マタイ受難曲
夜風が吹き込む音楽室。先程まであれだけたくさんの音が鳴り響いていたこの部屋も、今は一瞬の静寂に包まれている。その中でお互い睨み合うのは、ピアノの少女とフランス人形。どちらも一歩も引かず、お互いにどっちが先に動くかを牽制し合っているように見える。
やがて、しばらくの静寂の後、痺れを切らしたように少女がある一音に指を置いた。短く鳴り響いた音はこの空間に広まって震え、そして消える。次は一体何が起こるんだと身構えた和水は、視界の端で微かに何かが動いたことを捉えた。
「肖像画が………!?」
壁にずらりと並んだ、音楽界の偉人たちの肖像画。それが納められた額縁が、がたがたと激しく震え出したのである。まるで中にいる偉人が、ここから出せとでもいうかのように。J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、ブラームス………。こういった音楽に詳しくない人でも、一度は名前を聞いたことがあるような有名揃いだ。それらの肖像画がみな、額縁を大きく揺らし、そのプラスチックのケースを突き破ってひらひらと床に舞って落ちた。
その絵画から、また先程の観客と同じような黒い影が出てくる。シルエットでしか判別できないが、みんな肖像画通りの形をしているように見えた。そのうちの1つ………、J.S.バッハの肖像画から現れた黒い影が、厳かな雰囲気でヴァイオリンを奏で始めた。『マタイ受難曲』。バッハの中でも有名な曲で、ピアノ教室に通ったり、クラシックを齧っている和水にとっては聞いたことのある曲だ。こんな状況ではあるが、まさかこの曲を作った本人の演奏を聞けるなんて、と少し感激してしまう。そして他の肖像画から現れた影の偉人たちも、その曲に合わせるように各々が楽器を演奏しだす。
そうしてうっとりと聞き入っている和水の足元から突然、大きな十字架が出現した。気付いた時には遅く、抵抗も空しく和水の体は磔にされて拘束されてしまったのだ。その光景はまさに、この楽曲が紡ぐ物語………、イエス・キリストが逮捕され裁判にかけられ、十字架にかけられるそれと、まったく同じである。
「な、なんですのこれ………!!」
「和水………!」
「マタイ受難曲。バッハの代表曲よ………」
囚われた和水を救うべく、人形が髪で十字架を破壊しようとしたが、今も演奏を続けるバッハの音楽によって弾かれる。この十字架をどうにかするより、バッハの影を何とかするか、もしくは少女自身を倒すかしないと、救出は難しそうである。少女は、十字架に縛られた和水を頭の先から足の先まで見下ろした。まるで和水の全てを見透かすような瞳。
「こんなことはやめてくださいまし!尊敬すべき偉人たちをこのように人を傷つける為に使うなど………、貴女は音楽家の風上にも置けませんわ!」
「………私がやったんじゃないわ。バッハの音楽が、この状況を作り上げたのよ。知らないの?マタイ受難曲の物語」
「知っていますわ………。イエスは捕まり、十字架刑によって………死ぬ」
「そう。貴女は今から、まったく同じ運命を辿るのよ。マタイ受難曲の演奏を最後まで聞いた時………、貴女は死ぬ」
「どうして………。どうしてこんなこと………!貴女はあんなに美しいピアノを弾けるのに………」
悲しむ和水の言葉に、少女は苛立ちを募らせていく。どうしてなんて、そんなこと、和水には関係ないし、分かる筈もない。彼女は恵まれていて、幸せで、少女にはないものを沢山持っている。そんな幸せ者には、不幸な少女の気持ちなんて分からない、分かってほしくもないと思っていた。
「偉人だか何だか知らんが、最後まで演奏させなければいい話じゃろう!」
人形がバッハの影に向かって走り出す。髪を伸ばして、影の足元にある肖像画を、楽譜のように粉々に裂いてやろうとしたのだ。数々の偉人の影たちが繰り出す音の斬撃を、人形は華麗に交わし、髪で叩き落としながら、1枚、また1枚と肖像画を切り裂いていく。しかし、あともう1枚、バッハの肖像画を破壊しようとしたところで、それを黙って見ている少女ではなかった。急いでピアノの元まで戻ると、少女はまた美しい音色を奏で始めた。こちらもまた、ショパンの有名な曲、『幻想即興曲』。速いテンポで繰り広げられる美しい旋律は、弾き手の少女の気持ちが入っているのかどこか物悲し気にも聞こえた。その音色を聞いた瞬間、人形の脳裏に遠い遥か昔の映像が古いビデオのように流れ出す。
人形の最初の持ち主だった女の子が、記憶の中から呼びかけてくる。「人形ちゃん、遊ぼ!」そう笑いながら、いつものおままごとをする。女の子が母親役で、人形が子供役だ。毎日毎日飽きもせず、同じ遊びの中で、同じくだりを演じるのだ。「はい、ご飯ですよ」と差し出されるプラスチックの食材を食べるふりをするというくだりを。その映像に懐かしい想いを馳せる人形が、すっと髪を下ろして足を止める。立ち尽くしたまま動かなくなってしまった人形の背中を、和水は不審に見つめていた。
「人形ちゃん………?どうしたのです!」
「………………」
「貴女も悲しい過去を持っているのね。私と、同じ」
ピアノを弾きながら、固まった人形を見つめる少女。ピアノを弾く手に力が入っていく。曲もどんどん盛り上がっていくと、人形の頭の中に流れる映像は、その幸せなものから、地獄の日々へと切り替わった。
喧嘩する両親。父親から殴られる女の子。再婚した男と出て行った母親。二度と見たくないと思っていたものが、どんどん頭の中に溢れてきて、人形は呼吸を乱しながらその場に蹲った。苦しそうに唸り声をあげて、頭を抱える。見たくない、見たくない、思い出したくない!そんな悲痛な思いが、和水にもひしひしと伝わってくる。
「人形ちゃん!!人形ちゃんしっかりして!!」
「あああああ………いやだ………、いやだあああああ!!!!」
そして、最後。瘦せ細った女の子の体は、人形の隣で力尽きる。何もできない。守ってやれない。そんな絶望に打ちひしがれる人形の前に、死んだ筈の女の子が、ぼんやりと現れる。
『お前のせいだ』
「……ああああ…………」
『お前のせいで私は死んだ』
「ちがう………、ちがう………!!」
『裏切り者』
「わたしは………」
『裏切り者』
「わたしは……………」
『裏切り者!!!!!』
まるで、魔物のような恐ろしい表情で、人形に怒鳴りつける女の子。そんなことを言う筈がないのに、人形のトラウマ、過去の傷を抉るその精神攻撃のせいで、人形はそれを幻とは判断できずにいた。完全に人形の精神は崩壊し、錯乱している。子供のようにその場に蹲って、震えながらすすり泣く人形の姿を、和水は十字架から見下ろすことしかできない。大事な友達がすぐ傍で苦しんでいるのに、助けてあげられない。手を差し伸べることすらできない。その悔しさが、和水の胸の中でどんどん溜まっていく。
(人形ちゃんは………、こんな気持ちだったんだ…………)
和水が今置かれている状況。それはまさに、人形が女の子を助けられなかったその時と一緒だ。ぞく、とどこか雰囲気が変わった和水を、少女が警戒しながら見つめる。和水の鋭い瞳は、真っすぐに少女に向けられていて。
「………ゆるせない………」
「…………?」
「私の大事な友達を傷つける人は………、絶対に許しませんわ!!!」




