副官は溜息をついた——騎士団長が料理番の少女のために訓練終了時刻を整えるのを、もう五十二回も見たから
雪月の夕方は、空気が薄い。
訓練場の砂を踏みしめる足音が、いつもよりやけに乾いて聞こえる。
俺は石壁の柱に背を預け、訓練中の団員に視線を走らせていた。第三中隊の連中はまだ動ける。第一中隊の二、三人は息が荒い。第二中隊は持久力がやや落ちている——明日の訓練は配分を変えるべきだろう。
冷たい風が頬を撫でるたび、俺は無意識に左眉の古傷に触れる。
そして、あと一手、もう一押し、と訓練の追い込みを伸ばそうとして——
ふと、心の中に浮かんだ数字を見て、俺は動きを止めた。
「あと六分」
そう、自分の頭の中だけで、誰にも聞かれぬ声で逆算していた。
六分後。それが何を指す数字か、俺の脳は一瞬で答えた。
ルカ・モルゲン。
王城厨房の料理番見習い。
雪月の夜気を切って、あの少女が銀の盆を抱えて訓練場の門をくぐる時刻——十九時五十五分。
俺は息を吐いた。
白い息が訓練場の灯を横切り、すぐに闇に紛れる。
なぜ俺の頭は、訓練終了の合図を出すという軍務の手順の途中で、料理番の少女の到着時刻を呼び出したのだ。
しかも、それを「料理が温かいうちに食べたいからだ」と、内側のどこかが当然のように肯定している。
……肯定? 俺がか?
俺は表情を変えない。六年の習慣だ。鋼の盾と呼ばれる男が、訓練場で内心の混乱を顔に出すなど、許されるはずがない。
だが、この身体感覚はなんだ。
あと六分、料理を熱いまま受け取れる時刻に終わらせるために、訓練の組み立てを脳の奥で勝手に圧縮している、この感覚は。
「閣下」
乾いた声が左斜め後ろから掛かった。振り返らなくても誰だかわかる。十年来の腹心、ベルヴァルト・シュナイダー副団長。
その声に、わずかに笑いの気配が滲んでいることまでわかる。
「本日も、訓練終了時刻が料理番の到着時刻にぴったりですね」
ベルヴァルトは懐から小ぶりの業務日誌を抜き出し、ぱらり、と頁を捲った。表紙の革は擦れ、鉛筆の筆跡が几帳面に並んでいる。十年分の俺の癖と、騎士団の動きが、この男の手帳には全て記録されている。
「閣下、これで五十二回目の調整ですよ」
五十二回。
俺は表情を動かさずに、彼の声を反芻した。
五十二回、俺は訓練の終了時刻を料理番の到着時刻に合わせている。
偶然ならば、二、三度で済むはずだ。気のせいならば、十回で頭打ちになるはずだ。
五十二回は、もはや偶然ではない。意図のある行為だ。
ベルヴァルトは、業務日誌の頁を、わざとらしく読み上げた。
「閣下、念のため申し上げますと——ルカが来ない日は終了時刻が本来の十七時三十分、来る日は十九時五十四分です。彼女の到着時刻は十九時五十五分。誤差一分ですね」
「貴官——」
「俺は記録係です、閣下。記録するのが仕事ですので」
「……何の話だ」
俺はそう言うのが精一杯だった。
ベルヴァルトは肩を震わせ、業務日誌をぱたりと閉じた。
「ええ、何の話でもありませんよ」
わざとらしい声で、彼は続けた。
「ただ、副官として、業務日誌に書き残すべき事項があれば書き残すのが俺の仕事です」
「下がって良い」
「閣下、終了の合図は」
俺は柱から背を離し、訓練場の中央に向かって短く声を張った。
「本日は終わる」
団員たちが一斉に動きを止め、一礼し、装備を整え始める。
灯火の影が長く伸び、砂を引きずる音と、息遣いが入り交じる。
その瞬間、東門の方から軽い足音が響いた。
俺の身体は、明確に「待っていた」と感じた。
ルカが来た。
あと六分どころか、ぴったりだった。
ベルヴァルトが懐の業務日誌に、何かを書き加えている気配がする。
俺は深く息を吐き、もう一度、この身体の動きを問い直す。
俺は、なぜ料理が温かいうちに食べたいなどと考えている?
訓練場の門に、彼女の姿が浮かんだ。
茶色の髪を後ろで束ね、料理人エプロンの白地と若草色の縁取りが、灯火の下で柔らかく揺れていた。
銀盆の縁を握る両手——指の節がやや太く、爪は短く切り揃えられ、火傷の痕が点々と残るあの両手が、寒さで赤味を帯びていた。
彼女は俺の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「お疲れさまでございます、閣下」
俺は「下がって良い」とは言えなかった。
そう言って下がらせるには、彼女の到着時刻に俺の身体が合わせていた事実が、まだ、俺の中で熱を持ちすぎていた。
俺は、ただ、頷いた。
無表情の頷き、だ。
だが、無表情を保つために、俺の頬の筋肉が、いつもより力を入れていることに、俺自身が気づいていた。
答えは、出ない。
答えを出すこと自体を、俺はずっと避けていた。
---
翌日から数日、俺は自分の中の違和感を扱うために、いつもの方法を取った。
観察と、データだ。
俺は合理主義者だ。違和感を覚えたなら、過去の記録に立ち返り、検証する。
ルカ・モルゲンが訓練場に夜食を運ぶようになって、三か月が経つ。三か月分のすべての接点を、俺は脳の倉庫から引き出していった。
最初の日。
雪月のやや前、霜月の夕。
訓練場の門で、彼女は新しい配達担当として紹介された。茶色の髪を後ろで一つに束ね、料理人エプロンに白地と若草色の縁取り、両手は生活感に満ちていた——指の節がやや太く、爪は短く切り揃えられ、手のひらに小さな火傷の痕が点々とある。
俺はその両手を、ほんの一瞬だけ見た。
この少女は、本当に厨房に立つ人間だ、と思った。書類仕事だけで日々を過ごす人間の手ではない。
その日の出来事だ。
彼女が銀盆を抱えて歩み寄ろうとした瞬間、団員の一人が訓練後の興奮で乱暴に通り抜け、彼女の盆の縁が傾いた。
パンが一切れ、滑り落ちた。
俺は——あの瞬間、足元の砂を蹴ったか、それとも蹴らなかったか、自分でも今でもわからない。
ただ、気づくと、俺の手のひらにそのパンが収まっていた。
砂の上に落ちる前に。
ルカは目を丸くしていた。
俺は無表情のまま、パンを彼女の盆に戻した。
「申し訳ありません、閣下」
彼女はそう言って深く頭を下げた。
俺は「下がって良い」とだけ返した。
今、思い返してみる。
あの時、俺の身体はなぜあそこまで素早く動いた?
団員の不注意を咎めるために、ではなかった。
パンを救うために、でもなかった。
彼女の盆に最初の不名誉が刻まれることを、俺は——なぜか避けたかった。
……合理的に説明できない動きだ。
二か月前。
俺は南方国境の急報で三日連続の徹夜となり、四日目の夜にようやく訓練場に戻った。
団員たちは皆、俺が常通りの厳しさで終了時刻まで訓練を続けることを覚悟していた。実際、俺もそのつもりだった。
ルカが夜食を運んできた時、彼女は銀盆の上の小さな器を指して言った。
「本日は訓練量が多かったと聞きましたので、糖分を多めに」
糖分。
俺はその言葉を反芻した。
彼女の言う通り、その夜の煮込みはわずかに甘く、肉の旨味と蜂蜜の香りが奇妙に調和していた。喉から胃にかけての疲労が、確かに溶けていく感覚があった。
俺は何も言わずに食べ終え、空いた器を返した。
「お疲れですね」
彼女はそう言って、軽く頭を下げ、去っていった。
あの夜、俺は執務室で報告書を仕上げる手の動きが、いつもより速いことに気づいた。
糖分のせいだ、と俺は自分に言い聞かせた。
肉と蜂蜜と、それから——あの「お疲れですね」の、低くて短い声のせいだ、と。
いや、声のせいではないはずだ。
声は、糖分とは関係ない。
俺は二か月前のあの夜のことを、なぜ今、こうも鮮明に思い出している?
ひと月半前。
雪月に入って間もない夜だった。
訓練を終え、団員たちが一斉に水を飲み、息を整えていた時、ルカが盆を運んできた。
その夜、彼女は俺に、煮込みの器と一緒に、小さな包みを差し出した。
布で包まれた中身は、薄く焼いた塩のパンだった。
「閣下は、肉の合間に、塩気の強いパンを口に入れる癖がございます」
「他の方には、甘めのパンの方が合うように見受けますので、閣下の分だけ、こちらに替えております」
俺は、彼女の言葉を、二度聞き返したくなった。
肉の合間に塩のパンを口に入れる癖——それは、俺自身、ほぼ無意識にやっていた癖だ。
誰にも、指摘されたことがない。
俺は、彼女の言葉を聞いた瞬間、自分の食事中の指の動きが、急に意識化された。
自分の癖を、自分が観察するようになった。
観察するようになった理由は、彼女が観察していたからだ。
俺は、塩のパンを、口に運んだ。
肉の旨味と、塩気が、口の中で重なる瞬間に、わずかに、息が抜けた。
その息の抜け方を、彼女が見ていたか、見ていなかったかは、わからない。
ただ、彼女の盆が引き上げられる音が、いつもより少し柔らかかった。
半月前のことだ。
訓練後の夜食配達で、ルカは大盆に十数皿の夜食を載せて運んできた。皿一枚一枚に名札があり、それぞれの団員の名前が書かれていた。
「キール副団長補佐は香辛料が苦手と伺っておりますので、こちらは胡椒抜きです」
「ヴェルマー隊長はお酒の翌日にあたるそうですので、塩を控えめに」
「ハラント新人は今週、稽古で胃を痛めたと聞きましたので、白身魚に替えています」
団員たちは驚き、感謝し、何人かは少し頬を赤くしていた。
厨房に、各団員のアレルギー・好み・体調を一覧にしたノートが存在する、という噂は前から聞いていた。だが、それを実際に皿の上に反映させて、配達者が一人で運んできた光景を見るのは、俺にとって初めてだった。
その日、彼女が俺の前に置いた皿は、いつも通り、肉が中まで火が通り、外側はカリッと焦げていた。
「閣下は、中まで火が通っているが、外がカリッと焼けている方を好まれると伺っておりましたので」
彼女はそう言って、頭を下げた。
俺は、自分の好みを、誰にも語った覚えがない。
料理長にも、副団長にも、執事にも、語っていない。
俺は黙って食べた。
その夜、口の中に残ったのは、肉の旨味よりも、彼女の言葉だった。
俺の好みを、彼女は初日から把握していた。
その後、俺は別の場所で、彼女のことを耳に挟むようになった。
厨房の朝は早い、という話を、王城の従卒から聞いた。
ルカは、朝の鐘が四つ目を打つ前——午前五時には厨房に立っているのだという。
彼女が最初にやるのは、その日の仔牛肉の捌きだ。誰よりも早く厨房に入り、誰の指示も受けないうちに、肉の塊を吊るし、骨を抜き、繊維の方向を読みながら切り分ける。
他の料理人が起きてくる頃には、その日の主菜の下ごしらえは半分が済んでいる、という。
俺はその話を、燭台の前で報告書を読みながら聞いていた。
報告書の文字は、目に入らなくなっていた。
別の日、俺は廊下で、料理長と副厨房長の立ち話を、偶然、耳に入れた。
「あの娘は、騎士団員一人一人の体調を、よく覚えている」
「ノートを作っているらしい。誰が何を苦手で、誰がどんな日に何を食べたいか」
「ノートの厚さが、毎月、増えている」
「教えていない技術なのに、いつのまにか身に付けている」
「祖母譲りの腕というのは、本当らしい」
俺は、その立ち話を、足音を立てずに通り過ぎた。
通り過ぎてから、自分が、彼らの会話を最後まで聞くために、歩幅を半分にしていたことに気づいた。
俺はずっと、自分の中で結論を持っていた。
「これは観察の精度が異常に高いだけだ。優秀な料理番への、当然の評価だ」
「俺はただ、食事を効率的に摂取しているだけだ」
……だが、副官の業務日誌が言う。
五十二回。
俺は、五十二回、訓練終了時刻を彼女の到着時刻に合わせている。
観察の精度では、説明できない。
効率の問題でも、ない。
訓練場の灯火を一つ一つ消す音を聞きながら、俺は息を吐いた。
白い息が、夜空に消える。
俺は、何かを認めなければならない場所に、もう来ているのかもしれない。
---
その晩、俺は執務室で、業務日誌を捲り直していた。
ベルヴァルトが置いていった写し、十年分の訓練記録、そして直近三か月の終了時刻欄。
ベルヴァルトの几帳面な鉛筆字が、淡々と並んでいる。
雪月一日 十七時二十八分 終了 / ルカ来訪なし
雪月二日 十九時五十三分 終了 / ルカ来訪 十九時五十五分
雪月三日 十九時五十四分 終了 / ルカ来訪 十九時五十五分
雪月四日 十七時三十一分 終了 / ルカ来訪なし(厨房側別件)
雪月五日 十九時五十三分 終了 / ルカ来訪 十九時五十五分
俺は途中でページを閉じかけ、また開いた。
書斎の燭台の火が、紙面を黄に染める。
俺はページの上の数字を、自分の意思で並び替えなかった。
それは、こうも、整然と、二極化していた。
ルカが来ない日 = 平均 十七時三十分
ルカが来る日 = 平均 十九時五十四分
二時間二十四分の差。
軍規上、訓練の延長は団長判断で記録に残る。だが、業務上の理由がないままの延長は、副官の確認印が要る。
ベルヴァルトは——確認印を、毎回、押していた。
彼は知っていた。
いや、十年も俺の隣にいる男が、知らないはずがなかった。
だからこそ、毎日、業務日誌に淡々と記録していた。
俺がいつか、それを開いて、自分で気づくのを、待っていた。
扉が、軽く叩かれた。
「閣下、夜食をお持ちいたしました」
ベルヴァルトの声だった。彼の声には、軽口の温度がない時間帯がある。深夜の業務報告と、深夜の溜息の時だ。
「入れ」
扉が開く。
彼は銀盆を持っていた。盆の上には、夜食の煮込みと、白パン。
ルカが、執務室まで運ぶことは、ない。彼女の任務は訓練場までだ。
深夜の執務室への運搬は、副官か、当直の従卒が担う。
「ルカが、追加で持たせてくれました」
ベルヴァルトは、淡々と言った。
「『閣下、本日は会議でお疲れと伺いましたので、温かいうちにお召し上がりください』とのことです」
俺は、業務日誌から目を上げた。
盆を見た。
湯気が、まだ立っている。
冷えた執務室の空気の中で、その湯気は奇妙なほど鮮明に見えた。
ベルヴァルトは盆を机の端に置き、扉の方へ下がった。
下がる前に、彼は短く言った。
「閣下、そろそろ我慢の限界なのは、閣下のほうですよ」
俺は、何も返さなかった。
返す言葉を、持っていなかった。
扉が閉まる。
燭台の炎が一度ゆれ、また定まる。
俺は盆の前に座り直し、湯気を見つめ、それから目を閉じた。
俺は、なぜ彼女の到着時刻に俺の生活を合わせているのだ?
眼裏に、一つの像が浮かんだ。
訓練場の門をくぐる、彼女の小さな影。
湯気のたつ盆と、息の白さと、後ろで揺れる茶色の髪。
その像の前で、俺の身体は、確かに、わずかに、ほどけていた。
俺は、認めた。
声には出さず、ただ、内側で。
俺は、彼女が来る時刻のために、生きている。
それを、これ以上「合理的な評価」と呼ぶのは、嘘だ。
俺の中の何かが、しずかに崩れた。
崩れた、というよりは、長く支えられていた仮説が、ようやく床に置かれた、という感覚に近い。
俺は、十年、自分の感情を「合理的に説明できる範囲」に押し込んできた。
押し込めなくなった瞬間、押し込み続けた力の重さが、初めて自分でわかった。
重い、と思った。
重いから、もう、握り続けるのをやめた。
六年前、副団長を喪った日から、俺は、自分の表情を消した。
消した理由は、はっきりしている——感情を見せることが、誰かの命取りになる、と学んだからだ。
俺の表情を読まれると、俺の判断が読まれる。判断が読まれると、戦場の流れが変わる。流れが変わると、隣にいる人間が死ぬ。
だから、俺は表情を消した。
六年、消し続けた。
だが、料理番の少女に対して、表情を消す必要は、本来、ない。
彼女は戦場の人間ではない。
彼女が俺の判断を読んだとしても、それで誰かが死ぬわけではない。
俺は、その理屈を、自分に許せばよかったのだ。
六年、許さずに来た。
許さずに来た理由は、——表情を消す癖が、もはや、俺自身を守る盾だったからだ。
その盾を、俺は、今夜、わずかに、外した。
外した分の風が、冷たくはなかった。
俺は、湯気の立つ煮込みを、口に運んだ。
甘い。
今夜の煮込みは、わずかに甘い。
会議で疲れている、という事実を、彼女はどこから聞いたのだろう。
誰が、いつ、彼女に伝えたのだろう。
あるいは、俺の知らない場所で、彼女は俺を、観察しているのかもしれない。
俺が彼女を観察していたのと、同じように。
その夜、俺はその仮説で、初めて、安らかな気持ちになった。
燭台の火が、ゆっくりと短くなっていった。
俺は最後の一口を飲み込み、空いた皿を盆に戻した。
盆の縁に、彼女の指の跡が、ほんのわずか、残っているような気がした。
錯覚であろう、と思いながら、俺はその跡を、指で擦らなかった。
俺は、業務日誌を閉じた。
明日からの数日、俺は彼女に会う度、自分の中の「認めた何か」を、隠し通せるだろうか。
恐らく、隠し通せるだろう。
俺は、十年、自分の感情を顔に出さずに来た男だ。
だが、隠せたとして、それで何になる?
その問いを、俺は、まだ、自分に許さなかった。
許す前に、夜が明けた。
---
翌朝、王城内に、不穏な動きがあった。
王室調達局からの通報書が、俺の執務机に届いたのは、まだ朝の鐘が鳴り終わらぬ頃だった。
もっとも、寝耳に水ではない。ここ数日、調達局の主計官が帳簿の照合を進めているという報告は、ベルヴァルト経由で耳に入っていた。
通報書は短かった。
仔牛肉、香辛料、オリーブ油の出入り記録に、過去三か月分の不一致が確認された。
差額は、すでに金貨換算で五百枚を超える。
関係者全員の聴取を、第一騎士団に要請する。
通報書を読み終え、俺は紙を置いた。
不正の規模は、見過ごせない。王城厨房の食材管理は、王室の信用問題だ。
俺の頭は、訓練ではなく、捜査の手順を組み立て始めた。
厨房長の聴取から始める。次に副厨房長二名、さらに食材搬入担当、最後に配達担当者。
通常の手順だ。問題はない。
問題は、——俺の脳が、その手順を組み立てると同時に、別の問いを抱えていた事実だ。
ルカは、いま、厨房にいるか?
彼女が無実である可能性を、俺はなぜ、これほど強く感じている?
まだデータを見ていない。
通報書には、配達担当者の名前は記載されていない。
俺は、彼女を、容疑者の枠組みで考えるべきだ。
それが、捜査の公平性だ。
だが、俺の頭の別の場所で、別の声が、確かに聞こえていた。
その声は、こう言っていた——彼女が、横流しに関わる人間ではあり得ない、と。
なぜなら、彼女は、各団員の体調を皿の上に正確に反映する人間だ。
誰かを欺くために情報を集める人間と、誰かを生かすために情報を集める人間は、手の動きが違う。
俺は、彼女の手の動きを、三か月観察してきた。
あの両手は、欺く側の手ではなかった。
……これは、捜査官として持つべき視点ではない。
俺は、自分の中の声を、急いで奥に押し込んだ。
押し込み方が、いつもより、ぎこちなかった。
だが、俺の身体は、すでに動いていた。
「ベルヴァルト」
「はい、閣下」
彼は通報書を覗き込んでいた。表情は読めない。
「厨房長の聴取を最優先で組め。場所は第三尋問室。同席は俺と貴官」
「了解しました」
「それから——」
俺は言葉を切った。
「配達担当者の動向を、別途、把握しておけ」
ベルヴァルトは、わずかに目を細めた。
彼は、軽口を返さなかった。
その代わり、業務日誌を懐から抜き、無言で何かを書き加えた。
俺は、その動きを見なかったふりをした。
昼前、ベルヴァルトが急ぎ足で執務室に入ってきた。
「閣下、厨房内で動きがあります」
「報告しろ」
「副厨房長の一人が、以前から不審な動きを我々に通報しておりました。その者からの報告です——厨房長が、副厨房長たちに『内通者は、配達担当のルカ・モルゲンだ』と話しているそうです」
俺は息を止めた。
止めたのは、わずか一拍だ。
だが、その一拍を、十年隣にいる男は、見逃さない。
ベルヴァルトは続けた。
「厨房長は、自分の罪をルカに擦り付けるつもりです。ですが、ルカの方も気づいた様子で、たった今、厨房長の執務机から書類を持ち出そうとしている、と。——朝晩、調達局の伝票を取りに厨房長室に出入りしていた娘です。机の引き出しの中身まで、自然と目に入っていたのでしょう」
書類。
恐らくは、厨房長の裏帳簿の写し。
ルカは、自分の無実を証明するために、一人で動いた。
俺の中で、二つのことが、同時に起こった。
一つは——騎士団長としての判断。
厨房長は、刃物を扱う職場の長だ。追い詰められた瞬間、何を持ち出すか分からない。
もう一つは——俺の中の、合理を超えた身体反応。
立ち上がっていた。
外套を掴んだ瞬間には、扉に向かっていた。
「閣下!」
ベルヴァルトの声が背中を打った。
「俺が先に第二中隊を呼びます——」
「先に行く。貴官は中隊を呼んで、後を追え」
「閣下——」
「命令だ」
俺は応えなかった。
応えるのを、自分に許さなかった。
俺は、自分の身体が動く理由を、まだ、認めきれていなかった。
厨房までは、東翼の回廊を抜け、内庭の石畳を斜めに切る。
徒歩でなら五分、駆ければ二分。
俺は、二分で着いた。
その二分の間、俺の頭の中で、訓練終了時刻の逆算と同じ精度で、別の数字が動いていた。
厨房までの石畳の枚数。回廊の柱の本数。扉の鍵が開いているかどうかの確率。
俺の脳は、ルカに最短で辿り着くために、すべてを動員していた。
それが何を意味するか、俺はもう、自問しなかった。
厨房の重い扉を押し開けた瞬間、湿った湯気と肉の匂いが顔を打った。
いつもなら甘く感じる匂いが、その時は鉄錆の匂いに混じっていた。
奥の調理台で、厨房長が立っていた。
手には、長い包丁。
その向こうに、ルカが背を石壁に押しつけ、両手に紙の束——裏帳簿を握っていた。彼女の顔は青ざめていたが、眼差しはまっすぐだった。
厨房の他の料理人と見習いは、調理台の陰や、食料庫の入り口に身を寄せ、息を殺していた。
奥の見習いの一人が、勝手口の扉から外へ駆け出していくのが視界の端をよぎる。衛兵を呼びに行ったのだろう。別の若い料理人は、口を片手で押さえて小さく悲鳴を漏らした。
それ以外の者は動かなかった。動けなかった、と言うべきか。
厨房長の包丁が空気を切る位置に、誰もが踏み込めずにいた。
「閣下!」
厨房長が、俺を見て一瞬、表情を変えた。
言い訳の言葉が、彼の口から出かけた。
「閣下、これは違うのです、この娘が——」
「動くな」
俺は、低く言った。
厨房中の料理人と見習いが、息を呑む音がした。
厨房長は、しかし俺の声で踏み留まらなかった。彼は包丁を、ルカに向かって振り上げた。
ルカは、紙の束を抱えたまま、動かなかった。
動かなかった、のは、彼女が逃げる暇もなかったのか、それとも、紙の束を渡せば自分の無実が消えると分かっていたのか。
俺は、後者だ、と思った。
彼女は、紙を守った。
その判断の速さに、俺は——惚れた、という言葉が、初めて頭の中に浮かんだ。
俺は石畳を蹴り、二人の間に身体を割り込ませた。
包丁の刃が、俺の左肩に食い込む。
布地が裂け、熱い線が走り、温い血が腕を伝う感覚がした。
俺は、痛みに表情を歪めなかった。
歪めなかったのは、十年の習慣のせいではなかった。
目の前にルカがいる。
彼女の前で、俺が痛みに歪むことは、——俺の中の何かが、許さなかった。
俺は、左肩を貫いた包丁の柄を、右手で掴んだ。
鋼の盾と呼ばれて十年、戦場で肩や腿を貫かれて剣を振り続けたことは一度や二度ではない。痛覚を後回しにする手順は、既に身体が知っている。
厨房長は、力を込めて引こうとしたが、引けなかった。
俺は、彼の手首を、軽く捻った。
骨の上を、関節が外れる音がした。
包丁が床に落ちた。
刃と石床がぶつかる音が、厨房中の沈黙を破った。
厨房長は、悲鳴を上げて床に膝をついた。
その背後から、ベルヴァルトが第二中隊を率いて駆け込んできた。
「閣下!」
彼は俺の左肩の血を見て、表情を硬くした。
「ご無事ですか」
「貴官は、厨房長の身柄を確保しろ。書類は、ルカ・モルゲンが持っている。それを保全しろ」
「了解しました——閣下、まず治療を」
「あとだ」
俺は、ルカの方に身体を向けた。
その動きで、左肩の傷から、温い血が腕に伝った。
俺の足元に、点々と赤い染みが残った。
ルカは、紙の束を抱えたまま、肩で息をしていた。
俺の左肩の血を見て、彼女の頬が一瞬、白くなった。
彼女は、口を開きかけ、また閉じた。
彼女の唇の動きから、「血が」という言葉になりかけた音が読み取れたが、声にはならなかった。
俺は、肩の傷を指で押さえながら、彼女に向き合った。
俺の頭は、まだ、捜査の手順や中隊の配置を、半分で組み立てていた。
だが、もう半分は、別の場所にいた。
その別の場所で、俺は、ようやく、自分の心を言葉にした。
「俺は、お前を、失いたくない」
声に出していた。
厨房中に響くほどではなかった。
ただ、ルカに届く距離で、確かに音になった。
声を出した瞬間、俺は自分の声の温度に、自分で驚いた。
いつも訓練場で号令を出す時の温度と、まるで違っていた。
「それだけだ」
ルカは、目を見開いた。
彼女の頬に、薄く赤味が戻った。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、紙の束を抱える腕に、力を込めた。
その力の込め方を、俺は、生涯忘れないだろう、と思った。
ベルヴァルトの溜息が、背後で短く聞こえた。
その溜息は、十年で初めて、安堵の温度をしていた。
---
その夜、厨房の片隅で、俺は治療を受けていた。
厨房長は身柄を拘束された。裏帳簿の写しは、王室調達局に送られ、調査が始まっている。
厨房は一時的に主任不在となり、副厨房長二名が暫定指揮を取ることになった。
俺は、厨房の隅の小さな調理台に腰を下ろし、肩の包帯を巻かれていた。
包帯を巻いているのは、ルカだった。
軍医を呼ぶ手筈は整っていた。だが、応急処置の最初の一巻きを、俺は彼女に任せた。
任せた、というよりは——彼女が、自分から名乗り出た。
彼女の祖母は、町医者の助手をしていたことがあるのだという。
彼女の指は、想像していたよりも、ずっと冷静で、確かだった。
火傷の痕が点々と残る両手が、布を巻き、結び、押さえる。
扉の外には、ベルヴァルトが立っていた。
扉は半分開いており、俺と彼女のやり取りを、彼が外から聞いていることを、俺は知っていた。
彼は、聞きたくて立っているのではない。
俺の護衛として立っている。
ただ、結果として聞こえてしまうのを、わざと止めない、という顔で立っている。
その顔は、扉越しでも、想像できた。
「閣下」
ルカは、包帯の端を結びながら、低い声で言った。
「閣下は、なぜ、来てくださったのですか」
俺は、彼女の指を見ていた。
その指の動きが、わずかに震えていた。
俺は、息を吐いた。
言葉を、選ぶ余裕はあった。
だが、選ばなかった。
「俺は、お前が来る日と来ない日で、訓練終了時刻が二時間違うことに気づいた」
ルカの指が、止まった。
構わず続けた。
「五十二回、副官の溜息を聞いた」
「五十二回、業務日誌に、訓練の延長記録が残った」
「俺は、それを、優秀な料理番への評価のためだと、自分に言い聞かせていた」
ルカは、口を薄く開いていた。
声を出さなかった。
俺の続きを、待っているように見えた。
「だが——溜息の理由を、ようやく、自分でも認める」
左肩の包帯を見ずに、彼女の目を見た。
彼女の榛色の瞳が、燭台の火を映していた。
「俺は、お前のために、訓練の終了時刻を逆算していた」
「お前が運ぶ料理を、温かいうちに食べたいと思っていた」
「お前が来る日のために、俺の一日が組まれていた」
「五十二日分、組まれていた」
俺は、そこで言葉を切った。
切ったのは、続きの言葉が、まだ俺の中で形になっていなかったからだ。
だが、ルカは、その「形になっていない部分」を、聞き取った気配があった。
彼女は、少しだけ笑った。
笑った、というよりは、唇の端をわずかに引き上げた、という表現が近い。
「それは……」
彼女は、息を整え、続けた。
「それは、訓練が大変ですね」
俺は、——笑った。
声は、出さなかった。
ただ、口の端の筋肉が、自分でも知らないうちに、動いていた。
その動きを、止めようとしなかった。
止める理由が、もう、なかった。
数年ぶりに、俺は、本当の意味で笑顔を見せた。
ルカは、俺のその表情を見て、目を一度伏せ、それからもう一度、上げた。
彼女の頬に、燭台の赤が映って、温かく見えた。
半開きの扉の向こうから、ベルヴァルトの声が、低く、ぽつりと聞こえた。
「五十二回目の溜息は、これでお終いか」
俺は、扉の方を見た。
彼の顔は見えなかったが、彼の口の端も、笑っていることを、俺は知っていた。
---
厨房長の失職は、王宮内に静かに広がった。
裏帳簿の写しは、王室調達局による全件監査の起点となり、過去三か月の食材横流しの全容が解明された。
ルカ・モルゲンの名は、内通者の容疑から外され、逆に、不正の発覚に貢献した功績で、料理番頭への昇格が告示された。
ルカは、その告示を受けても、態度を変えなかった。
彼女は相変わらず、騎士団員一人一人の好み・体調・訓練量を把握し、毎日の夜食を組み立て続けた。
ただ、彼女の銀盆の運搬経路に、新しい行先が一つ、加わった。
俺の執務室だ。
夜、訓練が終わり、俺が執務室に戻ると、机の端に、銀盆が置かれている。
湯気が立っている。
肉は、中まで火が通り、外側はカリッと焼けている。
時には、わずかに甘い煮込みが添えられている。
それは、俺が会議で疲れた日だ。
ベルヴァルトの業務日誌には、五十二回目以降の終了時刻欄が、もう存在しない。
彼は、その欄を、別の項目に置き換えた。
それは、「閣下の昼食・夕食・夜食、三食の献立」という欄だった。
彼は、業務日誌を開きながら、俺に言った。
「閣下、これは記録ですからね。否定なさっても、残ります」
「下がって良い」
「はい、はい」
彼は、肩を震わせて部屋を出ていった。
扉が閉まる前に、彼の声が最後に響いた。
「閣下、テーブルの椅子が二つに増えたのは、いつからですか」
俺は、答えなかった。
ただ、机の端の銀盆を見て、湯気の中に、彼女の姿を思い浮かべた。
答えは、彼女が知っている。
俺と彼女が、同じ食卓に着く日を、待っているのか、待っていないのか。
彼女は、俺の好みを初日から把握する女だ。
俺の心の動きも、いつかは、彼女に把握される日が来るだろう。
数日後、俺は彼女を執務室に呼んだ。
呼んだ理由を、俺は最初、副官に「料理番頭への昇格祝いを、団長として直接伝えたい」と説明した。
ベルヴァルトは何も言わずに、頷いた。
頷きながら、業務日誌に、また何かを書き加えていた。
俺は、見なかったふりをした。
ルカは、執務室の扉を叩き、入ってきた時、軽く身を硬くしていた。
俺は、彼女に椅子を勧めた。
彼女は、勧められた通りに、椅子に座った。
机を挟んで、俺と彼女は、向かい合った。
その椅子は、二つ目の椅子だった。
ベルヴァルトが、俺に何も告げず、いつのまにか机の前に置いていた椅子だ。
ルカは、椅子に座った瞬間、その椅子の存在を、自然なものとして受け入れた。
俺は、その自然さに、喉の奥で言葉を止めた。
「料理番頭への昇格、おめでとう」
俺は、形式的に、それだけを言った。
ルカは、深く頭を下げた。
そして、頭を下げたまま、低い声で続けた。
「閣下」
「うむ」
「五十二回の調整は、もう、お止めにならなくて、よろしいのですか」
俺は、目を伏せた。
目を伏せた瞬間、口の端が、ほんのわずか、ほどけた。
「止めない」
「では——」
「お前が来る時刻に、俺の終了時刻を合わせる。それが、俺の癖だ」
「癖、ですか」
「癖だ」
ルカは、頭を上げた。
彼女の頬が、ほんのり、赤かった。
彼女は、何も言わず、ただ、もう一度、深く頭を下げた。
その下げ方は、料理番見習いの礼儀ではなく、もっと、別の意味を含んでいた。
俺は、その別の意味を、自分の中で、初めて受け止めた。
その日のために、俺は、五十二回目の溜息を、もう聞かなくて良いように、生きていく。
---
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「鈍感自覚型」の溺愛ストーリーです。冷徹だと言われる男が、自分の溺愛に「業務日誌の数字」で気づく——副官の翻訳が物語を動かします。
アルベルトの「訓練終了時刻が料理番の到着時刻に逆算されている」事実を、副官ベルヴァルトが五十二回も観察してきた、という構造が本作の核です。表情を変えない男が、毎日少しずつ「料理を温かいうちに食べたい」という人間らしい欲求に支配されていく——その滑稽さと愛おしさを書きたかった。
ベルヴァルトの業務日誌は、本作の「翻訳機」です。攻め視点シリーズには必ず翻訳役を置いています。
◇◆◇ 「冷徹男溺愛シリーズ」 ◇◆◇
「冷徹だ」と言われている男たちが、ある女性にだけ無自覚に甘くなる。
そんな攻め視点・ざまぁ抜きの溺愛短編シリーズです。
▼ 公開中
(公開後にseries.yamlのS45エントリを参照して更新)
毎週更新中!
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「鈍感自覚型」の溺愛ストーリーです。冷徹だと言われる男が、自分の溺愛に「業務日誌の数字」で気づく——副官の翻訳が物語を動かします。
アルベルトの「訓練終了時刻が料理番の到着時刻に逆算されている」事実を、副官ベルヴァルトが五十二回も観察してきた、という構造が本作の核です。表情を変えない男が、毎日少しずつ「料理を温かいうちに食べたい」という人間らしい欲求に支配されていく——その滑稽さと愛おしさを書きたかった。
ベルヴァルトの業務日誌は、本作の「翻訳機」です。攻め視点シリーズには必ず翻訳役を置いています。
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