2章 第18話 出立の刻
朝靄がまだ残る刻限。
門前には十騎が整列していた。
馬具の音だけが、乾いた空気を震わせる。
王子はすでに鞍の前に立っている。
父が一歩進み出た。
「この度のご滞在、我が領にとっても得難い機会でございました」
声音は落ち着いている。
礼は正確で、揺らぎはない。
王子は頷く。
「静養の地として、これ以上はない。世話になった。」
言葉は簡潔だが、誠意はある。
一瞬、視線が交わる。
父の胸に浮かぶ。
【再び動くか】
王子の胸にも同時に浮かぶ。
【急がねば】
父は問わない。
時期も、戦の詳細も。
聞けど答えぬ立場であることは承知している。
王子の方から口を開いた。
「兵站の件」
父がわずかに目を上げる。
「約したことは忘れていない」
短い。
それだけで十分だった。
【配慮する】
父は深く礼をする。
「お言葉、ありがたく存じます」
懇願ではない。
それぞれの立場での言葉。
王子はそれを当然のように受ける。
「この領は、重要だ」
一言。
それは政治的評価でもあり、個人的実感でもあった。
兵が小さく進み出る。
「殿下、刻限です」
王子は軽く頷き、鞍へ手をかける。
そのとき、視線が父の背後に向く。
リンドと目が合う。
「少し、よいか」
王子が言う。
父は横へ退く。
王子は馬の脇に立ち、リンドを見る。
「たとえの将の話を覚えているか」
風が、低く鳴る。
「はい」
王子はわずかに口角を上げる。
「将は、再び声を発する」
【迷う訳にはいかぬ】
「恐れが消えていないことも承知の上で」
【承知の上で進める】
リンドは王子の横顔を見る。
昨日までの疲労は薄れている。
代わりに、硬質な決意がある。
「押し込めたものは、いつか戻るかもしれません」
リンドの声は穏やかだ。
「だが止まれば、崩れる。故に止まらぬ」
王子は即座に返す。
その言葉に揺らぎはない。
リンドは小さく頷く。
「では、将は進むのですね」
「進む」
王子は一歩だけ距離を詰める。
「お前は、人をよく観察する」
以前より柔らかい声音。
「年の割に、静かだ」
リンドは肩をすくめる。
「考えているだけです」
王族の威光を意識しない返答。
王子の胸に微かな動き。
【リンドか、この短い期間では見定める事は出来なかったな。】
「この地は、妙だ」
唐突な言葉。
「騒がぬ。怯えぬ。淡々としている」
【なぜだ】
問いは半ば独白だ。
リンドは答えない。
答えを持たないからではない。
導くつもりがないからだ。
代わりに言う。
「川が流れているからでしょうか」
王子は短く笑う。
「水か」
「濁れば目立ちます」
軽い調子。
だが意味は含ませている。
王子はしばらくリンドを見つめる。
【最後まで不思議な子供だ】
そして頷く。
「水を守れ」
命令ではない。
託すような声音。
「はい」
兵が再び告げる。
「殿下」
王子は馬に跨る。
父と視線を交わし、軽く顎を引く。
門が開く。
十騎がゆっくりと動き出す。
王子は振り返らない。
背はまっすぐだ。
その胸に浮かぶ文字。
【奪還】
【前へ】
リンドはそれを読む。
約束も、決意も、軽くはない。
門が閉まる。
町に、再び静けさが戻る。
だが同じ静けさではない。
出立の刻は、
確実に何かを残していった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、派手な奇跡ではなく、小さな選択と積み重ねを
大切にして書いています。
リンドの一歩一歩が、少しでも皆さまに届いていれば嬉しいです。
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