序章 第3話 静かなアムレストと、違和感の影
目を開けると、木目の天井がゆらゆらと揺れて見えた。
さっきまでいた白い空間はもうなく、
代わりにあたたかな腕と布の感触がある。
(……戻ってきたか)
赤ん坊の身体。
名前はリンド・シール。
アムレスト領の次期領主。
「リンド」
耳元で母の声がする。
「起きたのね」
【起きた……よかった】
(やっぱりだ。話しかけられると、本音の文字が出る)
ただ、その文もどこか短くて、
“もっと続くはずの何か”を飲み込んでいるように見える。
父の声も、少し離れたところから聞こえてきた。
「エリナ、無理はしていないか?」
それは僕ではなく、母に向けられた言葉だ。
だから、僕の目の前には何も文字は浮かばない。
(……俺に向けられた言葉じゃないと、何も出ないのか)
「大丈夫ですわ。リンドが、ちゃんと眠ってくれましたから」
母の言葉に、僕を見下ろす視線が重なった。
「ね、リンド?」
【あなたがいてくれるだけでいいの】
(……“だけでいい”か)
そこにも、なにか続きそうな気配があったが、
やはり文字はふっと薄れて消えた。
(全部は見えない。そういうものなんだろう、今は)
この世界で使い始めたばかりのスキル。
仕様なのか、単に慣れていないだけなのかも分からない。
ただ、“断片”だけが、こうして掬い上げられてくる。
ある日、扉がノックされた。
「ルドルフ様、よろしいですか?」
若い男の声。
父に向けているので、この時点では僕の周りに文字は出ない。
「カイか。入れ」
扉が開き、
栗色の髪の青年が一礼して入ってきた。
「失礼いたします。エリナ様も、ご無理はされていませんか?」
その言葉と同時に、視線がこちらに向く。
今度は、はっきり僕に向けて。
「リンド様にも、挨拶しておきませんとね」
【やぁ、初めまして。これからよろしくな】
(……この人、なんかフランクだな)
声に重なる文字は、軽い雰囲気の割に、どこか誠実だった。
父が言う。
「カイ。お前も見ておけ。これがアムレストの次の領主だ」
その瞬間、父の目が僕と合う。
そして、ごく短く僕に向けて言葉を投げた。
「リンド。これはカイだ。私の右腕だよ」
【支えてくれる大事な男だ】
(“大事な男”か)
短い文章なのに、
父がカイを信頼しているのは伝わった。
カイがベビーベッドに近づき、
屈んで目線を合わせる。
「カイ・ベレッタと申します、リンド様」
【頼ってくれていいからな】
(……この人とは、きっと上手くやれる気がする)
表情も、声も、本音も、大きなズレがない。
前の世界にはあまりいなかったタイプだ。
泣き声は我慢できずに漏れた。
「……あー……」
「おっと、起こしちゃいましたかね」
【でも、ちゃんとこっちを見てくれてる】
それが、なぜだか少し嬉しかった。
この数日のあいだに、僕はアムレストという領地の
“外側の情報”も少しずつ知ることになった。
執務室で父が話している声。
それを、偶然抱かれていた僕に向けて説明してくれる母。
「アムレストはね、リンド。
広い農地と山々に守られた、とても平和な領地なの」
【戦の影は薄くて、食べ物にも困らない】
「その代わり、目立つ特産もなくて……
ゆっくり、静かに、同じ日々が続いているところでもあるの」
【いい場所よ。だからあなたも、穏やかに育てばそれでいい】
(……静かで、目立たない領地)
一見すると、とてもいい話だ。
実際、悪い話ではない。
ただ、どこか“引っかかる”部分もあった。
父がある日、僕に話しかけてきた。
「リンド。アムレストは落ち着いた土地だ」
【だからこそ、守るのは難しい】
(一瞬、今の……?)
「何も起きない場所を、何も起きないまま保つのは、
実は結構な仕事なんだぞ」
【それでも、私はそういう生き方を選んだ】
文章の最後のほうが、やはり薄れて読めない。
でも、“何か”を言いかけているのは感じる。
(……みんな、きっといろいろ抱えてるんだろうな)
そこまで、はっきりとしたものではない。
ただ、優しさの奥に薄い影があるような感じ。
それは、父にも、母にも、カイにも、
時々ちらりと顔を出す。
(気のせいかもしれない。
でも――なんとなく、気になる)
その程度の違和感として、
今は胸の片隅に置いておく。
まだ僕は、赤ん坊だ。
動くことも、喋ることもできない。
できるのは、抱き上げてくれた相手の声に、
重なって出てくる文章を読むことだけ。
(でも、このスキル……やっぱりすごいな)
前の世界では分からなかったことが、
ほんの少しだけ“分かる”。
それが、妙に楽しくて、
そしてちょっとだけ怖かった。
このときの僕はまだ知らない。
この“違和感”が、
後で大きな意味を持つようになることも、
喋れないのに未来の因果を感じ取る少女――
ルミナと出会うことで、アムレストの静かな空気が
少しずつ変わり始めることも、何ひとつ、まだ知らなかった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、派手な奇跡ではなく、小さな選択と積み重ねを大切にして書いています。
リンドの一歩一歩が、少しでも皆さまに届いていれば嬉しいです。
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これからも静かに、誠実に物語を積み上げていきます。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




