116.
千歳ちゃんのところに到着する予定でしたが、本日はそこまでいきません。
「お昼までは時間あるけど、どっか行きたいところある?」
漂ってくるカレーの匂いをひくひくかぎながら、まだお腹が空かないので木村に声をかける。
彼もその匂いは感じているようだけれど、特別お腹がすいたとかって話はないらしい。
漫研での展示は割とすぐに見終わってしまったので、まだ十二時前である。かき入れ時に千歳のところに長居するのもあまり好ましくないということもあるし、せっかくだから学校生活をエンジョイしてそうな彼に、行き先を決めてもらうことにする。
「じゃー一カ所付き合ってもらうかな。せっかくだし」
こっちだと言われててくてく歩いて行くと、特別教室が並んでいる棟のほうに移動になった。特別教室が並んでいるところで、特に部活関係の出し物が多いところだ。
「おまえが化学部に知り合いがいるなんてなんか意外」
そうして連れてこられた先はもちろん木戸にもお馴染み、化学室の前だった。
物理室、化学室、生物室、地学室と四つの部屋がそれぞれの階の端の一番いいところを占拠しているのは、この学校に理数科があるからだ。特進クラスのさらにもう一個先にあるクラスなので木戸が今まで絡んだことはまったくない。あそこは受験すら単独だし、授業形態も通常クラスとは異なる理系特化なのである。男女の比率も三対一で、男だらけの空間なのだという。正直女友達の方が作りやすい木戸としてはちょっと未知の領域である。
「いや、ほらお前にいわれて体育の授業のやり方変えただろ? それであんまり動けないやつらに教えたりとかしてたら、ちょっと気があって仲良くなったんだよ」
化学室の壁面にはいくつかの張り紙がされていた。イベントやってます的なものだ。
香水の販売と、トンボ玉づくりなどのガラス細工系。ガスバーナー使い放題だからこういうのもできるということなのだろう。
「おっ、木村じゃん。ちょうど化学マジック始めるところだから……って、おま、彼女連れかよ……」
カラカラと扉を開いて中に入ると、一人の小柄な男子生徒が声をかけてきた。小柄といっても八瀬と同じくらいだろうか。二年の時に隣のクラスだったやつだ。体育の時にちょっと絡むくらいで、特別話をしたこともろくにない。けれど明らかにパワー系スポーツは苦手そうだなぁという印象の相手である。
「うちに来てくれたら、貴方も彼女にしてあげますよ?」
ふふっと苦笑を漏らしながら言うその言葉を彼は理解したのかどうか。
ぽかんとしているので、なにいってんだこいつという感じだろうか。
「ああ、これは彼女じゃなくて、かおたんだ。コスプレ写真撮影の出店してるんだけど、そのスタッフ」
「かお……たん? え、馨? あの木戸くん?」
え? なに? と木村の注釈が入ってようやく彼は気づいたらしい。これは、のところで頭をぽふぽふされたのだけれど、そういう仕草は彼女にしてあげてくださいよ。くすぐったいではないですか。
「そう、その木戸くんだ。だから断じて木村の彼女ではない」
ぼそっと男声に戻すと、彼はうわぁと目を大きく見開いていた。
「確かに可愛いってきいちゃいたけど……反則すぎる。なんだこれ……くふぅ。どうして俺達はかおたんのかわいらしさを今まで認識していなかったのか……」
くっそぉーと彼は絶望混じりの嘆きの声を上げた。いや、そこまで嘆かなくてもいいじゃないですか。
「別に俺が可愛かろうとそうじゃなかろうと、どうでもいいだろうが……男同士なんだしさ」
普通なら、そこはドン引いて、やば、きもとかいうところのはずなのに、なぜか彼は早く知りたかったと言ったのである。
「うあ、その演技に騙された……黒縁眼鏡恐るべし。知ってたらぜってー修学旅行もっと愉快になってたのに」
「愉快って、クラス違ったろうが。絡む場面なんてないだろ」
「ほら、あんとき女子風呂覗こうって大半が騒いでただろ。でも実際は同じ場所にすげーもんがいたっていうこの事実は、あーもう、なんかやられたっていう感じだ」
「あ、俺は凝視してた」
いいもん見させてもらいました、と言い切る木村にげんなりさせられる。
男の裸を見てどうしてそんなに大欲情できるのかわけがわからない。
「……サイテー」
ぽそっとあえて女声で言ってやると、うひぃと木村が慌てだした。別に木戸的には男湯に入っている以上は見られる可能性はあると思っていたし、八瀬あたりは「ガン見します」と宣言していたのもあって、あのときの視線はしかたねぇなーなんて思っていた物だったのだけど。まさかもう一人いるとは思っていなかった。
八瀬の視線はいいのか? ということだけれど、むしろ身体が男だというのがわかって良い機会だと思ったのだ。あいつなら、だがそれがいいとか言いそうだが、女装仲間でもあるし変な気は起こさないだろうとも思っていた。一度あんなことをやらかしているからこそ、次やったら怒ると伝えてあるのだ。
それに大きいお風呂に入れる機会なんてそうそうないので、お風呂好きとしては入らないという選択肢がなかったのである。
「……うわ、それ、声の振幅変えてだしてんの? ふっつうに女子の声だよね?」
そんな話をしていたのを聞いたのか、のそっと一人の男子が絡んでくる。
何年なのかは判別が突きにくい。女子はリボンの色で一目瞭然なのだが、首元にくっつけてる校章の色か上履きの色で判断する以外にないのだ。
でも、こちらの学年自体はわかっているはずだから、それに気軽に話しかけてくるとしたら同学年か。
見たことがない相手だけれど、あんまり学校関係に詳しくない木戸としては知らない相手なんてごまんといるのである。銀香のおっちゃんたちなら顔見知りなのだが。
「ああ、唐突にすまん。僕は九組のナガセってんだ。さっき男声もだしてたし、君、男子だよね?」
その相手はこちらの怪訝そうな顔を見て、おぅと、一歩下がった。
なんというか、彼は大人しそうなクマさんという感じの人だった。身体は大きい。柔道とかやってそうな骨格というか、身長だけではなく横にも大きいのだ。少し圧迫感を覚えてうっとなったのだけど、それに気づいたようだった。よくある経験なのかもしれない。
「ええ、まあ。男子だけどそれが?」
あえて女声のまま、なんか文句ある? と言ってみる。男子相手の場合、女声の方が相手の牽制になる場合が多いのだ。ことさら可愛い声をしているわけではないけれど、同性の気安さというのがぶち壊れる関係で相手も構えるようなのだ。
「いや波長とかそこらへんの研究しててさ。すげーなぁって。是非ともサンプルとして声を採らせてくれないかな」
「でも、それなら演劇部の澪の声採った方がいいんじゃないの? あたしの声って肺活量で出してるようなもんだけど、あっちのほうが声量もでてるし、いいと思うけど」
「演劇部にも両声使いいるのか……そういや行方不明の舞台女優がいるとかって噂もあったけど、そいつか」
澪には申し訳ないけれど、研究材料になるならそちらを採っていただきたい。こちらは撮る側、あちら撮られる側。サンプルボイスを採った上で波長の研究をしてくれるのであれば、より精密な声を作り出すことも可能かもしれない。とはいえ、ルイとしてはこれ以上声に望みはないのだし、別段日常生活ができているので必要ないのだ。そりゃ風邪を引いたときにがくんと声がやられるという問題点はあるけれど。そのときはあえて女装する必要もないし家で寝てるようにしている。くしゃみや咳の研究はずいぶん進んでいるし、さすがにぶえっくしょーいと男らしいくしゃみはしないでも済んでいるのだ。
「それも君が? 女声を出す場合ってだいたい、きぃきぃした高周波になるのが一般的だけど、それちょっと違うよね」
「あー、うん。まぁ……」
ふっと軽く喉のあたりに意識をいれて、話し始める。
「こんな感じにする発声ってやつですよね? 先輩っ」
木村に悪のりして、あざと可愛くさらにハイトーンにしてにこりと笑いかける。先輩といっているのは単なる趣味である。この声だったら年上の男の人に向けたいものである。
それを受けた彼は思い切り硬直して、残念美人残念美人と呪文のようにつぶやいている。
「ちょっ、おま、なにそのかわいい声……」
「声帯を使ったハイトーンってやつだ。女子が時々意中の男性にたいして甘えるような声を出すだろ? あれとおんなじ感じ。まー声帯絞っちゃうからもうちょっと高いヘルツになっちゃうんで、アニメ声っぽいかもしれんが」
それを思えば、ルイの周りに居る女子って割とみんなローテンションだよな……崎ちゃんだけはテレビの向こう側では時々、ハイテンションな声を上げてることはあるけど、ルイと一緒の時はくやしがったりで多少は声が上がることはあっても、いっつもローな気がする。
男子向けのこびっこびな声なんて聞いたこと一度もないんじゃないだろうか。
「そっちもしっかり使いこなせるとか、すごいなぁ。しかも耳あたりもいいし」
是非ともそのサンプルも、と彼が乗り出してきたので、お断りしておく。
「私なんてまだまだです。それなら声の専門家を名乗る人達にアプローチしてみるといいんじゃないですか?」
身近で済ませようっていうのはよくないですと答えておく。
彼には悪いのだが、ネットをあされば女声を目指す人なんてざらにいるのだし、サンプルが欲しいなら座して待つよりは動けばいいのである。
「いや、でもそんなの迷惑かもしれない……し?」
「こっちだって迷惑だからな。受験だしって……おまえは研究とかやってていいのか?」
全力で文化祭の部活にも参加している上でさらに研究ときていて、この人は大丈夫なんだろうかと思う。
なので男声に戻してだいじょうぶかお前はと問いかける。
「あー、推薦もらってるからそこらへんはまったく」
「んがっ。なんともうらにゃましい……」
くぅ。これだから特進とか理系とかはすかんのです。これで方針は決まった。彼には協力しない。
巻き込まれ系は自覚しているけれど、ほいほい相手に付き合ってあげるほど暇ではないのである。
それに、声の録音について少し過敏になっているのは、ルイの声との波形を照合されると、声紋で同一人物なのがばれる恐れがあるのだ。ルイとしては去年学校にきているのもあるし、映像なんかも残っている可能性は十分にあるので木戸の方としてはサンプルを採られるわけにはいかない。
そして極めつけ。こちとら半年以上カメラいじる時間を削って勉強してきて、それがまだ半年も続くというのに、目の前の相手は好きな研究をしているのだというのだから、そこにむかっときてしまうのである。
「姫はご機嫌斜めなようだ。悪いが今日は引いてくれ」
「そうだぞ。今日はせっかく化学部にかおたんが来てくれたんだから、いろいろ見てもらわにゃならん」
去年隣のクラスだった男子も加勢してくれて、とりあえず長瀬氏は引いてくれた。
周りが今何をやっているのか気づいてくれたらしい。冷静になるのは大切なことだ。
そして、化学マジックといっていたものを見せてもらったり(手が燃えても大丈夫とかああいうやつ)、ガラス細工の体験などもやらせてもらった。
「そして香水か……んー、今日はなんもつけてないからなぁ。どういうのがいいかな?」
瓶が綺麗って思って先ほどから何枚かその小瓶を元にして写真を撮ったりしてみたのだけど、さすがに匂いの方も感じてくださいと言われて、それぞれの瓶を開けて手をぱたぱたさせる。
その仕草をなぜか不思議そうに木村は見ていたのだけど、香水の匂いをかぐときは細長い紙に浸してそれをくんくんするか、こうやって瓶から漏れる匂いを仰いでかぐのが一般的なはずだ。
「俺のイメージとしては……柑橘系っていうのか? ああいうのかなって思うんだが」
甘いのも良さそうだけど、今の良家のお嬢様という感じだとちょっとあわないかも、と彼はこちらの全身を改めて見てくる。
「むしろ黒髪ロングだと和風になっちゃうから、お香の方が似合うのかもね」
客観的に今の自分の姿を見ると、匂い袋とかを持ってそうな印象だ。普段のルイなら通常はさわやかな柑橘、樹木系で、甘すぎないようにしているけれど、姉に引っ張り出されて合コンの補充に使われる時は、これ使えと甘めのを押しつけられたりすることはある。
もちろんつける量は少量。手首や後頭部、肩なんかに落とすことが多い。
「そっちまでやったことあんのかよ……」
「んー、イメージの問題っていうのかな? ちょっと友達がそういうのも好きで、雑貨やとかにいったときに飛びつくんだよね。確かに大人しいのが多くて、日本人には香水よりお香かもって気にはなる」
友達というのは言うまでもなくエレナのことだ。あの子の場合は学校に行くときはかなり控えめな匂いにしているらしい。母親の部屋にあるのは海外の香水ばかりなので、お香もいいよねーなんて言っていた。アロマ自体がリラックス効果があるし、あの部屋で焚いたらすごく似合いそうだ。
ちなみに木戸家の香りは、どちらかというと食べ物である。生活感半端ないのである。
「んじゃ、ここらへんを使ってもらうか」
小瓶に入った香水の香りは、レモンを中心としたさっぱりしたものだった。
それをなぜか、彼はこちらに押しつけてきて、やる、と言い放った。
三百円するものをこんなに簡単に、しかも女装男子に渡すだなんて。
「えっ。それ割ときもいんですが」
普通に一歩引いたら、彼は、ば、おまそういうんじゃなくて、とわたわたする。
「そういうなよー、なんていうか……さ。覚えてて欲しいんだ。別に彼女にプレゼントとかそういうんじゃなくてさ」
「覚えてるもなにも、忘れようがないと思うんだけどねぇ」
香水の小瓶を少し揺らしながら、自信なさげな彼の横顔を見上げる。
そういう心配をする必要はまったくないと思う。そりゃ関わり合いはそう多い方ではないけれど、いろいろとインパクト強すぎて忘れようもない。おまけにルイの時にはくまさんまでつけているくらいである。
「それでも心配なら、一枚、写真を撮らせてもらえないかな?」
被写体のことは絶対覚えていますからなー、というと、しかたねぇな、お前はと観念をしたようだった。
はい、化学部集まってと、手が空いてそうな人達に声をかけて、記念撮影をしておく。
そのときのつやつやした顔を見たからだろうか。
木村氏は、あきれ顔で、こういうやつなんだよな……ほんとは、とつぶやいていた。
全面書き下ろしで化学室に連れて行ったら、余計な方がでてきた関係で長くなってしまいまして、分割です。なかなか千歳ちゃんたちに会いに行けないんですけれど!?
しかもなんか普通にデートじゃねぇですかい。
木戸くんは、男子として女装しているという状況から気が緩んでいますが、もう少し男心をわかっていただきたいものです。
化学部と香水作成は、作者の母校の風景から、です。あの小瓶かわいかったんですよねぇ。燃えても大丈夫なアレとかも、ちょっと懐かしい。
そしてついに明日こそ、千歳ちゃんのところに参ります。文化祭編がなんかやたらとやりたいこといっぱいですごい長さになってますが、まぁーこのままいけいけどんどんです。




