(NO.cinque ルーナ・クレシェンテ
「やっべー、腹減った……」
そう呟くと同時に、腹の音が鳴った。
ようやくジョゼから解放されたはいいけれど、仕事開始から随分と時間は経過している。時計の針は一回りしているだろう。感覚で言えば夜中の二時あたりだ。
(早く寝たい……より、空腹が勝ってるなこりゃ)
鳴り止まない腹の音に、俺はまず腹ごしらえだと考えた。目指す場所はAFビルの最上階片隅の自分の部屋だ。そこにはベットやシャワールーム、食べ物だって完備されてある。
俺自身、逃亡癖などが盛んなことから自分の家に帰ることも少ない。ならば、せめてアルジェントの領域で寝泊まりしてほしいと、ジョゼの一声で俺の部屋が設けられたのだ。しかし、それは決して親切心からではない。
ジョゼはそうやって必然に俺の行動範囲を狭め、目の届く範囲に置いておこうとする。問題を起こしたとしてもすぐ対処できるように。
(ま、実際に問題起こしてっしな。今月に入って何回くれーサツに世話になったっけか?)
軽く反省点を振り返りながら歩いていると、あっという間に部屋に辿り着いた。
「ンあ? ……ヴァルド?」
扉の前にヴァルドらしき人物を発見し、半信半疑で名を呼んでみる。
「あ……ボス」
しょぼんと萎んでいた顔が花開き、俺が声をかけるや否や駆け寄ってきた。やはり、ヴァルド・ベンツァーだ。健気な乙女に見えてしまったことは心中に留めておこう。
モジモジと指と指を擦り合わせるヴァルドに、俺は首を傾げて聞いた。
「どったの、俺を待ってたのけ?」
「うん……」
サクランボ色に頬が色づく。何故そんなに照れているのかは不明だ。
「ごめんなー、ジョゼに捕まって仕事してたんだわ。用事あんなら中に入るか?」
立て続けに聞くと、ヴァルドは遠慮がちに首を横に振った。
「ボッ、ボスの部屋……入るの禁止」
「ンなこと気にすんなよ、俺とお前の仲じゃん」
気さくに言ったつもりが、言葉を選び間違えたらしい。
「なっ、仲……仲……な、か……っ」
ヴァルドは頬を紅潮させ、肩を窄めてあわあわとし始めた。部屋の前で『仲』を強調して連呼されたら、まるで俺がイケない道に誘い込んでいるような……そんな気分になる。
(おいおい、ロベルトじゃあるめーし)
俺はここにいないロベルトを非難し、このまま放っておくこともできないヴァルドに用件だけ聞くことにした。
「あー、ここで話せる内容ならここでいいわ。どったの?」
「う、うん……、これ渡したくて」
ずいっと突き出されたのは、ヴァルドがずっと手に持っていた深紅のバラだ。
まさか、これを渡すためだけに待っていたのだろうか?
(最初から渡してくれりゃいーのに……。ンーでも、ヴァルドだしなあ)
それができないのがこの男の性格なのだと理解しつつ、俺は深紅のバラを受け取った。
「グラッツエ、今回も仕事頑張ったみてえだな」
「……そんな……、大したことない」
ヴァルドは嬉しそうに口元を緩める。赤いバラはヴァルドが仕事をした証、色は殺した相手の血で染めているのだ。ヴァルド自身、これを俺に届けるまでが仕事らしい。
「マジ美味そう」
半眼でバラを見つめ、俺は囁いた。ヴァンパイアにとってバラはお菓子、腹も減っていたため躊躇せず唇を開く――が、鼻を掠った匂いに手が止まった。
「ヴァルドの血の匂い?」
クンクンと鼻穴を動かす俺に、声を潜めてヴァルドが白状して告げる。
「ちょっとだけ……、美味しくなるように」
「へえ? 道理で俺好みなわけね」
薄ら笑みを浮かべ、俺はバラを口へと運んだ。空腹がどうとか関係なく、ヴァルドの血の味は美味い。
「…………」
黙って様子を窺うヴァルドに俺はペロリと唇を舐めて礼を告げた。
「サンキュー、美味かったぜ。丁度、腹減ってたんだわ」
「あ……良かった」
「――――」
ヴァルドの唇がゆったり動くが、俺は首筋に目が囚われてしまう。お菓子程度では空腹は満たされない。脈動の流れに誘われるまま、ヴァルドに一歩近づいて首筋に鼻をすり寄せる。
ヴァルドが羞恥心に声を漏らした。
「ボ……ボス」
「あー、マジで良い匂い。食べてえ」
牙が疼き、己の心臓が早鐘を打つ。噛みついて、貪って、奪って、快楽に酔い痴れ、飢えを満たしたいと。
けれどほんの僅かに残った理性を掻き詰め、折れそうな心を奮い立たせる。
「――ははっ、ジョークがすぎたな」
するりと距離を取り、俺は苦笑して言った。
「ボス……」
眉尻を下げ、ヴァルドが心配げな声音を零す。ヴァルドもヴァンパイアだ。俺の気持ちを察したのだろう。
(耐えろよー俺! やればできる子だろ、俺は!)
暗示を唱え、自分を励ます。平常心を装って、早くこの場を切り抜けるしかない。
「苦しそう……、俺ので良かったら……」
ヴァルドの言葉に揺らぐ理性を気力で持ち堪え、俺はやんわり断った。
「優しいな、ヴァルドは。大丈夫、部屋に飯くれえあっからさ」
「でも……」
引き下がらないヴァルドに、俺は苦言を呈する。
「いま手加減してやれるほど余裕ねえんだわ、お前に何日も寝込まれたら俺がこっ酷くジョゼに怒られんだろ?」
「…………」
あからさまにヴァルドは落ち込んだ。
「ンな顔すんなってー。別にヴァルドの血が嫌いなわけじゃねえよ。お前を傷つけたくねえだけ、な?」
俺は子供をあやす口調で言った。この空腹で箍が外れてしまえば、ヴァルドでもただでは済まない。
「ここがAFビルじゃなきゃ……、噛んでやんのに」
ひっそり俺が腹の底に沈む想いをぶちまけると、頬を朱に染めてヴァルドが誘い文句を口にした。
「なら今度……お願い……、します」
「――ああ、いいぜ」
断る理由もなく、俺は二つ返事をする。
「……ボス」
ホッと肩を落とすヴァルドは、「ありがと……」と小さく言葉を重ねて微笑んだ。
(……クソ、俺って我慢強いのな)
無防備極まりないヴァルドの笑顔に残念な気持ちが残るものの、俺は邪念を取っ払って部屋の持ち手を握った。
「ふあ~、ほんじゃ飯食って寝るわー」
「おやすみ……ボス」
「Buonanotte~」
背中越しにヒラヒラ手を振り、俺は薄暗い部屋へと入った。静かな空間にパタンと扉が閉まる音が響き渡る。これほど長く感じた一日は、久しぶりかもしれない。
「ダッリイ一日だったな」
ジョゼの拉致地獄からロベルトの変態実験材料に扱われ、ヴァルドの無意識非道な我慢大会に付き合い、振り返るだけで頭が痛くなる。
「やめやめ寝て忘れてやンぜ、忘れることに関しちゃ俺の得意分野だし。その前に腹ごしらえしねーとな」
独り言を呟きながら、俺は暗い部屋の中をスイスイ進んだ。そして、お目当ての冷蔵庫を発見して中を拝見する。そこには様々な血液バックがぶら下がっていた。
その中から二つ、Afrodisi-Xと書かれた血液バックを取り出す。アフロディシーエックスは俺のために作られた、言わば強力な安定剤だ。
「ン……」
俺はグリッとキャップを捻り外し、一気に口から胃に流し込む。喉を伝って身体に溶け込んでいく血の味に本能を震わせ、立て続けに二つ目を飲み干した。我慢していた分、いつも以上に喉越しがいい。
「はー、うめえや」
口端から垂れた血を舐め取り、空になった血液バックをゴミ箱に投げ捨てる。
あとは寝るだけだ。薄暗さにも慣れてきて、俺は一目散に寝室に向かうとベットに飛び乗った。
(やっと……)
至福の瞬間が――と思いきや、突如ゴツッと頭に鈍い衝撃が走る。
「……ッテーな、ンだよ?」
打ちどころを擦り、俺は上半身を起こした。よくよく目を凝らして見ればベットに先客がいるではないか。
「――よう、ヴェルヴィオ。俺様を待たせるたあ、いい度胸してんなあ」
上弦の月明りが逆行となり、誰かは判断しずらい。けれど、声音で特定できた。
「待たせるもなにも、なーんでルヴァンが俺の部屋にいんの? イタリア帰ったんじゃねえのかよ?」
俺は至福の時間を妨害され、嘆息交じりに問う。サルヴァトーレ・レオーニと会うのはジョバンニ・カインの埋葬儀礼以来、つまり昨日会ったばかりだ。
ルヴァンは身体を起こして胡坐を掻くと、成り行きを説明した。
「帰る前にお前に話があってよ。本当は昨日話すつもりだったのに、テメエすぐに姿くらましただろーが。だからよ、ジョゼにお前の居場所聞いて無理言ってここに通してもらったんじゃねえか」
「あー、そなの? ワリーな、ちょっと立て込んでてさ。疲れてっからちょい横になって聞くわ、ンで俺に話ってなに?」
適当に寝転がり、俺は話の先を催促する。アルジェントのボスとして、配下ファミリーのボスの話を蔑ろにはできない。
ルヴァンは一呼吸置き、驚愕な言葉から話を切り出した。
「部下が一名、水銀によって死んだ」
「――は? ちょっ、なんて?」
「アアン!? だから、部下が死んだって言ってんだよ! 水銀でな!」
聞き返す俺に眉根を寄せ、ルヴァンは繰り返し言ってくる。どうやら、耳は正常に働いているようだ。
「おいおいマジかよ?」
「ジョバンニと同じ水銀かはわかんねえが、こっちでも調査を始めている。何か掴んだら報告はすンぜ。アルジェントのカポらにはまだ言ってねえからよ、テメエの口から話しておいてくれ」
ルヴァンは淡々と言葉を繋ぐ。その間、顔色ひとつ変えていない。部下が死んだとは思えないほどに。
「そっか……、気の毒だったな。ジョゼたちには俺から言って調べさせとくわ」
俺は上半身を起こし、ルヴァンの肩に手を置いた。組織のボスとして感情を表に出していないようだが、ルヴァンは根が熱く部下思いの男だ。さぞ悔しいだろう。
「ヴェルヴィオ」
刹那、ルヴァンが俺の手首を掴んだ。
「……なに?」
がっしりと握られ、俺は不快を覚える。
「慰めてくれんだろ? 俺様を」
ルヴァンは赤い瞳を淡く灯らせ、不敵に口角を上げた。
(またコイツ、メンドクセーこと……)
ルヴァンは俺と同じ純血種のヴァンパイアであり、第二の始祖――ヴェントルーの血を受け継ぐ者でもある。ヴァンパイア同士の慰めの方法なんて、血を与えるか血を奪うかの二つに一つしかない。
「なにルヴァン、俺なんかの牙で慰めてほしいわけ? それとも血で慰めてほしいわけ?」
自身の血を嘲笑しながら問うと、ルヴァンは真面目な顔で悩み始めた。先程の言葉は突発的に出たのだと知る。
「ヴェルヴィオに血を与えることは、誰であろうと名誉なことだ。ヴァンパイアの太祖一族に、己の血を糧としてもらえんだからな。でも、その血を己の糧にしてー欲望だって捨てきれねえ。ヴァンパイアは本能でテメエに血を捧げたくなるし、その血を欲してしまう。マジで罪な存在だぜ、ヴェルヴィオは」
「えー、俺がワリーのかよ?」
「そうは言ってねえ」
ルヴァンは即答した。
「ただ俺様的には……なあ?」
「何が『なあ』だっての」
悟れとばかりに言葉を濁され、俺は目の前の野獣をげんなりと見据える。
やはり、今日は厄日だ。ジョゼの拉致から始まりロベルトの変態行為、ヴァルドの我慢大会、そしてルヴァンに血を強要されているのだから。
俺は諦めるように首を右に傾けた。
「……ハア、今日は特別だかンな。慰めと社交辞令っつーことで」
ルヴァンは静かに頷き、ゆっくり顔を寄せてくる。唇が首筋に触れ、脈動を舌で撫で上げてきた。舌も熱いが吐息も熱い。
牙が肌に触れた直後、甘い痛みが全身に走る。
「――くっ」
久々の感覚に俺は喉を鳴らした。そんな禁断色を放つ行為を、上弦の月明りが魅惑的に照らしていたのだった。




