かこへん。
「っ!」
なかなかに悪い夢を見た。悪いだけならまだしも、少し懐かしく、その上、現実にあったというのだから始末に負えない。
「……どうしたの?」
それが当たり前かのように隣で寝ている美紗が心配そうに訊いてくる。
「いや、別に。たいしたことじゃないよ。ただ悪い夢を見ただけ」
「じゃあ、お姉さんが子守唄を歌ってあげよう」
「子供じゃないんだから」
「悠一はまだまだ子供だよ」美紗がまるで当たり前のように言うと、それが真実みたいな気がして少し不思議だ。
「そう? ああ、そうかもな……」
というわけで、今回は過去編、俺と美紗が出会ったときの話をしようと思う。
俺の実家、神城家は町内でも指折りの名家として名を馳せていた。家族構成は父、母、弟と妹が一人ずつ。他には使用人が多少。父はワンマン経営者で、そのせいなのかどうなのか知らないが、俺達三兄弟の教育にも力を入れていた。ただし、賞やら良い成績やらをたくさん獲ることが教育と定義するならば、だが。
弟は主に学力面で、妹はスポーツ面で活躍。父や母も様々な方面で成績を残していて、自宅のリビングには数えきれないほどの賞状、トロフィー、メダル。
(その中に俺のものは一つとして存在しなかったけれど)
俺の生活はと言えば、父に叱責され母に嫌味を言われ、弟や妹に笑われたりこき使われたり。学校には普通に通わせてもらえたが、校門前には毎日黒服×3。警護と言うのは名ばかりで、実質的には俺が何かしでかさないように見張る監視役だ。
学校の中ではそれなりに友達もいたし、先生の受けも良かったように思う。
「悠一様、お車に……」
「いや、今日も歩いて帰るよ。大丈夫、問題なんて起こさないよ。カツアゲされたら金を渡す。因縁つけられたら土下座でもするさ。間違っても神城の名は出さない。それでいいだろう? 大体間違いなんか犯したら、せっかく毎日迎えに来てくれる使用人をクビにしてしまう」
「は……」
「いつも済まないね、二野部。それじゃあ」
うまくやっている……自分でもまあまあ満ち足りていると感じる日常だった。
そんなある日、転入生がやってきた。名を上原美紗というそいつは、第一印象はどこにでもいそうな普通の女の子といった感じだった。
その日の夕方家に帰ると、父が電話をしていた。いつもの父らしからぬ弱腰で電話口だというのにペコペコ礼をして。
父は電話が済んだ後、俺を呼び出した。お前上原さんの娘さんと同じクラスだそうだな、くれぐれも仲良くしろよ――だそうで。俺は何の疑念も何の不満も持たずに頷いた。そういう合理的かつ利己的な一面があるあたり、俺もこの家族の一員なのだなと思った程度で、その頃の俺は何も間違っていないと思っていた。 上原美紗が転入してからしばらく経ち、俺はあることに気がついた。彼女は富豪の娘であり、マナーはきちんとなっていた。が、その性格、態度、反応といった一切合切がまるで作り物のような、マニュアル化されているかのような……。そして違和感を抱えたままさらに十日が過ぎ、ついに決定的な出来事が起きた。
その日の放課後は雨が降っていた。生徒が帰り、静まりかえった教室の片隅に呼び出され、俺は美紗に愛の告白をされたのだ。
「好きです、付き合ってください」と。今思えば、その頃の美紗が一番まともで可愛かった。かも。
何かの悪戯かと思ったが、いやそうとしか思えなかったが、仮につまらない反応をすると我が家の威信に関わると瞬時に判断し二つ返事で交際を了承。清く正しいお付き合いが始まった。
しばらくはうまくいっていたお付き合いだった。途中からは俺も美紗のことが気になり始めたが、しかし最初に感じた疑念がどうにも拭いきれなかった。
やがて、そんな俺の本心が美紗にバレ始め、不穏な空気が流れ始める。
「君さ、私の事全然好きじゃないでしょ。のみならず信用してないでしょ。どうして私と付き合おうと思ったのかな? 差し支えなければ教えてほしいんだけど」
放課後の教室で二人きり、いろんな意味で緊張するシチュエーションのただ中に置かれた俺はただただのらりくらりと美紗の口撃を躱すしかない。
「それは思い過ごしじゃないかな。と言うか未だ俺を『神城君』呼ばわりしてるのはおかしくない? 恋人同士たるもの、名前でよびあわなくっちゃねー……はは、ははは」
「神城君も私を名前で呼んだことないじゃん」
「ソンナコトナイヨー、ミサチャンカワイイヨー」
真顔で睨み付ける美紗。
「……ごめん」
「で、どうして付き合おうと思ったのかな? 付き合っておいてこの仕打ちは何かな? 神城君は他人と付き合うってことを何だと思っているのかな?」
最後の問いかけで俺はハッとなった。実家の体裁を気にして付き合うのは、美紗にとってすごく失礼なことだと――俺は遅まきながら、この地点でようやく気付いたのだ。
俺は自分が考えていることを全て白状することにした。家のことも、他人をあまり信じてないことも、全て。
「ふーん……なるほどなるほど、なるほどね。だったら私に考えがあります」
「?」
美紗は露骨に悪い笑顔を浮かべ、そのまま教室を出て行こうとする。
「どこ行くの?」「帰るの!」
何かされるのは確実だが、俺にできることはないしそう大事にもならないだろうと判断して、俺も帰ることにした。
翌日。俺を待っていたのは、予想を遙かに上回る地獄だった。
まず昇降口。俺を見かけた生徒たちが皆、一目散に逃げて行く。
そして廊下。逃げ出されることはないが、変な目でジロジロ見られた。
極め付けに教室。おはよーと扉を開けた俺の目に飛び込んできたのは、黒板いっぱいに貼られた誹謗中傷の嵐。俺の顔写真付きポスターに様々な悪口が記されている。身に覚えのないデマばかりが羅列された呪符は驚くほどの効力を発揮し、見事俺から全てを奪っていきました。
こりゃあ赤いジャケットの大泥棒もビックリだと思いつつそれらを回収。いや、本当は割りと焦ったんだけど。
辺りを見回すまでもなく犯人は分かっているが、俺は名探偵でもなければ警部のとっつぁんでもないただの被害者なので沈黙を決め込む。一回失った信用はもう取り戻せない。
「どういうことだ」とようやく意思を表出できたのは昼休み、美紗を無理やり教室から連れ出して人通りのない校舎裏に連れ込んだ後。ちなみに教室から連れ出す際、クラスメイト達からすっごい嫌な目で見られた。
「何が目的だ」
「神城君さ、あんまり私のこと信用してないみたいだったから。でもこれで頼れるのは私だけだよね?」
なんという強引な理屈だと思う一方、俺はちょっと感動してしまった。これほど想われたのは人生初めてなんじゃなかろうか? ……と。
今まで気付かなかったけれど、どれだけ俺は悲しい人生を送ってきたんだろう。
「もう余計な事気にしなくていいよね、悠一」
美紗の顔は恍惚としている。このまますんなり堕ちてしまえばどれほど楽なことだろう。
「……いや、駄目だ。俺は人生捨ててまで君と一緒にいる気はない。俺はこのまま一人で過ごす。風評も自分でなんとかする」
「できると思ってるの? それに、私をないがしろにしたら君の家にも影響が出るよね。悠一の理屈からすると」「そんなつまらない脅しは聞きたくない。付き合うってのは、そういうことじゃないだろう? 美紗だってそれを分かっているから、だからあんなデマを流したんだろう」
「まあ……悠一がそのつもりならいいけど。大変だよ、その選択」
「分かってるよ」
「私は謝らないからね」
「期待してないよ」
家に帰ると、父がリビングでうろうろしていた。あっちへ行ったりこっちへ来たり。そして俺の姿を見るや否や、思いっきり俺を殴りつけ、蹴りつけ、罵声を浴びせる。
「この馬鹿野郎が! 何て事をしてくれた! 学校の件と上原さんの件でウチの評判が著しく下がっているぞ、この屑が!」
唇を切った。頬が腫れた。右腕が変な方向に曲がる。所々に痣ができているだろう。しかし父は一向に暴力を止めようとしない。
遠目に見ていた母は、止めることもせず殴りもせず、ただ黙って俺を見下していた。じきに弟や妹も帰って来るだろう。そうすれば、彼らもこの陰険な仕置に加わるかもしれない。これが自分の選んだ道なのだと割り切って考えようとしたが、どうも上手くいかない。その証拠に、俺は少しだけ泣いた。結局、その日は飯も食わせてもらえぬままに床につく運びとなった。
「おやすみ、二野部」「おやすみなさいませ、悠一様」
廊下にいた二野部に涙目で軽く挨拶し、俺は自室に戻った。
(久しぶりに泣いたからかな……すごく眠い)
そして俺は、ベッドに突っ伏したままの体勢で深い眠りに落ちた。
(ん……?)
眠り始めてどのくらい経っただろうか、まどろみの中で奇妙な感覚に陥った。ふわりと俺の身体が宙に浮き、移動しているかのような……。
気温が変わった。これは……外?
「外ぉ?」
完全に目を覚ました俺の前に広がっていたのはあの暗い部屋ではなく、むしろ明るくて熱い――
俺の家が燃えている景色だった。
「ご機嫌いかが? 悠一」 ハッと振り返れば、そこにはいつもと同じように微笑む美紗の姿。
「あなたの道は三つ。一つ、全てを無くしたあなたは私と共に生きる。二つ、あなたの全てを奪った私と徹底的に戦う。三つ、あなたを執拗に求める私から逃げる。さあ、どれが一番合理的かな?」
「全てを奪った、ってことは」
「そうそう。私があなたの家を燃やした。完膚無きまでに徹底的に破壊的に、私があなたの家を燃やした。ああ、悠一を下ろしてあげて二野部」
「二野部?」
あまりの衝撃に気がつかなかったが、俺は二野部に抱き抱えられていた。
「二野部があなたを屋敷から連れ出したの。ところで『下ろしてあげなさい』って言葉、下ろしているのか上げているのか分からないよね。ふふっ」
二野部の腕から下ろされると同時に、俺は「どういうことだ」と言っていた。
「二野部は私が新たに雇ったの。それで、この屋敷に火を着けさせた」
「何のために……は、もう分かりきってるな」
「当然。これで悠一のしがらみはなくなった。と同時に拠り所もなくなった。友達も家族もいない悠一は、私にすがって生きていく。みたいな筋書きなんだけど」
「ああ、そんなとこだろうと思ったよ」
家は未だに燃え続けている。
「俺はさ、自分のこと、けっこう良い奴だと思ってたんだ。学校はもちろん楽しいし、家では殴られたりもするけど、でも家族のみんなは良いとこもある。だから俺は家族を嫌いにはならないって……そう思ってたんだ」
二人は何も言わない。
「だって、そうだろう? 端から見れば、彼らはとても仲良しで、とても楽しそうだったんだから。夕食のときに弟が学校の話をして、妹が茶化し、両親が笑っているんだ。俺はそれを見るだけで嬉しかったんだ。だって……家族だからさぁ」
二人は何も言わない。
「だけど、今こうして誰もいなくなった現実に直面してさあ、なんか、全然悲しくないんだよな。何でかな? 俺はやっぱり嫌な奴で、そんな広い心は持てない普通の人間だったんだ。俺はそれが……悔しい」
いつしか俺の頬は濡れていた。
「できることなら……家族を許したかったのに。家族がいなくなって、悲しみたかったのに。俺にはそれがどうしても、できないんだ」
「それでも良いんじゃないかな」美紗が言った。
「良いわけないだろう! 俺は、こんな……」
「良いんだよ。それが人間なんだよ……」
俺はこの時、多分ものすごく落ち込んだ顔をしていただろう。
「何か、家族に言っておきたいことはある?」
美紗が訪ねた。もうそろそろここから離れるという意味だろう。
「そうだな……じゃあ、一言」
俺は、まだ涙が止まらない目で燃えている屋敷を見据え、言った。
「ざまあみろ」
ざまあみろ。
ざまあみろ。
ざまあみろ。
心の中で何度か繰り返し、俺も美紗や二野部と一緒にその場を後にした。
その日から数日はホテルに泊まり、それからは保険金でマンションを借りて今に至る。当日は友達の家に泊めてもらった、というアリバイ作り(美紗の手回しで)のお陰で大して怪しまれずに済み、晴れて自由の身になったわけだ。
「ところで、まだ悠一がどうするか聞いてないんだけど」
「うん?」
「私にすがって生きるか、私と戦うか、私から逃げるか」
「うーん、そうだな……じゃあ、『美紗を俺にすがらせて生き、美紗と一緒に戦い、美紗と俺に関わる奴を逃げ惑わせる』ってのはどうだ?」
「最高だね、それ」
「だろう?」
俺達はベッドの上で笑い、それから再び眠った。