★NO.due レトロスペッツィオーネ
シカゴがまどろみから目覚める時間、俺はドレイク・シカゴのスイートルームから暁光が射し染める街を眺めていた。
空を厚く覆っていた雨雲はどこかしらに消え、いまは碧い宇宙まで妨げるものは何もない。清々しい朝は久しぶりで、背筋を伸ばせば身体から重い鉛がはがれ落ちていく。
(ンンーッ! 昨日はどうなるかと思ったけど、マミーのお陰で助かったぜ)
フランから部屋のキーを貰い忘れて呼び戻す手段もなく途方に暮れていたのだが、ジョゼが手回ししてくれていたお陰でどうにか「顔パス」が通用したのだ。
用意されたスイートルームには、ごく自然に俺の必需品も揃えてあった。必需品の管理はジョゼがしてくれていて、俺が行く先々にしっかり用意をしてくれる。それがいつからなのかは定かではないし、俺が特別に頼んだわけでもないのだけれど。
(ただの世話好き、ってなー。ンでも、どこ行っても忘れモンなくてすむってのは、マミーに感謝だわ)
当然、その中には携帯電話もあった。フランとヴァルドからの報告伝言も残されていて折返し新たな指示を出している。
フランによればロバート・マッセリアはニューヨークに戻らずシカゴに潜伏中で、ヴァルドによればロバートはギャスパール・サボネと会合をしていたと言う。フランには引き続き立哨させており、ヴァルドにはギャスパールを探らせている最中だ。
「――ま、誰か動きゃ連絡してくんだろ」
独り言を呟き、俺はソファに移動する。腰を下ろし身体を横たえ、オットマンを足で手繰り寄せ身を委ねた。二度寝という極上の贅沢をするために。
しかし、そう上手くいかないのが世の常らしい。
「――起こす手間が省けたな」
「チッ、寝起きドッキリは失敗か」
気配を消して湧いて出た二人に、閉じかけた瞼が引き上がる。俺はうんざりと身体を起こし、たどたどしく口を開いた。
「……えーと。俺の記憶じゃ明日がジジイの葬式でー、そこでジョゼにロベルト、二人と感動の再会を果たすんじゃなかったっけ?」
「ヴェルが俺の言葉を覚えているとは、珍しい現象も起こるもんだな」
ジョゼはいつもの物言いで二脚の椅子を引っ張り出して座ると、長い足を重ねるように折り組んだ。
その隣にもう一人の男も手荒に座る。そして、俺と中間の距離にある丸いテーブルに薄い本を投げ置いた。
「ほらよ、今回のハードルは高いから見ておいて損はねえぜ」
表紙のタイトルはエロスタヘブン、またの名を――エロ本だ。
「こりゃ、あとでじっくり読まねえと。グラッツエ、ロベルト」
「気にすんな。ご指名とあらば俺が一緒に読んで聞かせて……、何なら試してもいいぜ?」
「誰が男を指名すっか」
俺はキッパリ切り捨てる。コイツの冗談は本気に聞こえてタチが悪い。
「そりゃ残念、女をイかせてきたテクで天国までイかせてやんのに」
甘美な声色で、男はにやりと笑う。
(勝手に一人でイッちまえ)
男の名はロベルト・ボナヴェントゥーラ、アルジェント現幹部の一人だ。夜の店を中心に仕事をしているせいか、とにかく聞き上手で口説き上手、二十七歳にして男女見栄なく腰を砕かせるテクまで持っている――らしい。
(ガチな変態で男も受け入れる性癖……。オマケに容姿が色っぺーときちゃ、物好きにはたまんねえ野郎ってか)
ロベルトは瞳と同じく髪は水色で、前髪は色っぽく左側に流してある。長い後ろ髪は四つ編みに編み込んであり、服装は黒いスーツに豹柄のシャツというだけで至って派手すぎるわけではない。ただ、身長でかく肩幅があるから存在は目立つのだが。
(――っと、それより……)
脱線しかけた思考にブレーキをかけ、俺は話を冒頭まで戻した。
「つーかさ、マジで何かあったわけ? ジジイの葬式が延期したとか? うわ、嬉しいなそれ」
「喜ぶな違う、話はロバートの件だ。フランとヴァルドから報告を受けたとき、ロベルトも一緒でな」
ジョゼの言葉をロベルトが継ぐ。
「黎明たまたまコイツと鉢合わせしてよ。ジョゼが直接ヴェルに報告しに行くっつーからな、俺もおぶさって来たわけだ。吸うか?」
胸ポケットから煙草を取り出し、ロベルトは箱を揺らして一本俺に差し向けてきた。腰を軽く浮かせて一本手に取った直後、シュボッとライターの火を傾けてくる。その動作はロベルトの仕事病の癖で、俺は行為に甘えて火を点けてもらうと礼を告げた。
「ンー、サンキュー」
悠長に自分が寝ている間、幹部たちはせっせと仕事をしていたのだろう。ここからは俺もボスとして仕事をしなくてはならない。
悠然と煙草を堪能し頭のネジが回転してきたところで、俺は真剣な眼差しを二人に向けた。
「ほいじゃ、報告を聴こうか」
「――――」
一刹那、二人の目の色が変わった。さすがに幹部年長者だけあって仕事モードに切り替わると雰囲気が鋭く冷たいものとなる。どちらが話すのかと視線で促せば、やはりここはジョゼが話すようだ。
「――フランの情報から言う。ロバートはジョバンニ・カインが死んだと知ってすぐ、自らシカゴに足を運んでいる。ボスが死んで組織が手薄状態ないまこそ、何らかの情報を手に入れる絶好の機会だと目論んでいたようだ。尤も俺がそんな状況読めないはずがないし、他のマフィアにも一握りとして情報は渡していない。が、どっかのネズミが入れ知恵したようでな。ロバートは当初の予定とは違う点を探り始めている」
「小賢しいネズミだな」
俺の呟きに相槌を打ち、ジョゼは言葉を続ける。
「……ギャスパール・サボネ、裏世界じゃ名前を知らない者はいない。マフィアを対象として働く有名な闇医者だからな。ジョバンニ・カインが倒れた日、保存庫の自己血輸血が足りなくなった事態をヴェルも知っているだろ? 血液銀行に頼んでる余裕もなく、急遽アイツが持ってる輸血バックを大量に買い占めた。ギャスパールはマフィア相手に細かな詮索はしない野郎らしいが、こっちが口止め料としてやった倍の高値で今回のネタをロバートに売りつけている。『ジョバンニが死んだと思われる日に、五百ほどの輸血バックを大量に買い込んでいた』とな。これがヴァルドからの情報だ」
ジョゼの口調は冷徹だが、ピリピリと怒りが振動してきた。普段が冷静沈着なぶん、これはこれで面白い。
「情報売られてたってことは、情報が持っていかれたってことと同じじゃん? 幹部首座にしては詰めが甘いなー、なー?」
調子良く俺はジョゼをからかう。
「失態は犯しても根を絶てば功績に繋がる」
「あー、うん。……期待してるぜ」
ジョゼは生真面目すぎて、俺のジョークは不発に消え去った。
そしてシンッ、と場に沈黙が訪れる。
(ま、内容としてはマジで笑えないからな。ジョバンニ・カインの死因に疑問を持たれたら、アルジェントの秘密に土足で入り込まれたも同じだ。もしバレたら? ノンノン、それだけはあっちゃならねえだろ)
あの悲劇の夜、ジョバンニ・カインが吐血し誰もが予測不可能だった事態に狼狽していた。焼きつく記憶が蘇る。ジョバンニ・カイン、祖父が残した言葉の数々と一緒に。
『我が血肉を受け継ぐ汝に託そう』
(……エラソーに命令しやがって)
俺は煙草を灰皿へ押しつけ、いままでの話を声に出して整理していく。
「ンンン、と。ネズミは大量バックの買い取りがあった後日、ジジイが死んだと知って不審がっていた。ジジイが死んだ日、事件もなければ事故もなかったからだ。そこに情報掴めずてんてこ舞いなネコを発見し、ネズミは損のないネタだと高値で売りつけた。ネコもジジイの死に疑問を抱き、真相を暴いた暁にはネタにして何か企もうとしている」
「ザッと言えば、そんなもんだ」
予めジョゼに聞いていたのか、ロベルトが手短に頷いた。
ジョバンニ・カインの死は、アルジェントの秘密をも抱えている。祖父の死に疑問を持たれたことからして大問題かもしれない。
「真相を掴めるかお手並み拝見したいけどよー、その領域だけはダメなんだよなあ。ネズミ駆除はどうなってる? ――そっか、ご苦労さん」
俺の質問にジョゼとロベルトが親指で喉を切り裂く仕草をし、ギャスパール・サボネがこの世にいないことを悟る。
(始末は任せるって言ったけど、やっぱヴァルドは仕事が早いぜ。ま、どーせジョゼの指示だろうけど。残りの問題はロバートか)
ギャスパール・サボネはただの闇医者であって逡巡することなく殺せるけれど、ロバートはニューヨークマフィアのドンだ。手を出すとなると五大ファミリーが黙っていないだろう。
(そこを狙ってさ、他のマフィアが出しゃばって来やがる可能性もあるんだよな)
警察の動きもあるし、大きな抗争だけは避けたい。ぐるぐる頭のネジが回る。相手の出方を予測しつつ俺は必至に考えた。
すると、ジョゼが助言してくる。
「ロバートは秘密裏に動いているから、配下のファミリーはこのことを知らないぞ。消すにしても下手な小細工は必要ない」
「はあ? おまっ、それ早く言えよ!」
驚きに声を荒げても尚、ジョゼは顔色ひとつ変えずに紡いで言う。
「珍しく頭を使っていたようだからな、俺なりの配慮だ」
「……マミー、そんなとっておきの情報は早く言うもんだぜ?」
最高の情報ににんまり、俺は抑え切れない笑みを浮かべた。
ニューヨーク五大ファミリーの大ボス、ロバート・マッセリアを消すとなると配下のマフィアも一緒に相手にしなければならない――とついさっきまでは考えていたのだが、ロバートが秘密裏で動いているとなると話は別だ。
常に命を狙われるボスのポジションは、いつどこで誰に撃たれ刺されてもおかしくはない。要するに、ロバートの動きを知らされていない配下はロバートが死んだとしても犯人を特定できずにすべては闇の中へと葬り去られるということ。
「――で、どうする? ロバートがギャスパールの死を嗅ぎつけるのも時間の問題だが」
ジョゼは足を組み直し、指示を急かしてきた。俺は悪戯に言葉を濁す。
「や、どうってそりゃねえ?」
「焦らすな」
何本目になるかわからない煙草に火を点け、ロベルトは次の言葉をいまかいまかと待っている。余裕げに見えて意外とロベルトは短気なのだ。
俺は数拍置いて告げた。
「……Uccidere、明日にでも」
「明日のいつ始末する?」
ロベルトのおうむ返しに、ジョゼも言葉を重ねてくる。
「明日の葬式は延期できないからな」
せかせかと話を進めるのは、マフィアの幹部としてだろうか? それとも年のせい?
「まあ、聞けって。ロバートは俺の部下、イチゴとブドウを使って捕まえさせるからジジイの葬式は予定通り行う。ンで、葬式終わってからお楽しみ会の始まりだ。用心に越したことねえ、他のマフィアにも鼻を効かせておくってことで流れはオーケー? 細かい役割分担はジョゼに一任しとくぜ」
ジョゼとロベルト、交互に言い聞かせるように説明した。
二人は「Va bene」と答えると、緊張の糸を解くように雰囲気を和らげる。仕事の話はここまでらしい。
その証拠にジョゼはネクタイを緩め、母親染みたことを聞いてきた。
「ヴェル、朝飯は食ったのか?」
「イんや? ふあ~眠い、だって二度寝の予定だったし」
リンゴ一個分くらいの欠伸をし、俺は途切れ途切れに答える。生理的な涙が出、瞼を擦っていると背中に悪寒が走った。自棄に視線が痛い。
「……なに?」
思わず訊ねてしまう。その視線の先にいるロベルト・ボナヴェントゥーラに。
ロベルトは単刀直入に言ってきた。
「絶対口説き落すのによ、テメエがボスじゃなけりゃ」
「へ~、その自信どっから湧いてくんの?」
俺はおどけて聞き返す。
「俺の腕の中で墜ちなかったモンはいねえんだよ」
不敵な笑みを浮べ、ロベルトは灰色の煙を優しく吐き出した。動きにイチイチ色気があって、女はこういった仕草で誘惑に墜ちるのだろう。俺ならロベルトに手駒にされるなんて真っ平御免だ。
(ロベルトはああ見えてオバケが苦手だしよー、金は貸してくんねーケチ野郎だ)
心の中でグチグチ暴言を零していると、力が入ったせいか腹が鳴る。朝っぱらから頭をフル回転させたせいで、体力がすり減っているのかもしれない。
そう思うと急激な空腹に襲われた。駄々っ子を決め込み、俺はソファに寝転んで叫ぶ。
「あー腹減ったー、動けねー! 腹減ったー、なあジョゼ~~」
「煩いっ! ルームサービス頼んだから待ってろ! で、それが――」
ジョゼは携帯電話を片手に怒鳴り、また電波の向こう側にいる人物に喋りかた。本当に仕事熱心で忙しい男だ。
(……明日の話でもしてんのかもな)
部屋に射し込む青白い光に目を細め、とうとう明日なのかと心が欠落するように、俺の瞼も完全に閉じていった。