音楽室の怪異
「いけない………、すっかり遅くなってしまいましたわ………!」
バタバタと帰り支度を進める和水は、もうすっかり人気の少なくなった学校に、20時を過ぎた今も残っていた。今日は弓道部の活動日だったのだが、何だか練習に熱が入ってしまい、今の今まで夢中で部活をしていたのだ。他の生徒はとっくに下校しており、残っていたのは和水ただ1人。慌てて部室に駆け込み、着替えをして、手荷物を纏めていく。
「最近何だか妙に張り切っておるの」
「そう、かしら………?」
その姿を見ていた人形が、思っていたことを口にした。和水にはあまり自覚がないようだが、人形の目には、最近、以前にも増して和水が生き生きしているように見えた。そしてそれは、人形だけが感じていたことではないらしく、今日昼休みに突然声をかけてきたクラスメートの男子にも、似たような事を言われていた。
『最近九重さん………、前よりもっと綺麗になったなっていうか…………』
クラスメートの言葉を思い出して、和水は、こんなにも人に『変わった』と言われるならば、きっとそうなのかもしれない、と考えていた。母親にも、「最近楽しそうね。何か良いことあった?」と聞かれたし、父親には「彼氏でもできたのか………?」と少し焦ったように聞かれてもいた。
「もし………私が本当に変わったのなら………、それは多分、恋のパワー、ですわ」
「恋のパワーねぇ………。お主、あの目隠しの男がそんなに良いのか?」
ええ、もう、素敵過ぎて毎日想いを馳せておりますの!と食い気味に肯定する和水に、人形は溜息を付く。人形には、あの男の霊のどこがいいのか、サッパリ分からなかった。口数の少ない、面白みのない男だと。
「目隠し様のことが好きになってから………、私の毎日はキラキラとしていて………。どんどん力が溢れてくるし、今なら何だってできそうな気がしますの………!」
「わらわにはちっとも分からん」
「今なら多少強い悪霊に襲われたって、私1人で返り討ちできそうな勢いですのよ!」
あくまでも、できそう、というだけで、実際にできる訳ではないが、気持ちの話である。恋は女を強くする、美しくするという人もいるが、和水はまさにそれを体現していた。彼女にとっては、人間と幽霊という隔たりは関係なく、ただ好きだから好き、それだけだ。絶賛目隠しさんに片想い中の彼女は、当然、昼休みに告白してきたクラスメートの男子をきっぱりと断っている。
そうして恋バナに花を咲かせているうちに、帰りの準備が整い、和水は部室から出て、顧問から預かっていた鍵を掛けた。後はこの鍵を職員室まで返しにいくだけだ。
「あの男は辞めた方がいいぞ、和水」
「あら、どうしてですの?」
「ああいう男ほど、意外と束縛男だったりするからのう」
「それは人形ちゃんの想像でしょう?」
「もしかしたら凄く変態かもしれんぞ」
「まさかそんな筈はありませんわ!目隠し様は紳士的ですもの」
「なら………、すごい音痴、とか」
「でしたら音楽を嗜んでいる私が教えて差し上げますわ」
「今時亭主関白とか」
「でしたら、私は目隠し様の3歩後ろを歩きますわ」
想像で目隠しさんを色んな人物像に仕立て上げる人形と、それをクスクス笑いながら返す和水。2人はとても楽しそうに会話していて、側から見ればすっかり友達だ。そうして他愛無い会話を繰り広げながら、職員室までの暗い廊下を歩いていく。響くのは、和水の上履きの音だけ。………の、筈なのに。
突然聞こえてきたのは、美しいピアノの音色だった。思わずピタリと足を止めて、和水が振り返る。耳を澄ませると、やっぱり聞こえてくるピアノの音は、気のせいではない。音楽室から聞こえているようだ。やけに響いているのは、もう誰もいない静かな夜の校舎だからか。
「ピアノの音………?音楽の先生が練習してらっしゃるのでしょうか?」
こんな時間にピアノの練習なんて少し違和感を感じるが、聞こえるということは誰かが弾いているということだ。和水はその違和感に眉を顰めながらも、考えることはやめて職員室への歩を早めた。何だか不気味だ。選曲も、暗い雰囲気の曲だし、音色もどこか悲しげで重たい。
しかし歩いても歩いても、目的の職員室には辿り着かなかった。おかしい。もうとっくに辿り着いている筈なのに、一向に見えてこない職員室。早歩きだった和水の足は、小走りに変わり、終いには息が切れる程全力で走っていた。
「おかしい…………、職員室に辿り着かない………」
「…………………」
肩に座っていた人形が立ち上がり、周囲に気を張り巡らせた。恐らくここは既に現実世界では無い。このピアノの音色によって、2人は別の世界へと誘われてしまったのだ。辿り着かない職員室とは裏腹に、ピアノの音はどんどん大きくなっていて、反対側にある筈の音楽室に近付いていることを物語っていた。………誘われている。この先の、謎のピアノの音に。
「和水、警戒しろ。恐らくわらわたちはもう相手の世界に引き摺り込まれておる」
「悪霊がいるってことですの………!?」
少し怯えたように緊張している和水。相手のステージに上がってしまっていることは分かったが、ここでこのまま足を止める訳にもいかない。脱出する為にも、乗り込むしか無いだろう。目の前に見えてきた、音楽室へ。
「反対側にある筈の音楽室が何故………」
「よっぽどわらわたちに聞いて欲しいようじゃな。招待されたみたいじゃ」
ギィ、とゆっくり開く音楽室の扉。その瞬間、鮮明にピアノの音が漏れ出して、その音色が2人を包み込んだ。ゴクリと生唾を飲み込んだ和水が、意を決してその先へと足を踏み入れる。
明かりも付いていない真っ暗な音楽室には、窓から惜しみ無く満月の光が降り注いでいて、白い月の光が幻想的にピアノを照らしている。和水たちがやってきても止まる気配のない演奏は、まさしくベートーヴェンの月光…………、その場に相応しい演奏曲だ。
「あなたは……………」
ピアノを滑る、白く細い指は軽やかに躍る。目を閉じて、演奏に気持ちを入れるように体を動かしながら演奏する1人の女性………、和水とそう変わらない歳に見える彼女は、綺麗な発表会のようなドレスを着用していて、栗色のウェーブ掛かった髪が、演奏する度に揺れている。とても美しく、儚い女性だった。
やがてその女性は、ようやく演奏の手を止めて、和水と人形を一瞥した。ピアノを弾いている時とは打って変わり、何の感情もない、全てを諦めているかのような光のない瞳を向けている。
「………人間と………人形?」
「私、九重和水と申します。私たちをここに連れて来たのは貴女かしら」
「………さあ………。どうでもいいわ、そんなこと」
どうでもいいって………、と困惑する和水を他所に、ピアノを弾く女性はゆっくり立ち上がる。
「どうでもいいの、全部。私にとってはもう、何もかもが無駄だから」
深い絶望と悲しみに包まれて、彼女は影を落とす。今の所攻撃してくる気配は無いが、果たして彼女は友好的な霊なのか、それとも…………。
音楽室の七不思議。夜に独りでに演奏しだす、ピアノの音。それを聞いた者は霊界へと迷い込み、二度と現実の世界には帰れないのだという。




