小さな恋の物語
ぼくの名前は九条洸。七才、小学校二年生です。ぼくは帰国子女です。
お母さまは九条マサミといい、世界でもトップクラスの歌姫です。
いつも忙しく世界を飛び回って、たくさんのひとたちにすばらしい歌声を披露しています。
ぼくは、そんなお母さまが大好きです。
だから、ほんとうは、お母さまと一緒にいたかったのでそう言いました。けれど、
「世界には治安の悪い国もあるから、洸はまだ小さいし、危ない」
という理由で、お母さまのふるさとである日本にいきなさいと諭されました。
しかたがないのです。それまでは、そんなこと一度もおっしゃいませんでしたけど、その少し前に、ぼくは、お母さまからプリマの座を奪おうとするライバルの罠に捕まってしまったのです。警察のひとたちが捜してくれて犯人は捕まり、ぼくも怪我ひとつせずにお母さまのところに帰ることができました。けれど、お母さまは、それ以来、何か考えるようになりました。そうして、そう、おっしゃったのです。
ぼくのことをとても心配してくれているのだと思えば、あまりしつこく厭だなんて言えません。結局ぼくは、日本に来たのです。
セキュリティ完備のマンションの最上階がぼくの住んでいる部屋です。何ヶ月かに一度、お母さまがいらっしゃる以外、ぼく専属の執事である遊佐さんと通いの家政婦さんがいるだけです。あとはひとつ下の階にぼくのボディーガードが常駐しているってことを、ぼくは知っています。
遊佐さんが保護者代わりを務めてくださいますので、広い部屋にはぼくと、下の階でボディーチェックをされて上がってくる家政婦さんの三人が生活しているだけなのです。
別に寂しくはありません。
ぼくはもう赤ん坊じゃないので、ひとりで寝ることも起きることだってできるのです。それに、ぼくがベッドにはいる時間には、ナイトコールをしてくださいますし、ぼくの起きる時間を見計らって、モーニングコールをくださいます。とっても忙しいお母さまがです。淋しいなんて言ったら、罰があたります。
それでも、最初は、とても不安でした。
お母さまとは日本語で喋るようにしているので言葉はわからないことはないのですが、日本じゃ帰国子女は苛められるらしいよと、友達が耳打ちしてくれたからです。
でも、それは、杞憂でした。
それに、素敵な出会いを経験したのです。
あれは、最初の登校日のことでした。
日本で一番いい季節だってお母さまがおっしゃってらした五月の風は、ほんのりと緑の香を運んでくるみたいです。ほとんどは、車の排気ガスの匂いですけど。
ぼくは、歩いて学校に向かっていました。離れてボディーガードがついてきているのがわかっています。
家政婦さんが一緒に行きましょうと提案してくれましたけど、ぼくはもう小さな子供ではありません。お母さまはよくそうおっしゃいますけど、お母さまは特別です。ぼくのことを「小さい子供」と言って頭を撫でてもいいのはお母さまだけです。
ああ、忘れていました。ぼくにはお父さまはいません。赤ん坊のころにお母さまと別れて出て行ったそうです。以来、ぼくにはお母さまだけでした。もちろん、お母さまのマネージャーさんや取り巻きのひとたちがやさしくしてくださいますけれど、それでも、ぼくが一番好きなのは、やっぱり、お母さまです。
ぼくが通うことになった小学校は幼稚園から大学まで一貫教育で、とっても広い敷地に、中央の公園に区切られた形で全部の学舎が点在しています。
ぼくの家から一番遠いのが大学、その手前に高校中学、そうして、一番近いのが小学校幼稚園です。
一貫教育ということもあって、幼稚園から大学まで、交流が盛んなのだそうです。
その日は、高校生のお兄さんやお姉さんが、小学二年のぼくたちと一緒に過ごす交流の日でした。
職員室で、ぼくははじめてそれを知りました。
そうして、先生に連れられた二年生の教室で、自己紹介をしたのです。その後に向かった広い体育館では、お姉さんやお兄さんがぼくたちを待っていました。
くじ引きのあとで、番号合わせがおこなわれ、ぼくが組むことが決まったのは、神崎衛というお兄さんでした。
「よっ」
と、少し照れて挨拶をしたお兄さんを見たとたん、ぼくの心臓がキュウと締まりました。
そうして、次の瞬間、ドキンドキンとはやくなったのです。
その日一日、お兄さんと何をしたのか、ぼくは、おぼえていません。
家に帰った後も、ぼくは、宿題をする気にもなりませんでした。
にぱっと笑った、お兄さんの顔が、網膜に焼きついたみたいになって、どうすればいいのかわかりませんでした。
晩ご飯を残したぼくのようすを心配して、遊佐さんが熱を計りました。
三十六度二分。
平熱でした。
家政婦さんが帰ったあと、ぼくはお母さまのコールが待ち遠しくてたまりませんでした。
やがてかかってきたお母さまからの電話を飛びつくようにして取ると、ぼくは、お母さまにその日一日の経験を語って聞かせたのです。
「病気なのかな」
それが、心配でした。
あんなに心臓がドキドキしたことなんて、お母さまがプリマを演じるオペラのクライマックスを観てるとき以外にはありませんでした。
クスクスと軽やかなお母さまの笑い声に、ぼくの心配は雲が風で追いやられるみたいに晴れてゆきました。
「おませさんね」
面白がっているみたいな、お母さまの声でした。
「それはね、洸。その高校生に、あなたが一目惚れしちゃったのよ」
「ひとめぼれ?」
呆然とぼくがその単語を反復していると、
「そうかぁ、洸の初恋は、十才くらい上のお姉さんなわけね」
お母さまが独り語ちます。
それに焦ったのは、ぼくです。
「違います。お姉さんじゃなくて、神崎衛お兄さんです」
しっかりと、ぼくはお母さまの間違いを訂正しました。
「………」
「お母さま?」
やけに長く感じた沈黙の後、お母さまは、
「そ、そう。初恋は、お兄さんなのね」
どこか狼狽えたような口調に、ぼくは不安になりました。
「ぼく、変ですか?」
「いいえ。洸。ひとを好きになることはすばらしいことよ。たとえあなたが好きになったのが同性だったとしても、ね。ただ……」
「ただ?」
「………まあ、そこは、洸の精進しだいかな」
「?」
お母さまの言葉の意味がわからなかったのははじめてでした。
「好きになったのなら、頑張りなさい」
何かを吹っ切ったように、お母さまは、きっぱりとぼくの背中を押してくださいました。
「お母さまは洸の初恋を応援してあげる。だから、しっかりと、そのひとを捕まえなさい。次にお母さまが洸のところに行く時に、紹介してもらえると、嬉しいな」
お母さまの応援があれば、鬼に金棒です。
「はい。頑張ります!」
「じゃあ、おやすみなさい。洸、よい夢を」
「お母さまも、おやすみなさい」
そうして、ぼくは、電話を切ったのです。
その夜見た夢は、もちろん、神崎衛お兄さんの夢でした。
同性愛というのがまだまだマイナーな恋愛形態だということをぼくが知るのは、まだ少し先のことでした。