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侯爵令嬢アリスルールの魔術剣客伝 ~若干13才の侯爵令嬢は決闘になると最強すぎて魔法大学の天才たちを震え上がらせるようです~  作者: 星舟能空


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第1話 塔門ごあいさつ

 風鈴式が、甲高く鳴った。


 天螺巨塔スパイラ第一環外壁、入塔礼の風鎖回廊。

 雲を裂いて吹く朝風の中で、塔門代行を務める三年生ラウル・ヴァルネは、抜きかけた剣の柄から指を離した。


 最後の受験者が、あまりにも小さかったからだ。


 外壁沿いに渡された鎖橋は、ただでさえ人を選ぶ。眼下には王都の街並みが朝靄の中に沈み、足元では落下防止の薄い結界膜が風を受けてかすかに青く軋んでいる。橋の欄には五歩おきに小さな銀の風鈴が吊られ、魔力と風圧の乱れに応じて鳴る仕掛けだ。入塔礼に使うには嫌味なほど、鈴の音は美しかった。


 そんな場所を、侯爵令嬢は散歩に来たみたいな顔で歩いてきた。


 白い手袋。淡い灰青の外套。旅装の裾をきちんと片手で持ち上げる仕草だけで、育ちのよさがわかる。

 年は、十二か十三。いや、もっと幼く見える。風に揺れる淡金の髪も、大きな青い目も、どう見ても鎖橋と相性のいい種類の生き物ではない。


 だが、目だけが違った。


 彼女は風鎖回廊の結界杭や、ラウルの腰の剣や、足元を走る術式線を、ひどく機嫌よく眺めていた。

 まるで難しい本の最初の一頁を開いた時みたいな目だった。


「受験番号、最終列。侯爵家長女、アリスルール・マクラクラン様」


 後方の監礼官が名を読み上げる。

 列の後ろで見物していた受験者たちが、あからさまにざわついた。


「あれが」

「噂のご令嬢様か」


 うるさい、とラウルは思った。

 朝から何人も相手をしてきたせいで機嫌が悪かったし、貴族の名と噂話だけで勝手に浮き足立つ新入生たちも嫌いだった。


 どうせまた、家格ばかり立派で、塔の外壁の風に頬をこわばらせる手合いだ。

 少し強い術を見せれば、泣きはしないまでも顔色くらいは変える。


 そう思っていた。


 その侯爵令嬢は、橋の手前で立ち止まり、ラウルへ向かってごく自然に一礼した。


「アリスルール・マクラクランと申します。本日はよろしくお願いいたします」


 声はやわらかく、小さかった。

 聞こえにくいわけではない。ただ、風に逆らって張る種類の声ではない。

 だからこそおかしかった。この高さ、この風、この緊張の中で、その声色が少しも乱れない。


「……塔門代行、ラウル・ヴァルネだ。入塔礼を務める」


 なんとなく、声を荒げる気になれなかった。

 ラウルも儀礼通りに返礼する。


 その瞬間、彼女の目が自分の動きにぴたりと合った。

 手首の角度。体重移動。礼を解くときの踵の戻し方。

 ただ見ているのではない。読んでいる?


「入塔礼の規定を確認する」


 自分の声音を整えながら、ラウルは鎖橋の中ほどを示した。

 橋の中央には、細い銀杭が一本打ち込まれている。杭のまわりには風を模した青い式線が巡り、小さな印板が浮いていた。あそこまで進み、橋を守る術を突破すれば合格。相手を打ち負かす必要はない。塔に入るに足るだけの制御、足運び、判断、礼法を見せればよい。


「勝つ必要はない。私の術域を越えて中央印まで達すれば、それで合格だ」


「そうなのですか」


 アリスルールは、少しだけ首を傾げた。


「勝たなくてもよろしいのですね」


「そうだ」


「でも」


 彼女は本当に不思議そうに、ラウルの顔を見た。


「別に勝ってしまっても、いいんですよね?」


 ラウルは眉を寄せた。


「……これは試験だぞ」


「はい」


「遊戯ではない」


「そうですね。だから、うれしいです」


 うれしい。

 何を言っているのかわからなかった。

 だが、彼女は冗談を言っている顔ではなかった。


 監礼官が式杖を掲げる。

 風鈴が一斉に鳴り、足元の式線が青く灯った。


「入塔礼、開始」


 ラウルは最初の術を起こした。


 右手を払う。鎖橋の左右に仕込まれた風鎖式が応じ、透明な三本の拘束線が唸りを上げて走った。風の筋そのものを細く固めた術だ。威力は低いが、初手の牽制としては十分。足を止め、態勢を崩せばそれでいい。


 普通の受験者なら。


 アリスルールは半歩だけ前へ出た。

 避けない。迎えにいくでもない。三本の風鎖の間へ、白い手袋の左手を軽く差し入れる。

 指先が二度、空を撫でた。


 小さな補助式。


 次の瞬間、彼女の右手の細剣が、最も外側を走る風鎖の端だけをひどく綺麗に裂いた。


 ばちり、と青い火花が散る。

 切断ではない。焦点をずらされたのだ。三本で一つの枠を作るはずだった式の角が、ほんのわずかにねじれ、拘束線同士が噛み合わなくなる。


 ラウルにはその剣閃がまったく見えなかった。


 しかもただの早業ではない。

 術式の噛み合う角を読んでいる。


 ラウルは即座に二手目を重ねた。橋板の継ぎ目へ走らせていた警戒式を踏み起こし、足元から風圧を跳ね上げる。受験者をよろめかせ、結界膜へ近づけて警告を鳴らす初歩術だ。


 アリスルールの靴先が、あえてその圧を受けた。

 あまりにも軽い体が半歩分浮く。

 見物していた新入生たちが息を呑んだ。


 だが彼女は、落ちかけたのではなかった。

 風に浮かされた刹那、宙で一度だけ身をひねり、今度は二本目の風鎖の裏側へ剣を滑り込ませた。


 剣と同時に、彼女の左手の二指が細い式を書く。


 自分の風ではない。

 こちらの風の流れに、ほんのわずかな角度だけ与えた。


 二本目の拘束線が、味方であるはずの橋板の風圧とぶつかって、自壊する。


 残る一本が彼女の右足首へ絡みついた。

 そこで初めて、ラウルは攻撃が入ったと思った。


 だが彼女は足を取られたまま、じっとその式線を見た。


「……きれいです」


 思わず、ラウルは眉をひそめた。


「何がだ」


「癖です。先輩、切る前に、少しだけ右肩が上がります」


 白手袋の少女は、足首に風鎖を巻かれたまま、うれしそうにそう言った。


「だから、三本目だけ、わざと受けてみました」


 その瞬間、ラウルは悪寒を覚えた。


 受験者ではない。

 試験を受けている目ではない。

 見ている。試している。読もうとしている。

 こちらの術を越えるためではなく、こちらがどういうふうに術を作る人間なのかを、知ろうとしている。


 ラウルは呼吸を止め、足を運んだ。

 橋の上では、自分の風の癖は自分がいちばん知っている。右肩が上がるなら、今度はそれを囮にすればいい。

 剣を抜き、三歩。風の流れを強めながら間合いを詰める。

 受験者へ剣を向けるのは本来、最終確認のためだけだ。だが彼はもう、確認ではなく封じるつもりで踏み込んでいた。


 アリスルールの目が、ほんの少しだけ明るくなった。


「そうですか」


 足首の風鎖を剣の鍔元で弾き、彼女は欄干ぎりぎりへ身を躱す。


「もっと、遊んでくださるのですね」


 ラウルの剣が唸った。

 式を通した剣撃だ。風圧が刃にまとわりつき、当たらなくとも衣服を裂く。橋上戦では有効な術剣。

 彼女の頬の横を風刃がかすめ、淡い金髪がひと束、千切れて宙に舞った。


 それでもアリスルールは、まるで花弁でも見送るみたいに、その毛束を一度目で追っただけだった。


「こわいですか」


 剣と剣が打ち合った。

 細い音。高所の風に吸われてもなお澄んだ、よく磨かれた金属の声。


「何がっ……!」


 いつの間にか、失っていた。

 上級生たる自分が当然持っていてしかるべき、強者の余裕。


「落ちるのと、わたし、どちらがこわいんですか?」


 彼女は真顔で聞いてきた。

 しかも一太刀ごとに、式の継ぎ目へ細い補助式を差し込みながら。

 ラウルの風圧が強まるほど、鎖橋の風鈴が鈴鈴と甲高く鳴り始める。

 見物人は誰も声を出さない。


 アリスルールは、左へ流したはずの風刃の残響へ、自分の剣先をそっと触れた。

 ほんの一筆のような動きで、残響が術式へ戻る前の尾を切る。

 それだけでラウルの次式が半拍遅れた。


 心臓が詰まった。


 ラウルはそれを顔へ出したつもりはなかった。

 だが術式は正直だった。結んだ風の輪がわずかにひしゃげ、橋板の下を走る補助線が乱れる。


 彼女はそれを見ていた。


 見て、ひどくやさしい顔をした。


「ああ」


 小さく、息をつく。

 安堵にも似た声だった。


「そちらなのですね」


 ぞっとした。


 自分が怖れているもの。

 塔に入ってからずっと胸の底へ沈めて、見ないようにしてきたもの。

 優秀な後輩が入るたび、教授が新しい名を褒めるたび、上層研究区へ選ばれない自分を思い出す。その鈍い痛み。

 今目の前にいる小さな侯爵令嬢みたいな、訳のわからない怪物に、いずれあっさり追い抜かれるかもしれないという、そのみっともない恐れ。


 彼女はそれを、落下結界より先に見た。


「黙れ」


 ラウルは低く言って、剣を引いた。


 ここから先は入塔礼には過剰だと、理性のどこかが警告する。

 それでも止まれなかった。


 鎖橋の左右へ打ち込まれた結界杭が、一斉に青く灯る。

 風鈴式が悲鳴のように鳴り、風鎖回廊全体へ細い式線が網のように走った。


 風鎖回廊封制術。


 橋そのものを術式の一部にして、中央へ吹き寄せる風を鎖の形へ変える高位術だ。入塔礼で使う者はまずいない。使えば受験者が落ちることはまず確実。何より自分の未熟さを露わにする。余裕のある者は、そんな大仰なものへ逃げ込まない。


 わかっている。

 それでもラウルは式を起こした。


 空中へ浮いた青い鎖が、縦横に閉じる。

 欄干の外へ逃げ道はない。足元の結界膜は薄く鳴り、橋上の風がすべて術へ吸われていく。


 受験者たちの列から悲鳴が漏れた。

 監礼官が一歩踏み出しかけて、止まる。


 アリスルールは、そこでようやく本当に嬉しそうに笑った。


 子供みたいな顔だった。

 悪意でも勝ち誇りでもない。難しい問題の解き方が見えた時の、あのどうしようもない喜色。


「ああ」


 白手袋の指が、剣の柄へやわらかく馴染む。


「うれしいです」


 ラウルは歯を食いしばって術を閉じた。

 風鎖が一斉に収束する。

 橋の中央部、印杭の手前へ追い詰め、そこで拘束して終わらせるつもりだった。


 だが彼女は、こちらと同じ風を見ていた。


 自分で風を作るのではない。

 こちらが恐れから強めた風の癖、その流れ方、その焦りで僅かに重くなった収束のタイミングを、彼女はまるごと読んでいた。


 足が踏み込む。

 いや、踏み込んだようには見えなかった。


 風に乗ったのだ。


 ラウルが閉じたはずの鎖の一筋、その内側へ、彼女の体がするりと滑り込む。

 剣が閃く。


 狙ったのは術の中心ではなかった。

 ラウルの喉元でもない。腕でもない。


 彼女が断ったのは、ラウルの呼吸が乱れた、たった一拍だった。


 恐れを押し隠そうとして、胸の奥で息が浅くなる。

 それに合わせて風鎖の閉じる速さがずれる。

 その半瞬の綻びへ、細い剣が正確に滑り込む。


 ぱきん、と。


 青い式線が、橋の上で硝子みたいに砕けた。


 風が一度、全部止む。


 無音。


 その静けさの中で、アリスルールの剣先が、ラウルの胸元三寸でぴたりと止まっていた。

 彼女の左手は欄干へ軽く添えられ、白手袋の上に散った青い術光が雪みたいに消えていく。


 近い。

 近すぎて、彼女の目がよく見えた。


 幼い目だと、ずっと思っていた。

 実際、そうなのだろう。

 だがその青には、人がどんなふうに壊れかけるかを見るのが好きな、どうしようもなく澄んだ光があった。


 彼女は勝者の顔をしていなかった。


「ああ、うれしいです」


 ほっとしたように、そう言った。


「やっと、先輩のお顔が見えました」


 ラウルは返す言葉を持たなかった。


 敗けた、と思うより先に、その言葉が胸へ入ってきた。


 見られた。

 剣筋でも術でもなく、自分がずっと見ないふりをしていたものを。

 それを見たこの少女は、軽蔑もしないし、勝ち誇りもしない。ただ、本当に嬉しそうにしている。


 それが、いちばん怖かった。


 やや遅れて、周囲の空気が戻る。

 風鈴式が遅れて細かく鳴り始め、列のあちこちからざわめきが起きた。


「魔術斬り……」

「今の、術の中心じゃなくて……」

「笑ってたぞ」


 監礼官が咳払いを一つする。

 儀礼を立て直すための、乾いた音だった。


「……入塔礼、終了」


 ラウルはゆっくりと剣を下ろした。

 膝は震えていない。呼吸も戻せる。

 だからこそ余計に、自分が何を剥かれたのかがわかった。


 アリスルールは剣を収めると、きちんと白手袋の乱れを直した。それから、自分が裂いた術光の残滓さえ踏まないように半歩ずれて、ラウルへ深く一礼した。


「ありがとうございました」


 その礼は、恐ろしいほど美しかった。


 ラウルも、気づけば同じ深さで返していた。


 監礼官が銀の薄板――入塔印を受け取り、空欄の学生証へ魔力刻印を落とす。薄板に青い紋が浮かび、アリスルール・マクラクランの名が刻まれた。


「合格」


 当然のように告げられたその一言より、周囲の新入生たちが彼女から目を離せないでいることのほうが印象に残った。


 ただ強かったからではない。

 ただ綺麗だったからでもない。


 こんな小さな侯爵令嬢が、入塔礼の最中に相手の本質を見抜き、それを見たことを心から喜んでいるのだ。

 その異常が、皆の背に冷たいものを残している。


 アリスルールは学生証を受け取り、両手で大事そうに包んだ。

 それから、開かれた塔門の向こうを見上げる。


 天螺巨塔スパイラ。

 白い外壁は雲の中へ消え、中層の回廊群が朝日に光り、さらに上層では見たこともない複雑な結界輪がゆっくり回転している。図書階の窓群、温室区の緑、外壁を這う運搬籠、上空を巡る観測式。あの内部に、講義も、蔵書も、研究も、変人も、難しい魔術も、まだ知らない人間たちも、全部詰まっているのだろう。


 彼女の目が、ぱっと明るくなった。


 さっきラウルの恐れを見た時と少し似ていて、けれどもっと無邪気だった。


「すごいです」


 誰にでもなく、アリスルールはそう言った。


「難しそうで、とてもよいですね」


 そうして彼女は、風の鳴る塔門をくぐっていった。


 列の後ろで、ようやく誰かが囁く。


「笑ってた」


 その言葉を、ラウルは否定しなかった。


「上級生に勝てるって思ったら、笑うだろ」


 それは違う、と思った。

 あれは勝てそうだから笑った顔ではない。

 人を傷つけることへ酔った顔でもない。


 あれはたぶん、難しい術式の綻びを見つけた時と、難しい人間の本音を見つけた時の顔が、同じ場所にあるのだ。


 そんなものが、今、新たにこの巨塔の中へ入っていった。


 朝風がまた、風鈴式を鳴らした。

 その音色だけが、妙に長く耳に残った。


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