私を護ってくれたのは、幽霊騎士
幽霊。心霊。悪霊。実体を持たない、恐ろしい存在。………そんな彼らの存在を、信じていない人も多いだろう。普通の人ならば、その存在を認識すらできないのだから。
「こ………、来ないでっ………!!!」
しかし、私は思う。本当に怖いのは、一体どちらなのだろうか、と。私をギラギラと欲望に光らせた目で見降ろすのは、幽霊でも死神でもない。紛れもない、私と同じ、生きている人間だった。その男が右手に握りしめている、血に濡れた赤いナイフ。先程逃げる私の脚を切り付けたときに付着したものだ。
「誰か………!誰か助けて!!」
震える声を必死に絞り出しても、当然、こんなところに私以外の人間などいる筈がない。空しく響き渡った私の声は、そのまま壁にぶつかって反響し、そして消えた。怯える私の顔を見て、男は更に息を荒くし興奮したような様子を見せた。
「いいねえ………!その顔、その顔ダヨォ………!あああぁ………興奮してきた。興奮しすぎてホラ、勃〇、しちゃってんだよ………」
下品に笑う男の言葉など、最早恐怖で何も耳に入らない。1時間程前、肝試しのような感覚でこの廃墟にやってきた自分を恨みたい。叶うならばタイムマシンに乗って過去の自分に、『廃墟には行くな』と伝えたい。だってまさか、幽霊ではなくて、最近世間を騒がせている凶悪連続殺人犯が潜んでいるなんて、誰も思わないではないか。しかし今更そんな後悔をしたところで、この状況は変わらない。現代にタイムマシンなんてものは存在しないし、しがない女子高生である私には、この男を撃退するような力も持ち合わせていないのだ。
「いい声で鳴いてくれよ………、お嬢チャン」
「ひっ………!」
そして廃墟の行き止まりまで追い詰められた私は、一歩、また一歩と男に距離を詰められていた。背中に伝わるのは、無機質な冷たい壁。もう、どうすることもできない。こんな自分勝手で糞みたいな男に、私の人生は奪われてしまうのか。
私の瞳に映った、男の最後の姿は、私に向かってナイフを振り上げているところだった。その後のことは、はっきりと覚えていない。恐怖と、これから来るであろう痛みに、反射的に固く目を閉じて現実から目を背けてしまったからだ。
しかし、来ると覚悟していた未来は、なかなか訪れてはこなかった。目を閉じてどれだけ待っても、なんの痛みも、苦しみも、音も、感じない。ただ鼓膜を通して伝わってくるのは静寂ばかり。死とは、案外こんなものなのだろうか。そうして恐る恐る目を開くと、なぜかそこに転がっていたのは私ではなく、男の方で。
「………え……………?」
思わず出た、間抜けな声と吐息。私の体は、逃げ回っている時に男に付けられた、脚の傷のみ。対して、私を殺そうとしていた男はあっけなく地面に横たわり、血の海に沈んでいた。開けっ放しの瞳はすでに光がなく、瞳孔が散大している。それは、男が死んでいることを意味していた。当然、私がやったのではない。目を閉じている間に、なぜか男が死んでいたのだ。
しかし、その男の死の理由は、すぐに判明した。私と男の間に、私を庇うようにして立っていた存在。その男は、とても現実のものとは思えない大きな鎌を携えていて、たった今付いたであろう新鮮な血を振り払うように、その鎌を大きく一振りした。そして、ゆっくりと私を振り返る。
「無事、か」
低く、ゆっくりと、落ち着く声音で、私にそう尋ねた男は、私に対して危害を加えるような気配などなく、敵ではないことは明白だった。私を助けてくれたのだ。途端に体の力が抜け、急に滝のような汗がどっと噴き出してくる。助かった。助かったんだ。そう実感すると、今度は心臓が急速に鼓動を速めた。止まっていた時間が、急に動き出しているかのようだった。
何も返事できぬまま、その場に固まり腰を抜かす私に、助けてくれた男はしゃがんで目線を合わせてくれた。特に何かをしてくるわけでもなく、逆に私を前にしてどうしたらいいのか分からず動揺しているようにも見えた。動揺しているのは私も同じで、落ち着きを取り戻すのに数分の時間を要したが、私を助けてくれた男はただ静かにそれを見守ってくれていた。
「あ………、ありがとう………。貴方は………」
そうしてやっと冷静になり思考を取り戻した私は、改めて助けてくれた男の姿を見上げた。サラサラフワフワの銀髪、双眸は、黒い仮面で隠れていて、とても血の気が通っているとは思えない、真っ白な肌、黒衣の騎士を彷彿させる出で立ち。私には分かる。この男………、幽霊である。
私は、生きている人間に殺されかけ、幽霊の男に守ってもらったのだった。