112.
遅くなりました。ちょっといづもさんの話書いてたら筆が進みすぎて……orz
「はぁはぁ……」
電車の中で慣れ親しんだ嫌な声が耳元で聞こえた。
湿気を含んだその吐息。正気を失ったかのようなそれは、いつ聞いても不快にしか思えない。
さて。今回の被害者は実はルイではない。というのも今日は大きな町の書店まで参考書を買いに行くというクエストの帰りだからであって、ルイではなく木戸の姿で電車に乗っているからだ。
思えば、私服姿で男子というのがとてつもなく久しぶりすぎて、なんというかジーパン姿が妙に変な感じがする。
学ランのズボンは若干だぷっとした作りになっているからそうではないけれど、このぴったりフィット感というのがどうにも、なにもはいてないのではないか、という変な印象になってしまうのだ。ルイのときはスカート姿のほうが遙かに多いからそっちになれてしまっているというところなのだけれども。
「ま、そんな感想はともかく、だな」
いま、絶賛痴漢され中なのは、扉のわきの壁に身をもたれかけさせている女の子だ。
これを助けると、さくらからまたフラグがどうのとさんざん言われるのだろうが、かといって涙目の子を放置しておいていいはずもない。
「ちょいとごめんなさいよー」
おっと。と電車が揺れたタイミングで太ももあたりに入っていた手を打ち払う。ぴしりとこちらにも刺激がくるけれど、この際しかたない。
そうすると、不快そうな視線がこちらに向いた。
「安全はお金で買うものだ、という風に教わりましたが?」
あくまで小声で、苦笑を浮かべながら言ったらなぜかその男はびくっとなって次の駅でそそくさと逃げ去ってしまった。
なんだったんだろう。まさかこの完璧な男装状態で、女子高生がわざと痴漢させて金をせびるというアレな展開を想像したんだろうか。いやまて。ちゃんと声も男声だった。その展開はさすがにないだろう。
「あの……助けていただいてありがとうございます」
ぽそっと取り残された女の子はもじもじしながらこちらにお礼を言ってくる。
ほっそりとした体型をしている子だ。身長は木戸よりも少し高いくらい。木戸が規格外に小さいのを差し引いても、女子の平均よりは上というくらいだろうか。その分手足がしっかりと長くて、しかも余計な肉もついていないほっそりとした印象の子だ。
「んー。いいよいいよ。それよりこういうの、割と多いの?」
相手を不安がらせないように口調は柔らかく。若干ルイっぽい口調だが、声を変えてないので問題はない、はずだ。
「いえっ。そんなことは……きょ、今日はたまたまっていうか、その……あんまり電車で外に出たことがなくて」
「ほほぅ。お嬢様というわけなのですね、わかります」
少し、ネットスラングっぽい口調を交えながら話を続ける。
「それでもないですっ」
電車の中だからなのか、彼女の声のボリュームはかなり絞られている。それでもむっと言い切る姿はあきれ半分のようでもある。
そして数駅して電車を下りると、すとんと彼女もホームに足を下ろした。
「あの……おにーさんもこの駅だったんですね」
「いちおー繁華街だしな。買い物ついでに寄りたいところがあってさ」
時間はそんなにないのだが、帰りがけにシフォレでケーキでもと思っていたので途中下車をしてみたのである。いちおう男子だから断られるだろうけど裏口からテイクアウトくらいは許してくれると思う。駄目だったら眼鏡を外せば女子で通る。それで通ってしまう自分というのもどうかと思うのだが。まあ最終手段だ。
そんなことを思いつつ、そんなわけでと、と手を軽く上げると、おどおどした声がかかった。
「あの……お礼、させていただけませんか?」
「それでわざわざ同じ駅に?」
彼女は、なんとか覚悟を決めたようで、きりっとこちらに視線を向けると胸元の両手の拳をきゅっと握りしめた。
さっきからなにか言いたげだったけれど、痴漢から助けたくらいでそこまでかしこまらなくてもいいのにと思ってしまう。
「違います。もともとここに用があってそれで、ついでっていうか」
ご一緒できたらな、と思って、と彼女はほんのり頬を染める。ふむ。初々しいその姿は身近な女子ではとんとご無沙汰なものだなぁと、心の中でシャッターを切っておく。
「すっごくおしゃれでかわいいケーキやさんがあるって話なので」
「シフォレのことかな」
「ご存じなんですか?」
ぐっと彼女は前のめりにこちらに近寄ってきて、うわわっと一歩下がった。さすがに近寄りすぎたと思ったのだろう。それくらいこれくらいの子にも興味を持たれてしまうあそこは、繁盛してるなぁとしみじみ思う。ホームページ効果ももちろんあるのだろうけど、口コミも相当なのだ。
今度メニューを一新するときは、ルイちゃんにデザートの方の写真もお願いしようかしら、なんて言われてプレッシャーをかけられてはいるのだけど、今掲載されてる写真とてそうとうの出来のものだ。いづもさんの心だけは開かせられなかったけれど、おいしそうな料理の写真はしっかりとしたもので、そこらへんもかなり集客に役立っていることだろう。
「それなりにはご存じ、かな。それならご一緒してもらおうか。いづもさんもきっと君には会いたいだろうし」
さて、どう答えたものかと思いつつ、いづもさんの顔を思い浮かべながら答える。
男のなりで行くのは初めてだけれど、彼女がこれならば問題はないだろう。
そう判断してはてな顔の彼女を先導役にして、シフォレに向かった。
シフォレに到着すると、すでにそこにはわんさと人が並んででいた。いうまでもなくその列はことごとく女の子。今のところ、混ざっている気配はない。彼女に連れられてきた男の人達が数人と言ったところで、男子の数はせいぜい一割といったところだ。
「こうしていると、カップルに見られたりするんだろうか……」
「んわわっ、そんな。そんなことないです……せいぜい兄妹とかそういう感じにしか……」
列の最後尾について、周りを見ながら言うと彼女ははわわと、慌てながら手をぱたぱたさせていた。ちょっとからかっただけなんだけれど、とてもかわいい対応をして下さる。今日はちょっとの買い物だけのつもりだったのでコンデジすら持ってきていないので、あくまでも心のフィルムに焼き付けておくしかない。惜しい。
そんなやりとりをしていたら、ちょうど入れ替えの時間に当たったのか、列がぐっと先に進んだ。
そしてちょうどあと数組、お店の中に入ったあたりで、従業員さんに声をかけられた。木戸としてもお馴染みのお相手だ。
「あっれー、馨くんじゃない。うわー結婚式以来ねー。写真ありがとね。すっごく素敵に撮ってくれて」
「愛さんきれいでしたからねぇ。えすてちっく、の勝利ですか」
かすかにルイとしての感覚を出しながら、柔らかい対応をする。とはいっても地声なのでそこまでおかしいとも思われないだろう。年上のおねーさんを相手にしたときの口調としては及第点じゃないだろうか。
「へっへー。そのためにここのケーキも我慢してたの。今じゃ、もーリバウンドしちゃったけど」
「そうはいっても、ちゃんとスタイル保ってるじゃないですか。むしろご主人の方が太ってしまっているのでは?」
「あはは。時々おみやげでお店のお菓子持って帰るからねぇ」
先日の結婚式の新婦であられた愛さんは、さほど変わらないお腹周りにじっと視線をやりながら、てははと笑った。そもそも結婚式の前の女性のボディケアが大変なのだろうなぁと思わせられる。式の当日ウェディングドレスを着込むところで打ち合わせをさせてもらった時に、大変だったんだからーなんて軽口がでたくらいだ。その努力の果てをしっかりと綺麗に写せたのは良かったと思う。
「それと……ほほぅ。今日は女の子連れなのねー」
隣をちらりと見ると、きゃーんと一人盛り上がられてしまった。いちおう男子である木戸を一人で入れるわけにはいかないとでも思ったのだろうか。同行者の方を探した先で出てきたのがこんな少女なのだから、そりゃテンションだって上がるだろう。けしてカップルだというわけではない。
「この子は行き掛けに袖すりあった多生の縁でですね。別に女性同伴じゃないと入れないから強引になんてことではないのですよ」
王子じゃあるまいし。というと、ぽかんと愛さんが口を開いた。知り合いなの? というくらいだ。
「同じ学年でこのまえの三月にはクッキーづくりの講習に出させられました。まーさっくさくのクッキー焼けるようになりましたけど」
「あの、木戸さんって、ここのお店とどういう関係で?」
やりとりを聞いて不信に思ったのか、瑞樹ちゃんが不思議そうな顔をする。
すこし置いてけぼりにしすぎただろうか。
「ああ、うちの父の部署の部下と、このおねーさんが先日結婚してね、その時写真係やった縁でそこそこ仲良し」
ここで会うのは初めてなんだけどね、と木戸としては初めてなことを強調しておく。愛さんももちろん、よーやくなのですよーという反応だ。シフォレでルイと木戸の関係を知っているのはいづもさんだけだ。まあいづもさんがやたらと木戸と仲がいいところをいぶかしんだ職員に、女装する子なのでという答えはしているようだが、それくらいならば特に問題はない。
「そーなのっ。係長さんには感謝してもしたりないくらい。もちろん馨くんにもね」
その時、席が一つあいて、お会計の人がレジに向かった。
それじゃ、申し訳ないけど、と彼女は仕事に戻っていく。給仕人としては人が動く時こそがお仕事の時だ。
入れ代わりのように。厨房での仕事が一段落したいづもさんが顔を表す。まったくVIPな対応にしてもこれは手厚すぎだろう。
「る……じゃなかった馨くんがうちに来てくれるだなんて、もううちはダメなのかしら。あの貧乏な木戸くんがうちに来てくれるだなんてっ」
「くっ。エレナですね。エレナのやろーですね。そのフレーズはもう過去のものですよ。っていうか、みんな割と常連してます?」
高校一年の頃は確かにそんな感じだったけれど、衣類があるていど一巡している今、カメラ系の機材やらの分は消費しているけれど、そこまでひどい倹約をしなければならないほど経済的に苦しいわけでもない。
「そりゃねー。受験勉強とアルバイトしかしない木戸くんと違ってみんな社交的だもの。そういやこのまえ、エレナちゃんが彼氏つれてきたよ? あれ、大丈夫なの?」
「さぁ。そればっかりは心配してもしょうがないから、親父さんとぶつかったときに味方になってあげようってだけ思ってますけど」
他にも味方になってくれる人はいっぱいいるでしょうし、と付け加える。
エレナは親父さんに女装の件や、彼氏がいる件を言っていない。別に隠しているわけではなく言ってないだけだ。それがしれてしまったらどうなるのだろうか。そもそも子供の変化に気づけない父親というのもどうなのかと思うのだけど、あそこまでの企業戦士としてはしかたがないのかもしれない。
「ああ、そうそう、この子がシフォレに憧れて来てみた感じですが、入店はおっけーですか」
「いいけど。ほんっとーにあなたのその遭遇率は異常よ」
いづもさんが目を細めて、先ほど電車で回収した彼女、瑞季ちゃんを見聞する。まあ、なんだ。一瞬だ。
「人をよーかいのように言わんでくださいよ。それにこの子のことだってまだなーんもきいてないんです。シフォレに来るの目的で遠出してきた中学生ってだけで」
「えと、そのなんの話ですか?」
「野暮はいいっこなしということでまずは席へどうぞ」
おどおどと言う瑞季をちらりと見ると、いづもさんがあいた席に案内をしてくれる。
何か言いたげではあるのだが、さすがはまだスレていない中学生だ。素直にちょこんと椅子に浅く腰をかける。
そして、メニューを渡すとさきほどの疑問はとりあえず棚上げをして何を頼むのかに集中してしまった。かわいいもんである。
ちなみに木戸の注文はもう決まっている。
さきほどの痴漢撃退のお礼ということで、ここは彼女がもってくれるようだけれど、そうなると逆にあまり高価なものも頼めないから、控えめにアップルパイとコーヒーのセットだ。それに王子もおすすめという生地のよさを味わうにはこの選択はベストだと思う。
瑞季は紅茶とクレープをオーダーした。
ほどなくしてまずは彼女のスイーツが姿を現すと、彼女はぱーっと顔を明るくした。
シフォレのものは見た目もすばらしく、食べるときにいつも、いい光沢! なんていいたくなってしまう。
彼女はいただきますといいつつ、クレープをナイフで切って口にいれた。
まったく。その仕草はどれをとっても男の子らしさからはかけ離れている。
そう。女装してまでシフォレにやってきた男の子という認識だったのに、その仕草を見せられるとどうにも自分の目を疑いたくなってしまうのだ。自分はルイの仕草を中学の頃に得ていたかといわれたら、NOだ、と思う。幼い頃はかわいいと言われていたけど、高校にはいって磨き込んだものがこれだ。そりゃ丁寧な感じの身のこなしはしていたけれど、野々木さんも言っていたとおり着せただけ、着ただけだった感じはある。なんせ着せ替えるだけでそのあとの日常動作をしていなかったのだから。当時はそれこそスカートの扱いすら適当だったのではないだろうか。
それを中学の頃にこなしてしまっている。エレナみたいな天然もいる。それは知っていても、スペック高いなぁとかすかに嫉妬らしいものを感じたりもする。
今を不遇だとは思わない。十二分に楽しいことはしているのだけれど、中学の頃から動けたらいまよりも、という思いはちらりと出てしまう。
そんな思い、きっといづもさんのほうが嫌になるくらいにしているのだろうが。
「ちょっと怖い顔してます? 大丈夫ですか?」
「あっ。ごめん。ちょっと考え事」
気にしない気にしないと、眉間のあたりをもみもみしながら女の子向けの営業スマイルをのせる。
とはいえ口ではそうはいっても、手が震えるのはどうしたものか。
くあ。なんだその幸せそうな顔は。ああ。あああ。手をいじってみても、そこにカメラはない。うずうず。
「どうしたんですか?」
「いやぁ、女の子がスイーツ食べる瞬間はいい顔するから、それが撮れないだなんて」
「ケータイで撮ればいいじゃないの」
いづもさんがコーヒーとアップルパイをサーブしながらからかってくる。
「くぅっ。そんなこと言うなら、次とる写真めっちゃ男らしく撮りますよ」
「まっ。いうに書いて漢らしいだなんてっ。たぎるわねっ」
「あてる漢字をわざと変えるとかっ。まあお店切り盛りしてるのは漢らしいっちゃあらしいですけども」
いづもさんの返しに毒気を抜かれながらも、肩をすくめる。次にメニューを変えるときにはオーナー写真も撮り直してね♪ と言われてもいるので、その件で悪あがきでをしてみたのだが、上手く返されてしまった。
「なんの話をされてるのです?」
そんな二人のやりとりに取り残された瑞季が一人きょとんとしてしまう。それこそここに来るまでで木戸達の会話のはしはしにいろいろな情報があったものだけれど、どうにも未だ彼女は自分がどう見られているのかにまでは考えが行かないらしい。
まあ、そりゃ最初の頃は、ばれたなら速攻で笑われてひどい目に遭うもんだと考えがちだし、普通に一緒にご飯を食べているのなら大丈夫というふうに思ってしまうのも無理はない。
「んーと、瑞季ちゃんだっけ。いつくらいからかわいいかっこで町中歩いてるのかなって」
そういう話です。といづもさんがいうと、彼女はびくんと体を震わせた。
「へっ? ばれてるんですか?」
「きっと馨くんだってわかってて一緒に連れてきたんでしょ?」
にんまりそう聞かれてしまうと、その通りですとしか答えられないのだが、直接的な表現は避けることにする。
「八瀬のやつなら、こんなかわいい子の太ももに触るだなんて許せないって鬼の形相するでしょうね。あんにゃろう自分は力一杯にぎったくせに」
「あらっ。そんなことがあっても仲良しだなんていいことね。まあそれはともかく」
おねーさんにいってごらんなさい、と話を瑞季にふる。
「ああ、別に入店云々はここ女装もおっけだから気にしないでいいよ」
女性同伴限定と書いてあるところに入ってばれたら、やはり最初に気になるのはそこだろう。ましてや中学生である。たとえばれていると言われても、悪あがきしたくなるのが人間である。
そこにフォローを入れたら彼女は、あからさまにほっとした様子で顔を上げた。
「えと、まだ三回目くらい、です。でもここのケーキは食べてみたくて、その」
がんばりました。と照れたような顔があまりにも無邪気できゅんきゅんしてしまう。
「ういういしい。くっ。この初々しさを我々は忘れてしまったような気がする」
「我々って?」
きょとんとする声にいづもさんがあっさりと答える。
「あーこの子も女装するからねぇ。三年くらいになるんだっけ?」
「自主的にはそれくらいですかね。ただ、中学のときは先輩のオモチャになってたから」
年期としては割とというと、ぱぁっと彼女は目を輝かせた。クレープを食べていた時ばりの輝かしい笑顔だ。
「初めてそういう人と会いましたっ。是非ともその、見せてほしいところですけど」
「うう。きらきらした目が痛い。で、でも割と女装のほうは有名人だからちょっとダメなので」
眼鏡だけをシルバーフレームのにかえて、それから声音と口調だけを変える。眼鏡を変えれば仕草も自然と変わるので、動きも少ししなやかなものになる。ほおづえを軽くつきながら柔らかな笑顔を浮かべて切り替えた声を彼女に向けた。
「声だけで我慢して? これでも十分女子で行けるとおもうので」
「かわいい格好しなくても女の子に見える」
どよりと彼女の相貌が崩れた。心底驚いているという風な様子だ。
自覚、してないんだろうか? 彼女自身そう顔もいじってないだろうし、そのままで十分かわいいのに。
別にこの程度のことで驚かないくらい、自分自身だって十分すごいのに。
「なんていうか、馨ちゃんは雰囲気からして切り替わるのよね。素はあんなぶっきらぼう男子なのに」
「もーひどいなぁいづもさんは。こっちだといつもふわふわな別人格なんだし、女の子なんですからね」
「はいはい。わかってますよ」
いづもさんとの言い合いも少し軽々しいものになる。それを見ても彼女ははわはわと大喜びでこちらを見つめていた。むしろ喜びすぎなくらいだろうか。
「言っておくけど、女子に見えるっていうのよりも瑞季ちゃんがやってる、美少女に見える、のほうが大変なんだからね? そりゃあたしだって本気だせばそこそこいけるけど、女装三回目でそれって、バランス悪いって言うか」
無自覚な女の子みたい、と苦笑を漏らしながら、それでもそこが魅力なのだよなぁと八瀬がいっていた台詞が頭に反響する。
彼が言うところの、男の娘の最高の利点は、自分自身のかわいさを理解していない点だということだった。
ルイは、そこそこ自分のことも今ではわかっているし、ある意味小ずるい女っぽさを身につけている。八瀬にもうちょっと男の娘っぽくしろよーとさんざんせがまれるのだけれど、今更だいぶ無理である。
誠実であろうとは思っていても、無邪気ではもういられない。ルイはそれだけ経験を積んでしまったのだ。良くも悪くも。
ちなみにエレナは女の子の小ずるさも知った上でそれを知らないふりをして男の娘を演じきる。そんな彼女が自分に対してはくったくのない構えない姿を見せるのだから、それはそれでありがたいことなのだけれど。
「それで瑞季ちゃんは、なんだって急にその道にはいっちゃったの? あたしはそれなりな理由があるけど……聞いてもいい?」
ん? とおねーさんっぽい感じで首をかしげてみせる。
「えと、その……純粋に興味というかなんというか。女の子って楽しそうってそういうのりで」
「実際、してみて、その、楽しかった?」
「はいっ。それはもうっ。そりゃ……さっきのはちょっと嫌でしたけど」
「わかるー。どうして男の手ってあんなにきもいのかわけわからんよね」
物理的に肌に触れているだけ、なのになぜかとても気持ち悪いのである。そこにあるのはよこしまな感情だからなんだろうか。
「馨さんも、その……痴漢されたことが?」
「毎週末ずっと外歩きだったし、そりゃそこはかとなくたんまりとございます」
いづもさんはー? と聞くと、ふーんと首を背けられてしまった。
「あたしが若い頃なんて、あんたたちみたいに堂々と外歩けなかったわよ。なによ痴漢された談義で盛り上がるなんて」
もー、うらやましいんだから、といづもさんがくねくね体を揺らす。
「いやいやいや。一回はされてみたいって思っても二度目以降はもーさんざんって話になりますよ」
特に女装するような人間は痴漢されること=自己存在の証明みたいな風に捕らえることがある。そう魅力的な異性に見えるという確証が痴漢という行為で得られるわけだ。
ただそれが得られてしまったあとも続けば、ただうざいだけ。人によっては「まったく馬鹿な男たちですこと」とそのままにしたり、「変に興奮しちゃって」電車で痴漢されるのが楽しみ、という痴女の方もいるとかいないとか。
けれども、ルイとしてはやっぱりあの指の感触はきもいのである。
「私ももう、こりごりです……」
「割と嫌がるよりは、拒絶したり、ちょっと横にずれるだとか……って満員だと無理だけど」
「でも、もし問題になって警察とか呼ばれたら……親にばれる」
そうしたら大惨事ですーと瑞樹ちゃんはなげいた。
「それいえば、両親に公認されてる馨ちゃんはばんばんざいじゃない?」
「公認じゃないです。あれは放任とか黙認ってやつです」
まったく。女装姿をみせると二人して慌てふためくのだから、困る。
「それに、ばれて大ダメージっていうのはあたしもですよ。警察沙汰はこまります。スキャンダルになるし」
「あんたも大変よね。有名人の彼氏とかって」
実際、つきあってるんじゃないのー? と言われてぷるぷると首をふる。
「その話題は禁止ってこのまえいったじゃないですか」
固有名詞こそださないのだが、いづもさんがいっているのは崎ちゃんのことだろう。それとも翅さんのほうだろうか。
あの事件の後もちらほらとマネージャーさんからはコンタクトが来ているのだけれど、適切にお断りしている。
翅さんはさすがに連絡はしてこない。
「あははん。まー確かにあの子に常連してもらえるというなら、これ以上はしーですかな」
はっは、といづもさんはしれっと、その場を離れた。言い過ぎたという自覚はあるらしい。
「まったくもぅ。ああ、瑞季ちゃんいちおうさっきの話は、話半分で聞いておいて? あたしいま別に恋人いないし。有名人の知り合いはいるけど、友達ってだけだし」
「その方にも女装であったんですか?」
相手はどう思ってるんです? と聞いてくる。
先輩としてどうなのかというところなのだろう。
「基本的に一見さんの人には女子で通しちゃってるよ。でも、たびたび会ってたりとか、割とあたしの場合、両方で知り合ってるって人もいるし、学校関係の友達も両方知ってる人も多いしね。そこはちゃんと話はしてる」
「それはすごい……」
「あ。でも中学のころはなぁ。ちょっと意地悪言ってくる子はいたし、なによりラブレターの山がまずかったんだよね……それで中二からは眼鏡かけ始めたの。ある程度そっちの活動再開したのは高校入ってからだよ」
そういう意味では、周りとどう接するのかは決めておいた方が良いのかもねと、アドバイスをしておく。
伝えないという選択肢が一番安全だけれど、女装して歩き回るならある程度のリスクはつきものである。それをどうするかは想像力をしっかり持って、いろいろなパターンを想定しておいたほうがいい。しかも瑞季ちゃんってば美人さんなのだから、なおさらだ。
「くっ、ジェネレーションギャップだわ。あたしが中学の頃なんて……うぅ。どうせろくにそんな格好できなかったわよ」
ちょうどお昼の切れ目で時間があるのか、はたまた話に集中したいのか、自分用に紅茶とマロングラッセをもりながらいづもさんはちょこんと四人がけのテーブルの一席に座り込んでむぅと恨めしそうな視線をこちらに向けてくる。名札の所には即興なのだろう、手書きで『お昼休み中』と書かれてあった。後から聞いたのだが、気になる女装の子がいるとこうやって話しかけることもこの店だとあるらしい。同席を許可する人はせいぜい三割くらいなのだというが。
「でも、そんなに前でもないでしょう? たしかあの頃には世間的にも普通になりつつ……」
「なってるわけないじゃない。そりゃテレビで女装したい人50人とか特集してたけど、特集するってことは、特殊で目を引くってことなの。そりゃやれるってことは知ってたわよ。でも、踏み出せるかどうかのハードルはあのときの方がすんごい高かったんだからね」
「でも、いづもさん的には中学の頃にすでに乙女だったわけでしょ? いろんなイベントはどうしたんですか?」
「そんなの、嫌々に決まってるじゃないの。あたしこれで皆勤賞よ? 逆パターンだとスカートが嫌だーとかいって、登校拒否するの続出してたみたいだけど、気取られちゃまずいって思ってたから隠してたもの」
学ランなんてたんなる黒い布なのよと、ぷぅと彼女は頬を膨らませる。
「気取られちゃマズイって、そんなに危険だったんですか?」
いづもさんは今年で三十三歳になったんだったか。おおよそ二十年前。木戸が参考にした情報源はいづもさんよりも少し上の年齢の人達だから、それくらいの人の時代がどうだったのかはいまいちなのだが、それでもその頃にはずいぶんとメディアで取り上げられていたはずである。
まあ、性別を変えるーとか、って話が流布したのは十五年前。そしてテレビドラマで話題になって周知されたのは十年ちょっと前の話だっていうから、いづもさん的には激動の時代を生きてきたのかもしれない。
「男子だけにかされる組み体操とか。ねんざしたときは小躍りしそうになったわよ。これで今年は解放だーって。来年は骨でも折ってやろうかしらなんて思っていたもの」
普段の体育だって、ホント大変だったんだからね、と彼女がぐすっとしているので、まぁまぁとアップルパイの欠片を食べさせてあげる。うぅ、ありがとうと弱々しい声が漏れた。なにげにいづもさんの中高の話は聞いたことはあんまりなかったのだけど、そうとうトラウマらしい。
それを思えばこれだけ自由に動けている現在っていうのは、すごいものなのかなぁなんていう気にもなる。
「うちは組み体操……ないです」
「まじか……」
そこに追い打ちをかけるように瑞季ちゃんの一言が入った。ちなみに木戸の学校はやるにはやるのだが、小柄なのもあって、上になることが多いし、そこまで雄々しくやる感じでもないので、いづもさんが言うようにそこまでの嫌悪感はない。まあ心が女子ーってわけでもないしそこらへんの違いもあるのだろうけど。
「あーでも、ちょっと上の世代になると上半身裸でやってたっていうし、それよりはマシなのかしらね……」
なんて拷問よそれ、っていういづもさんにこの機会なので追い打ちをかけておくことにする。千歳の絡みもあるし、知っておいて損はないだろう。
「プールはどうだったんです? あれもカミングアウトしてないなら上半身裸じゃないですか」
「風邪で休んだわよ。前日冷水浴びて熱だしたわよ。なんか文句ある?」
ぷんすかとご機嫌斜めな彼女の言葉がずしんと響いた。
な、涙ぐましい。なんかいろいろスミマセン。そこまでする根性がなくてスミマセン。
ていうか仮病にするなら、体温計をライターであぶるっていうのがその時代の常識なのではないでしょうか? 実際風邪を引くとかどんだけまじめなんですか。
「まあ、そこまでそれが嫌じゃないってんなら、いいんじゃないの? 木戸くんは普通にプールはいってんでしょ?」
「そりゃ、気にならない……はずだったんですけどねぇ。今年は学校のプール入らないことになって」
「へぇ。ちーちゃんはわかるにしても、なんであんたまで?」
いちおー普通の男子なんでしょ? と、いちおーを強調されつつ聞かれてしまったので、事情を話しておく。
すべてを話し終えると、彼女はぷるぷる身体を震わせていた。
「ううぅっ。時代が憎いっ。そりゃ年々学会関係のネタも高望みが多くなってきてるし、時代が進むってこういうことだとは思うけど……」
うらにゃましーと、いういづもさんをあんまりにも不憫に思ったのか、今度は瑞季ちゃんがクレープにクリームをのせて彼女に差し出す。
「もう、甘い物でも食べてないとやってらんないわよ。どうせ、あたしらなんてまだマシの世代よ」
もっと上の世代なら、もしかしたら諦められたかもしれない。もしくは発狂して死んでいたかもしれない。そして……開き直れていたのかもしれない。
けれど、できるという可能性をちらりと見てしまい、良くなる状態を見てきて。
それで納得し切れてない今を思えば、まだマシと思う以外にどうしようもない。
「じゃあ、いづもさん、ホットケーキ、シロップましましで一枚焼いてきてくれませんか?」
くすんと泣きそうな彼女の顔をなんとかしてあげたくて、あわあわと木戸は目についたメニューの一品を彼女に伝えた。彼女の内面にまで正直木戸は、いや、ルイであっても踏み込めはしないだろう。
これで、声の獲得の際にその手の方のブログなりも読みこなしはしたけれど、そこにも確かにいづもさんの持つ哀愁みたいなものはあった。
職業としてニューハーフさんなんかをやれてしまえるほど割り切れてたり、考え方が柔軟だったのならそれもまだマシなのだろうけど、たいていはハイテンションかネガティブかどっちかだったように思う。
でも、自分ではそこに踏み込めない。世代が違うのもあるし、慰めの類いはむしろ火に油ではないだろうか。
だったら、彼女にとって大好きなことをやってもらうのが一番ましというものだ。
しかも今の勢いなら、追加料金なしでたっぷりとシロップをかけてくれそうである。
「なんか……すごいものをみてしまったような」
「いづもさん、あれで腕一つでなんとかしてきた人だからね。積み上げてきたからこそいろいろ思うところはあるみたい」
でも、別に女装自体はそーんなに重く考えずにやって良いことだと思うよ? と伝えておく。
いづもさんや千歳は、いわゆるガチである。男の娘と呼んではいけない類いの人達だ。
ただ、それに遠慮してしまうというのは、なんか違うような気がする。
というか、あっちもあっちで、前の千歳なんかを見たりすると思うのだ。
「障がいってことで、しんどいのはわかるんだけど、もーちょっとね、楽しんで生きて欲しいんだよね。女の子は笑っている方が絵としてはいいもん」
千歳もそのけはあるけど、いづもさんだって遠慮がちっていう言葉がどうにもついて回る。
彼女の場合は人生経験で、「していいこと」を増やしているから社会生活ができているのだと思う。
「したいこと」であるお菓子作りがあるだけまだマシなのかもしれないのだが。
「どうして楽しいことだけ考えられないのかなぁって、さ。そりゃ最初にそういう格好して外にでるのは怖いと思うけど、だんだん慣れるじゃない? 大丈夫って経験を得てしまえばあとはもう、気の向くままじゃ、駄目なのかなぁ?」
対してルイにはその枷はない。というか理解ができない。最低限の遠慮はするけれど、基本は思いの向くままに動いてシャッターをきるのだ。そこまで存在を否定されるほどの思いをしてきていないからなのかもしれないけれど、どうして彼女達はあんなに遠慮をするのかわからない。
「ね。瑞季ちゃんはさ、どうなりたい?」
「まだわからないです」
紅茶を飲んでいる彼女の答えは眉根を寄せたあとのものだった。
この年でその答えを求めるのはいささか早計なのかもしれない。むろん中学時代の千歳に同じ質問をしたなら確実に、女の子になりたいというだろうが。それとも一般的に流布してる「女の子に戻りたい」だとか「女の子なんです」とかになるだろうか。
言い回しはともかく、小学生のころからそうだったというのだから、よっぽどなのだろう。そもそも中学生が根回しして高校入学を女子でしようというくらいなのだから、十分すげぇことだ。木戸が同じことをしようとしたら多分両親の説得のところで挫折している。
「でも、馨さんを見ているとなんか、好きにしていいのかなって気にはなります」
最初会った時の顔と比べていくらか柔らかくなっただろうか。
紅茶を両手で抱えながらこくりとのむしぐさは乙女らしくて大変可愛らしい。
ちなみにその後、どでんと十枚くらいホットケーキがでてきたのだが、いづもさんがやりきった顔をしていたので、まあいいのだろう。残った分はそれぞれでおみやげとしていただいて帰った。
それをレンチンして食べた母親に、今度つれてけと言われたのだが、とりあえず今年は無視である。
シフォレと年下の子ということで、ちょっと大人しい、女装? 性転換? な感じの瑞季ちゃん登場です。この子は女の先輩に恵まれてるので、男子からいじめられるとかはそうない設定です。
さて。そして今回はやるつもりではなかったけど、いづもさんの話がね。つい熱が入ってしまいましたよ。7500位だったのが8割増しくらいになってしまいました。
なかがきでも書いたけれど、私はトランスの人のどこか厭世的な、濁った空気が嫌いです。だから女装ものでぱーっと楽しくっ! てことでルイちゃんがいるわけですが、曇天はなかなか晴れませんね。
まー私も厭世的ですけれどね! でも、ねちねちしない厭世的でありたいものです。
さて、作中にでてきた50人はT○Sで1992~やってたアレ、十五年前くらいっていってるのが、手術おっけなテレビ報道です。1997年? だっけ?
世間的に広まったってのが2002年の、きんぱっつぁんです。FTM役やってた子が美少女で、大人の女子やってるのは、毎度みていてもやもやしますが、役は役ですから。ただ患者数があのとき爆増して医者不足になったりもしました。
って、歳がばれるではないかっ。くっ。
まあ、過去は過去です。青春はそこにあるのだし、アオイハルは望む物の頭上にあるともいいますから。
さて次回ですが、先に学園祭ネタいっちゃおう。途中で「男性不信の女の子のリハビリ話」があるんだけど、その後で! こ、今度の子はちゃんと女の子ですし。




