうまいこといったみたいでね。おまけに男としての給与体系のほうにいるから、同期の女子社員より年収はいいみたいなのさ。まあ子供できたときも産休してないし、そりゃ男の給与体系で間違いではないんでしょうけど」
「へぇ。知人はたいてい、っていってもそんなにいないですけど、手に職系なので会社でっていうのはなかなか厳しいのかなって思ってました」
身近にいるトランスの社会人といったらいづもさんしかいないわけだけど、あの人は完璧に会社員は無理だと思って自営業をやっているのだという。もちろん起業するまでは他の知人の店で働いたりしていたそうだけれど。
「やり方次第っぽいよ? 先に性別変えてると受け入れは厳しいって話も聞くし。会社としてはそういう人を雇うメリットがあるのかって話になっちゃうし、同じくらいの能力値の一般男性と、MTFがいたら、一般男性をとると思うでしょ? 比較対象が女性でも、女性とるじゃない?」
まー、そりゃMTFのメリットを発信できてない自助グループとかもいけないんだろうけどと、彼女は肩をすくめる。そもそも一般の人よりも強みになる点がどこにあるのかを発見するところではないかと、しのなんかは思ったりもする。
「だからこそ先に入社してから、在職で性別を変える……ですか。公務員とかならそれを理由に首にはできないっていいますけど……面接かぁ」
ふと、あいなさんにうちにくるなら、ちゃんと面接は受けなきゃだよ? と言われたことを思いだした。佐伯さんなら無碍にはしないだろうけど、あの人に性別関連の話をするのはなんか抵抗がある。ルイとしても木戸としても会っているからなのかもしれないけれど。
「しのの知り合いは、やっぱり同年齢くらいなのかな? というか、自助グループとかで交流持ってたりとかなの?」
「いえ、さっぱりですよ? 私は別に女の人になりたいわけではない、ってさっきも言ったじゃないですか」
ああ、そうだったっけね、とまるで信じてないですという視線を向けられてしまった。むぅ。撮影のために都合がいいって姿はさっきも見せたんだけどな。
「ただ、こういうスタイルでいるので、女装の人とか性転換したいとかそういう子とは知り合いにはなりやすいです」
今の所、自助グループにお世話になるつもりはさっぱりないかな、と言うと、そっか、とようやく納得いただけたようだった。
そして、そこで足音が聞こえたので話をいったんやめる。
オーダーしていたものがそれぞれのテーブルに並べられた。
通常ならスープとサラダがでてから、メインがでるようなのだけど、秘密の会話に没頭したいということもあって、一気に出してもらうように最初にお願いしていたのだ。
しのの前にはハンバーグつきのオムライス。デミグラスソースの海に黄色い大陸が浮かぶ姿はとろっとろでおいしそうだ。
志鶴先輩が頼んでいたのは、ステーキセット。がつんと大ぶりなお肉が鎮座しているのは、食べきれるのかなと思うほどの量だ。
「では、とりあえずいただきます」
久しぶりの外食だーと思いつつ、スプーンで黄色い大陸をえぐり取って、茶色い海であるソースにつけてはむりと口にいれる。
おおぅ。普段外食はあいなさんと居酒屋っていう感じしかないので、こういうのは新鮮だ。
良い感じな洋食屋さんの味というのは、家庭ではなかなか再現できないので、なかなか馴染みがないのである。
「んー、さいこー」
はうんと、ほっぺたに手を当てながら喜んでいると、うわぁという顔をしている志鶴先輩と目があった。
いや、でも普通の反応……しただけ、だよ?
「仕草が普通にかわいい。無駄にかわいい」
「よく言われます。でも、別においしいものを食べてるときはこんなんですって」
先輩だって、はわーとかするでしょ? っていうとぶんぶか首を横にふられてしまった。
ええぇ。エレナとかだって普通にやってるじゃん、こんなの。
「女の子……か。こういうの見ちゃうと、なんつーか、自分ってまがい物だなってつくづく感じてしまうわ」
あーあ。とちょっとだけ寂しそうな顔をされてしまった。
あのですね。こっちもまがい物なんですけれどね。むしろこっちのほうがまがい物なんですけれどね。
「じゃあ、今度は志鶴先輩のお話を聞かせてもらいましょう」
どこから来て、どこへ行くのか。その顛末もよろしくっ、というと、サラダをもそもそ口に入れながら、なにを話そうか考えているようだった。
「あたしは……高校の時からこんな感じ、かな。スキルだけはいろいろ持っていたし、最初は親への反発だったけど、気がついたらはまってしまったというか」
「趣味から入ってそれが日常になるパターンなんですね」
千歳とかよりはむしろ自分に近いのかもしれないとしのは思う。
あの子は男である状態を大変忌避していたけれど、そういうところは少ないのかもしれない。
「ああ、いちおうは男らしさを押しつけられるってのも、ちょっとなーって思ったりはしてたよ? 名前のからみもあってそうとうからかわれたりも影響したんだと思う。女子の制服きてたら自然なの? ってさ」
「そして着てみたらなんか似合っちゃったみたいな感じですか?」
「そうそう。これがけっこう普通に違和感無く女子じゃんって思っちゃってさ」
「中学生くらいなら、メイクとかしなくても似合う子は割といますもんね。知り合いでも一人そういうのがいますよ。ほんともー可愛くってついつい着飾らせて写真撮りたいくらいです」
うふふ、と頬を緩めていると、またうわぁという視線を向けられてしまった。
「それで高校では女子制服ずっと着てたのね。まあ診断とかは全然とってないんだけど」
いろいろと思うところがあって、女装に止めようって思ってたのさ、と彼女は言った。
女装で学校に通うこと自体は、特別GIDであろうがなかろうが、今のご時世できることだ。教師陣の説得と周りとの円滑なコミュニケーションさえ間違わなければ、そういう子、ということで処理される。
リスキーではあるけれど、昔ほどの風当たりもないのだし、ぱっとみで問題が起きそうというのでなければ許されることもあるだろう。
「そういや、この前しの、学校で高校の制服がどうのっていってたけど、まさか女子として通ってたってわけでは……」
「あー、前もいいましたけど、私はパートタイムですよ。フルではないです。制服は友人に先輩のお古をもらいました」
絶対似合うよーって感じで押しつけられたのだというと、なんたる役得と言われてしまった。
なんだかんだで、高校時代はさくらにずいぶん引っ張ってもらったところもあるし、感謝はしている。次の撮影の時に改めてクッキーでも焼いて持っていってあげよう。
「それで先輩は診断とかとらないんですか?」
「それがねぇ……なんていうか目の前で親父をみてて、二の足をふんじゃってんの」
あれでいいもんかなぁと思ってどうしてもね、という彼女は今度はステーキを切り分けはじめた。良い感じにナイフを音もなく入れていく姿は綺麗だと思う。
「診断だけはとっておいたほうがいろいろスムーズだとも聞きますけどね。志鶴先輩なら簡単に下りるでしょ?」
「うーん。まあうちの親父に診断がつくくらいだから、あたしも多分いけば診断は下りると思う」
だからこそ、かな、と悩ましげな顔が浮かぶ。
「精神科にいって診断してもらうっていうのなら、判別してもらえるなら行く価値はあるかもしれないけど、あれは除外項目じゃないことを審査するだけだしね」
他の精神疾患じゃないことの証明がイコールGIDなのか、といわれたらそんなことはないはずなんだけど、と志鶴さんは悩ましげな顔を浮かべた。
自分は本当はどうしたいのか。結局はそこだとは思うのだけど、GIDという単語がすでにある状態で育ってきている身としては、その病名に翻弄されて、自分が本当はそれなのかどうか不安になったりする。
何も知らずに、医師のところにいって自分の思いを打ち明けたらおそらくそのまま肯定される。どっちなんでしょうと悩んでいる場合は、自分で答えを探せと切り捨てられるものだ。
「自分の性別がわからないっていうMTXな人達が精神科医に、自分はどっちなんでしょうって判断してもらおうとしたなんてケースもあるとかないとか言いますよね」
答えは本人の中にしかない。それが精神疾患の厄介なところだ。脳の構造がどうのという話もまだまだ確定診断につなげられることではない。
「しのは、そこらへんどうなの? 診断書とるつもりは?」
「とろうと思えばとれちゃうんでしょうが、とりませんってば」
性別変える気はないんですってば、というと、ああごめんごめんと彼女は額を軽く押さえた。
お互いの立場の確認のための会なのだから、しっかりこちらの事情も把握していただきたいところだ。
「自分がどうしたいか、そこらへんがどれだけはっきりしてるかだと思うんです。心の性別がとか、脳がとか、この際どーだっていい話です。確かに私は女子っぽいと散々言われているし、むしろさっさとこっちにおいでと言われていますが、今の所はただ、時々今みたいな姿で生活してると楽しい、という感じですから」
「将来のこととかは?」
「いちおーカメラでご飯食べていけるといいなとは思ってますけど。そのときの撮影者がこっちなのかあっちなのか、そこらへんは今の所はわかりません」
もちろんルイを捨てる気は今はまったくない。けれども同時にルイとしての生活をフルでやるつもりも今はまだない。
「志鶴先輩こそ、どうなんですか? 将来男として就職する気持ちはあるんですか?」
「うぐっ。それを言われると……なぁ」
「知り合いで仕事中は華奢な男子、休日は女装コスのねーさんがいますが、そういうスタイルがおっけーっていうなら、それもありかもしれませんが」
はるかさんとはGWにいろいろとあったのだけど、それは別のお話。
普段の彼はまさに華奢な男子という感じの装いで、ああいうスタイルでオッケーというならそういう落としどころだってあるのだと思う。
「どっちがいいかって言われると悩ましいところかなぁ。トランスしてからの就職は厳しいっていうし」
すでにそこまで行ってしまっていていまさら男としての就職ができるのか、と少し思ってしまったりもしたけれど、それは本人が考えることなので内緒にしておく。
「なら、売り込みポイントをしっかり作っておかなきゃですね。人から求められる何かがあれば、商売は上手く行くっていいますし」
留学とかしてるんだし、武器はいっぱいあるんじゃないですか? というと、なんとも悩ましげな声を上げられてしまった。語学くらい今時誰でも、と思っているらしい。
でも駅前留学がこれだけ流行る現実を見るに、外国語がちゃんと使えるのはまだまだ強みなのではないかと思う。
「でも、しのの言い分はなんかわかったかも。まだ時間はあるし、ちょーっといろいろ考えてみようかな」
なんか今までで一番、実入りが大きい話を聞かせてもらったかもと、彼女は満足そうだった。
「まったく。どういう生活をしてきたらそういう考え方になるのか、本当に謎」
「んー、そうですか? 普通に撮影いっぱいしてると、なんかこの人はこう撮って欲しいのかなとかわかってきますし、それを再現してあげるとたいてい喜んでくれますからね。そういうのの延長ですよ」
たいした話ではないですと言うと、たいした話だよと、言い返されてしまった。なんとも悩ましい。
「それに選ばれるかどうかは、人それぞれです。私がハンバーグ付きを魅力に思ったように、誰かは先輩のことを魅力的に思うかもしれないし、逆に他のメニューを見て、おって思っちゃうかもしれない。なら、いっぱいあるメニューに、オススメって名前を入れたり、○をつけてみたり、いろんな工夫するしかないのかなって」
ああ、ハンバーグもふわっふわで、うまーと、幸せそうにしていると、良く出来た一年生だと苦笑されてしまった。
もともと大学よりは仕事をと思ってしまうタイプなので、どうすれば写真で食べていけるのかというのを考えてしまうのだ。写真屋はカメラの性能向上でかなり減った。プリントだって自動プリントマシンで簡単にできてしまうご時世だし、それなりの写真は素人でも撮れる時代。それでもやっていくなら、知名度ととがった技術が必要になる。
「あーあ。あたしが一年の時なんて、どうやって親父のやつをぎゃふんと言わせるかってことしか考えてなかったわ」
「そこらへんは、私生活の問題ですもんね。うちは親にはそれなりに恵まれてるというか……そりゃこういう格好は放任状態というのが正しいですけど、干渉してこないので助かってます」
「いいなぁ。そりゃさ二十歳過ぎればもう親がどうのって言うのもおかしいって言い分はわかる。でもまるでやっと足かせが外れたみたいな喜びようにはホントにぶち切れそうだったのさ」
さて。子供を作っておきながら、精神的には女性である、という言い分が通るのかどうか。疑問に思った方も多いのではないかと思う。結論から言えば条件付きで認められている。
それが子供が成人していること、という条件だ。当初は子供が死なないと性別移行ができなかった決まりだったのが、さすがにそれはという訴えですでに変更されて数年が経っている。子供がいても性別移行はできるご時世なのだ。
「実際問題、あれだけ女の子になりたいっ、て思いがびしばしあるなら、足かせって思うのも自然な気がしますかね。
「でもさー、そりゃさ。頑張って自分を偽装しようとした結果のことだから仕方ないって言い分もわからないではないよ」
そりゃGIDだってやることやれば子供はできるだろうし、GIDだからEDってことはないんだろうけど、精神的な苦痛とかないもんかね、と志鶴先輩は残っているスープをこくりと飲み込んだ。
「先輩はそういうのは、どうなんです? はぁはぁ、やりてぇとか思わないんですか?」
「う。ちょっとしの。その顔でそのおじさん台詞はやめてっ」
そしてけふけふと咳き込みながら、先輩からの苦言がくる。
そうは言われてもただの確認である。特別そこにしのとしての感情はない。
「そこらへんはずれてるって時々いわれはするんですけどね……私はそういうのさっぱりないんでわからないんですよね。被写体として綺麗とかかわいいとかはすっごく大切なんですが」
「……うわ、普通の男子といいつつこんなところに落とし穴が。そこらへんが自然な女子っぽさの現れなのか……」
「そういうもんですか? ってことは志鶴先輩は女子を見るとはあはあしちゃうと?」
「はあはあはしないけど……そりゃ、いちおう嫌ではあるけど、反応してしまうものは、ある……よ」
最後の方はなにやら恥ずかしいのか、小声でぽそぽそと言われてしまった。
どういうことだろうと、じぃと視線を向けていると、彼女は降参という感じで手を上げた。
「あーはいはい。もう。言いつくろってもしょうがないので、先に言っておきます。花実とかには内緒にしといてね」
変に構えられて意識されても困るし、といいつつ彼女は言葉を続けた。
「あたし初恋の相手は女の人だし、こういうかっこしてても、好きになるのってたいてい女性なんだよね。だからそれこみで、性別を変えるってことにもちょっとこう……」
「あれ。鈴音さんはメチャクチャ男好きって言ってましたよね。今日町を歩いていたら、男の人に声をかけられちゃった、きゃはっ、みたいな」
「女の子は男好きなものだから、そういう設定にしているだけ、なのかもしれないけど。実際は抱かれたいほうなのかもね。そこらへんはあたし達もわけわかんない」
ちなみに、そのあとオチもついていて、ただの道案内だったという話だった。
「ええと。私はその……知人にあまり同性愛の人がいないというか、性別を変える人ってだいたい男好きなのですけど、割といるものなんですか?」
「どうなんだろうね。話を聞くとけっこういるって話もでてくるけど、開けっぴろげにする人もそういないかな。変に誤解されることだってあるわけじゃない?」
女に近づくために女装してるんじゃないの、なんて勘ぐられたらたまんないよと言われると、なるほどそういう発想もあるのかと思わせられた。
「それに、女好きだったらそんな格好してないで、男として生きろよって言われたりもしちゃうんだよね。性自認と性指向は違うんだって言っても、は? セイシコウ? なにそれとか言われるし」
ああ、わかるよね、ここらへんの単語と言われてこくりと頷いておく。
性自認は、自分がどちらの性別かの認知であって、性指向は自分がどちらの性別の人を好きかというものだ。これは基本的には別々に考えるべき物だというのがこの業界の通説で、いづもさんも前に言ってたような気がする。
「あとは、別だってわかってる場合は、彼女いるなら先に子供作っとけよ的なことを言われることもあるとかないとか」
最近の学会のトレンドは子供の持ち方だというからねぇと、つまらなさそうに彼は言った。
「どうしてそうやって、産む機械みたいな発想になっちゃうのか、わけわかんない。それなら人工羊水の研究とかを進めて欲しいもんだよね。すでに十年以上前にヤギでは成功してるんだしさ」
「うわっ、それ成功したら少子化が一気に解決ですね」
研究所みたいなところで円筒形の中で子供が育つというと、ちょっとしたトラウマになりそうな光景だけれど、実際問題SFを現実にするくらいの科学技術はできつつあるということなのだろう。
「受精卵を冷凍保管しておいて、好きな時期に培養して子供ができる未来。ちょっと心理的に拒絶反応が出る人も多そうだけど、そうなれば罪悪感もちょっとは減るかな……」
ううむ。なんだか深刻な話になってしまって、しのは残っているオムライスをスープで流し込むようにして飲み込んだ。
正直なところ、子供関係の話は専門外もいいところで、さっぱりわからない。
自分でもその気というものはないし、知人は子供を持つということを念頭に置いてない人達が多い気がする。それこそ必死に生きるというのが第一目的みたいな人達ばかりだ。
「ああ、あ。ゴメンゴメン。なんかついしのったらメチャクチャ詳しいから、何でもかんでもわかるだろうって思っちゃって」
19才の子に子供がどうのって聞いてわかるわけ無いのに、と志鶴先輩は、ごみんと謝ってきてくれた。
「いちおー必要な知識はいれてますし、その手の知人も多いので知ってることはありますが、知ってることしか知らないです」
「そうだよねぇ。普段生活してて子供がどうのーって考えるなんてないもんね」
若い子が子供のことを考えるのは、実際妊娠させてしまった後のことだろう。それくらいにこの年代だと「そのことを考える」ことはあり得ない話だ。考えてることと言えば本能のままにやりたいってことくらいだろうか。
そこらへんの感覚すらないしのにしてみれば、まず発想すら起こりえないことなのかもしれない。
そういう話は普通、結婚してから考えるもので、未成年に答えを求めたって仕方がない。
「さて。いろんな話も聞けたことで、大いにあたしは満足しています。ご褒美にデザートも追加はいかがかな?」
まだ別腹で入るでしょ? と言われてデザートメニューを渡されると、少し考えてしまう。
はっきりいおう。シフォレよりここは高いのだ。
それをほいほいと奢ってもらっていいのだろうか、と。
「それじゃ、クリームブリュレをいただきましょうか」
けれども、先ほどまでの話で彼女が得たものの対価ということであるならば、素直に受け取っておくことにしよう。
基本的に年上が奢ってくれるというのならば、素直に従うのがしのの基本的なあり方なのだった。
子供と性転換ということで、一時期もめにもめた子無し要件のお話であります。このご家庭の場合は鈴音さんがぶっちぎってる感じですが、きちんと向き合ってるご家庭も多いという噂です。
あと性自認と性指向の話もちょいと入れてみました。
でもやっぱり、ふにゃっとした話が書きたいなぁ。真面目な話は本当にかいていてつかれます。
さて、そんなわけで、次回は……どっち先だっけ。ああ、はるかさんのターンです。社内旅行に木戸くんがついていきます。




