そのさん。
俺としては監禁されるのもまあアリかなと思っていたけれど、実際、それは実行されなかった。
少し前にさかのぼる。
俺が美紗に腕を掴まれ観念したとき、美紗の携帯から『天国と地獄』の序曲が流れた。(ちなみに俺からの着信の場合、『歓喜の歌』が流れるらしい)
「もしもし……え?うん、わかった……うん」
美紗は携帯を閉じ、心底残念そうな顔を浮かべた。
「今の電話、親父さん?」
「うん……すぐに帰ってこいって。ごめん」
「いいよ。何か大事な用があるのかもしれないし」
いつもは俺にくっついている美紗だが父親の言うことには従う。しかし、俺はその理由を知らない。単純に父親の方が大事かもしれないし、そうではないかもしれない。どっちにしろ俺が訊いてはいけないような気がする。
「じゃあ、また今度ね」
「ああ」
美紗の後ろ姿を見送っていると、不意に今朝の夢を思い出した。美紗が俺から去っていく、あの不愉快で不吉な夢を。
「戦う準備は出来ている」
口に出すことで、俺は改めて自身の決意を明確に、かつ強固なものとする。
そうだ、俺は戦わなければならない。俺から美紗を奪い取ろうとする奴は、完膚なきまでに叩きのめさなければならない。
「……まあ、ありえないよな、そんなの」
美紗が帰ってしまいいきなり寂しくなってしまった俺はと言うと、目的ももたずにブラブラと徘徊する風来坊に成り下がっていた。
「どうしようかな……ヒラメとカレイの違いについて真剣に考えようか」
どっちがどっちだったっけ、と呆けた頭で思案する俺は、だから、後ろから話しかけている女の子には全く気付かなかった。
「あの、神城さん、ですよね」
「右側に目があるのはヒラメだったかな……」
「あの、私、仁科っていいます、実はお話したいことがありまして」
「ヒラメもカレイも生まれたときは左右に目があったと聞いたことがある……」「お話というのは、その、恋愛関係とかじゃなくて」
「だったら特に違いはないんじゃないか?多種類に進化するモンスターなんて、アニメやゲームじゃ当たり前だし」
「ですから、お話だけでも聞いて頂きたくて」
「鮃と鰈……平と葉っぱ。なんだ、平という字は左右対称じゃないか。これはいけないな」
「あの……」
「そうだな、だったら魚偏に判というのはどうだろう」
俺がようやく仁科の存在を認識できたのはそれから数十分後のことだ。しびれを切らした仁科が俺の正面に回り込み、俺に平手打ちを繰り出した。
「おっと」
美紗の攻撃を幾度も受けた経験が俺をギリギリで立ち直らせ、すんでのところでそれを避けた。
「わっ」
仁科は勢い余ってその場にすっ転んだ。どれだけ強い力で叩こうとしたんだって話。
「君ね、初対面の人にいきなり平手打ちしちゃいけませんって幼稚園の園長先生言ってなかった? 言ってなかったか。そうか」
「いきなりじゃないです……何回も話しかけたのに」 仁科は鼻を押さえて半泣き状態に陥っている。
「そいつは済まなかった。それで、何か用かな?俺が落としたハンカチなら君にあげるよ。ラブレターなら必要ない」
「神城さんって意外と古い趣味してますね」「ぬっ」
「私、神城さんにお話を伺いたかったんです」
「ほう、何の?」
仁科はここで雰囲気を変え、真剣な表情になった。
「貴殿方が先日出会った、幽霊のことで」