2章 第8話 大国と小国
十六になった春、アムレスト領は相変わらず静かだった。
この世界に目を覚ましてから、ずいぶん時間が経つ。
最初の頃は、目に映るものすべてが借り物のように感じられた。
だが今は違う。
この川の流れも、堰の仕組みも、隣家の屋根の傾きも、
自分の世界の一部として見ている。
前の世界の年齢を足して考えることも、もうやめた。
十六歳は、十六歳だ。
その代わり、変わったものがある。
《人心文章化》の扱いだ。
昔は、浮かぶ文字に振り回された。
今は違う。
見えるものを全部追わない。
必要なときだけ、焦点を合わせる。
それでも、前より読める。
個人の本音だけでなく、
場の揺らぎまで、うっすらと形になる。
そして今、その揺らぎが町の外から流れ込んでいる。
アムレスト領は、自国の中でも穀倉に近い立場だ。
水が豊富で、治水が整っている。
洪水も干ばつも、他領よりは少ない。
だから備蓄も厚い。
それが誇りであり、役割でもある。
自国は、ヴァルディア王国に従属している。
従属といっても、名目上は“同盟”。
だが軍事力も領土も、比べるまでもない。
ヴァルディア王国は大国だ。
北の鉱山、東の港湾、西の平原。
いくつもの小国を従え、交易路を押さえ、
周辺諸国からは一目置かれている。
その大国が、いま緊張状態にある。
相手はカルドリア連邦。
いくつもの都市国家が緩やかに結束した連邦制国家。
機動力と交易網を武器に、ここ数年で急速に勢力を広げている。
境界線付近での小競り合いは、以前からあった。
だがここ最近、報告の頻度が増えている。
「また国境で衝突があったそうだ」
父が夕食の席でそう言ったのは、数日前のことだ。
「大事には至らなかったようだがな」
声は落ち着いている。
だが胸元に浮かぶ。
【長引く】
【これは一度では終わらない】
リンドは黙って聞いていた。
この町は戦場から遠い。
それは事実だ。
だが「遠い」と「無関係」は違う。
アムレストの役割は、穀物だ。
兵が動けば、食糧が動く。
大国が動けば、その波は必ずこちらに届く。
(まだ、始まってはいない)
それでも、始まる前の空気は分かる。
市場でも、話題は少しずつ変わっていた。
「カルドリアが兵を増やしてるらしいぞ」
「港の税が上がったって話だ」
【戦になるか】
【いや、まだ大丈夫だ】
【ヴァルディアは強い】
文字は淡く、まだ軽い。
本気で怯えている者はいない。
それが、余計に不安を呼ぶ。
前の世界で、何度も見た。
「まだ大丈夫」と言っているうちに、
ある日突然、状況が変わる。
だがここは前の世界ではない。
剣も鎧も、兵も王も存在する世界だ。
そして、ここでは国の意志がはっきりと形を持つ。
王都からの使者が訪れたのは、その翌週だった。
応接間に通された男は、礼儀正しく頭を下げる。
「国境付近の緊張が高まっております」
声は整っている。
【準備は整った】
【あとは宣言だけだ】
リンドは隅の席で、静かに読む。
父は頷き、問う。
「戦になるのか」
「その可能性が高いと」
沈黙が落ちる。
この瞬間、まだ戦は始まっていない。
だが、始まる前の空気は、確かにそこにあった。
リンドの胸の奥で、古い感覚が目を覚ます。
(動き出した)
まだ誰も慌てていない。
町も、川も、畑も変わらない。
それでも、何かが動き出している。
十六歳になった自分は、それを読むことができる。
だが、読むだけだ。
導かない。
定めない。
まだ、その時ではない。
その夜、父は窓の外を長く見ていた。
【守れるか】
【守らねばならぬ】
リンドは、その背中を見つめながら思う。
この町は、大国の影の中にある。
そしてその影が、ゆっくりと伸び始めている。
戦はまだ、宣言されていない。
だが、もう遠くはない。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、派手な奇跡ではなく、小さな選択と積み重ねを
大切にして書いています。
リンドの一歩一歩が、少しでも皆さまに届いていれば嬉しいです。
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これからも静かに、誠実に物語を積み上げていきます。
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