140.
「ふぅん。スコーンなんて焼いたんだ……」
へぇ。羽田先生特製のジャムまでつくだなんてなんといううらやましさ……
相変わらずトイレで手を洗っているとさくらが絡んできた。
ここの所彼女と学校で会うといったらもっぱらここだ。クラスが違うというのもあるけれど、部活関係でのやり取りもないし、放課後ライフにしたって受験が終わってイベントとか行けるよ? とかいう話はしているのだけど、今週はパスとかなんとかいろいろ忙しいみたいなのだ。
イベントの打ち合わせみたいなものもないし、斉藤さんのところに遊びに来る頻度もかなり減ったような気がする。もちろん周りの受験の雰囲気が学校ではあんまり騒げない元になっているのだろうけど。
「ちょっとしたものなら、いづもさんにコツを教わるし……ねぇ?」
周りに誰もいないのを確認してから女声に切り替える。いまさら卒業まで一月なので女声が使えるのがばれようがいいのだけど、そういう慢心はいろいろと危険ということも同時にわかっているので警戒だけはしっかりと行うことにする。
「クッキーだけじゃなく、スコーンまで……いずれ自分の力でアップルパイとか焼きそうだこいつ……」
そうしたら毎日食べさせてくださいと手のひらを返したような対応をしてくる彼女には、残念ながらお灸をすえなければならない。
「アップルパイは秘伝だから、こっち側に来ないと教えてあげないってさ」
「あー、いっちゃえばいいじゃない。別に損する人とか一人もいないわよ。って……ああ、一人くらいしかいないわよ」
なんか微妙な訂正が入ったけれど、大して変わる話でもない。確かに木戸馨よりもルイのほうが愛され系な自覚はある。けれど残念ながらそこまで踏み込む気はいまのところないのだ。
なんというか、心構えの問題なのだろうか?
写真を撮ること自体にはどれだけでも気を配る。けれども女子でいたいか、と言われると首をかしげる以外にない。というか女子でいるってどういうことだ? とまたまた首をかしげる以外にない。
ルイとしての生活を始めるようになる前に、しこたまその手のサイトをインターネットで見てきた。
それこそみんないろんな情報を、心情を語ってくれるわけなのだけど、それの熱量がもう、うわっとなるのだ。
心は女性なのに周りは認めてくれないだとか、本当は女なのとか、そうでないと絶対ダメという熱量が半端ない。
では自分はどうだ? カメラがないと確かに死ぬ。うん間違いない。
ただ、女装できないからといって、腐るかと言われるとこれが微妙だ。もちろんルイとしての活動は楽しいし、自然にできる。けれどもカメラと女装のどっちを取るか、と言われたらたぶんカメラを取る。
そういう意味で、安易に「あたし、女になります」とか言えないのである。
「ま、次回の講習会の時に、みなさんへのお礼もこねてなんか作っていってあげるから、それまで我慢で」
むしろ、シフォレに連れて行ってもいいのですよ? というと、じゃあ両方で、という回答が返ってきた。
まったく、どうしてこう甘いものに対しては強欲なのか、ほとほと困ってしまう。
それを思えば今日のチョコ配布は楽しみだ。男子の反応はどうでもいいけれど、女子の反応は気になるしとろける表情は撮影しておきたい。学校なので無理だけど。
ああ、男子の反応といえば、青木の反応くらいなものだろうか。千歳の作ったチョコを彼がどうするのか。そこのところはちょっと気になるところなのだった。
「相変わらずモテモテねぇ、かおたん……」
「これじゃミステリー通り越してホラーだと思う」
斉藤さんと佐々木さんが冷たい目でこちらを見ていた。
教師公認のチョコ配布時間は、ほいほい配っていけば済むものではなかった。
男なら思うものだろう。できればバレンタインチョコは好きな人からもらいたい、と。もしくは恋愛感情を抜きにしても好ましい子にもらいたいと。
そんなわけで、誰に渡して欲しいか先に記名式のアンケートをとってそれを一つずつ渡していくわけなのだが。
絶賛、配り中なのは木戸でありました。斉藤さんあたりもいくつか渡していたけれどもうぶっちぎりで、涙目になりそう。しかも受験がんばって、とかお疲れ様とか、メッセージもアンケートを取ったときに書いてもらっているのでそれも添えている。時々女声で、とかいう注文が入ってくるのだけど、これがいちいち演技するのが恥ずかしい。
ちなみに今の木戸は学ラン姿である。これで女声とか違和感がひどくて涙目である。
女子に関しては、無記名な人もそれなりにいたしそういう場合は適当に配ってくれるものだけれど、なにげに女子の方でもかおたんに是非みたいな悪のりが伝染してしまったのだった。
「う、なんかこの前は思いっきりノリノリで作ったけど、この空気はさすがに引く。どんびく……おまいらは俺に何を求めてるんだ……」
「だって、普通の女子にまじもんのコメントつきとか頼めねーって」
一人の男子が真理を告げた。ああ。なんかわかりましたとも。ここらへんで本気で指名をしてしまうとその後の恋仲に関してもいろいろ発展してしまうかもしれない、というところなのだろう。
バレンタインは女子が意中の男子にチョコをあげるものだけれど、チョコちょーだいといってしまうということは、つまり好きですというのと同異義語になるということだ。
その点、木戸からもらうということであればそんな心配もないし、人気者で通ってる斉藤さんあたりでもその役は十分にこなせるようだ。もちろん嬉しいかどうかと言われると、うん。渡した瞬間のふにゃりとした顔を見れば嬉しいのだろうな、きっと。
「だったら、女優の斉藤さんの方を多く書いていただきたいものです」
演技マジ勘弁、といいつつ、八瀬のカードを開いてげんなりする。
まあ、あと一ヶ月くらいで卒業なのだし、やってあげてもいいのはいいのですが。
「べ、別におにーちゃんのために作ったんじゃ無いんだからねっ。はいこれ、試作してあまったやつ……捨てるのもったいないからあげる」
顔を少しだけ背けて、むぅと唇を少しとがらせてずいとチョコの入った袋を押しつけるようにして渡す。演技指導まで指示されたそれをこなすと、目の前で八瀬が両手をすりあわせていた。リアル男の娘にチョコをもらったあげくツンデレてもらった! とかなんとか大喜びだ。ひく。まじひく。
それを聞いた周りの男子は、くっそ、そこまで要求できるなら無難なのじゃなくてもっとアレなの頼めば良かったとか、大騒ぎだ。特に去年の修学旅行で一緒だった連中は涙目である。
「もうアンケートは回収済み。というわけで書いてある内容だけしか言う気はありません。ていうか俺を選んだ時点でなんも書いてなかったら男声で渡すからな」
そこら辺は言わずにわかれと言うと、ああ、このチャンスを逃すとはと悲痛そうな声が漏れ聞こえた。
まったく、せっかく贈り物をしているんだからそれだけで喜んでおけよと思う。
他のオプションはそういうのがあるお店でやっていただきたい。チョコを食べさせるサービスまでは当店は実施しておりません。
「お前は、演技とかはなんの指定もないんだな、ハル」
「ま、まあな。チョコなんてもらい慣れてるし、いまさら……ただ他の女子を指名したりしたら、いろいろうるさいだろ? お前ならその、さ問題にならないし。っていうかどうせ後でたくさんチョコもらうしどうでも良い感じだ」
そして春隆の番が来て、カードを見ると名前の指定はあるけれど特別かける言葉は書かれていなかった。
なんだか、せっかく作ったのにそれだけ興味なさげにされるのもちょっとしゃくだ。この中には他の女の子の思いも詰まっているのだしせっかくだからしっかり堪能していただきたい。
他のクラスの女子は直接渡すのだろうけど、うちのクラスの場合、ここにすべてを込めているなんていう子もいるのである。
「ちゃんと食べてねっ、おいしいから」
だからこそ耳元でこそっと女声でささやきかける。一瞬だけ彼の身体が震えたような気がした。
周りからは、えっ、何が起きた? と見えたようでざわざわしていたのだが、特別なことなどない。
ちょっとした忠告と、お願いをしただけのことだ。
「そして最後は青木か。コメント欄なしだからいちおう、普通に友チョコとして渡すからな。本命はちーちゃんからもらいなさい」
「もとよりそのつもりだ。お前のチョコ普通に美味いし、今年も期待しとく」
「ん。受験頑張れ」
おうよ、と返事が来たところで、にまりと笑みが浮かんでしまう。
あれだけ騒動はあったものの結局元の男友達に戻れているということに感動すら覚えてしまう。
恋愛感情をかき消すには新しい恋だと言われているけれど、まさにそれは真実であると思わせられる。ごたごたはあったけれど、この二人が上手く行ったのが高校時代で一番嬉しいことなんじゃないだろうか。いや。あいなさん達と出会えたことが一番だから、二番目かもしれないのだが。
「さて、あとは女子か……こっからは気を張らずにいけるかな……」
と思いきやそうは問屋はおろしませんでした。
大半は普通に受験頑張れとか、お疲れ様ですか、空欄が多かったのだけど、その中でもシチュエーションを徹底的に書いて来ている人がいたのだ。
「ええと、執事みたいな感じで、か」
山田さん。こういうのはホントまじ勘弁していただきたいのですが。いくらレイヤーだからって他の人にまで演技を強要するとか。そんなに演技に自信があるわけではないのですよ。
「では、お嬢様。本日のショコラでございます。有名な職人たちが一つ一つ真心を込めた品です。味わってお召し上がりくださいませ」
すっと両手でチョコの包みを渡しながら、ここからの、とぐりぐり強調のペン入れが入っている先の言葉は恥ずかしくて身もだえしそうである。しかも女声でやれとか書いてあるのがなんかひどい。いいのかなこれ。
「ええっ、あの……そんな困りますお嬢様、ボクのことを食べたいだなんて……女の子同士なのに……」
頬に手をあてて、思いっきり恥ずかしそうに照れてくださいという指示までもを忠実に再現してあげる。
「はわーん。夢がっ、夢がかなったー。男装執事からの照れ受けー! さすがにクロキシさんとかにおねだりするの抵抗があったんだけど、こんなイベントで完璧にこなせる相手がいてくださったことに感謝いたします」
おぉ、神よという彼女の前で、こちらの力はがくんと落ちた。
彼女は数少ない、木戸がルイだとわかっている人だ。完璧にこなせるとわかった上でこんなシチュエーションを書いたのだろう。でも男装女子も好物だったとは知らなかった。
けれど、これにて試合終了である。周りからの視線がいささかうっとりしているようなのだけれど、そこらへんは気のせいだと思いたい。男装執事でぽっとしないでいただきたいものだ。
けれども、その姿を見て反応しているのは何も女子だけではなかったらしい。
チョコを一つつまんで口に入れているハルを横目に、勝ち誇ったように八瀬が言った。
「な? どこにも可愛さ捨ててないだろ」
あれのどこが無難さに逃げたやつなのかお教え願えますかね、と言われてハルは少し悔しそうに目を細めて、ぷぃとそっぽを向いた。特製と書かれている袋に入っているのは、砂糖が多めの甘いチョコだ。
ほろりとそれは口の中で溶けて、苦くて甘い味わいが広がっていく。
可愛いのは正義なんだよ? だから怖がらないで、と幼いあの頃に言っていた言葉が頭に浮かぶ。
「すげぇな……ほんと。してやられたって感じだよ」
負けました、と言いながら春隆は一人、チョコを配り終えた幼なじみに視線を向ける。
その視線の先には中学の頃自分を庇ってくれたあの可愛い子の面影がそのまま眼鏡越しに残っているのだった。
バレンタイン企画2.たべるー、です。
まあわたすーのほうが正しいのかもしれませんが、誰からどうやって渡されるかって割と重要ですよね。かおたんに演技とはいえ、照れ赤面でコレもらってくださいっ、とか言われたらもう、たまりませぬ。
そして春隆くんをきちんと卒業までに処理したかったということで、でていただきました。
明日ですが今の所未定です。休日出勤なのでその間に考えて夜書く感じです。でもさすがにいづもさん宅のブッシュドノエル会は丁寧に書きたいのですよね……




