緘黙ノ闇室(かんもくのやみしつ)
夜の底に息づく小さな闇は、時として一つの家族を呑み込む。田中家の二階奥の八畳間に、ある人物が住み着いていたことから始まる物語は、親が知らぬ間に育まれた秘密の糸が、やがて家族の絆を試すことになる。静寂の裏に潜む異常、日常の向こう側で蠢く影??血のつながった者同士が隠し続ける真実が、ついに暴かれるとき、愛と憎悪の境界線は曖昧になる。
## 序章 聞こえない音
修一が最初にその異常に気づいたのは、三月の終わり、桜のつぼみが膨らみ始めた夜のことだった。
午前二時。家中が眠りに包まれている時間帯に、二階の奥から微かな生活音が聞こえた。茶碗を置く音。布を払う音。そして、誰かが息を殺している気配。
田中修一は廊下に立ち、古びた襖を見つめていた。あの八畳間は、もう十年以上誰も使っていないはずだった。長男の翔太が中学生になってから物置同然になり、埃と古い家具に覆われた部屋。それなのに、明らかに人の気配がする。
襖に手をかけ、そっと押し開く。暗闇の中に浮かび上がったのは、畳の上に敷かれた寝袋と、コンビニの袋、ペットボトルの水。そして、まだ体温の残る布団の痕跡。
確かに、誰かがここで暮らしている。
修一は震える手でスマートフォンを取り出し、証拠写真を撮った。画面の向こうに映る異常な光景を見つめながら、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
妻の美香は「知らない」と言った。息子の翔太も首を横に振った。しかし、その瞬間に交わされた視線の鋭さ、微妙にずれた表情の陰に、修一は別の真実が隠されていることを悟った。
家族とは何か。信頼とは何か。そして、愛情とは何か。
田中家の静寂の裏で蠢く闇は、やがてすべてを暴き出すことになる。
## 第一章 歪んだ鏡
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翌朝の食卓は、いつもと何も変わらない風景だった。美香が作った卵焼きと味噌汁の湯気が立ち上り、翔太はスマートフォンを見ながら黙々と箸を動かしている。まるで昨夜の異常な発見など、夢の中の出来事だったかのように。
「なあ」修一は慎重に言葉を選んだ。「昨夜、二階で物音がしたんだが」
美香の手が一瞬止まった。箸に挟まれた卵焼きが、わずかに震える。
「物音?」
「八畳間からだ。誰か入った覚えはあるか?」
「ないわよ」美香は微笑む。しかし、その笑顔の奥に、修一は言いようのない違和感を察知した。「ネズミじゃない? 古い家だから」
翔太はスマートフォンから顔を上げない。ゲームの音が小さく鳴り続けている。
「翔太は?」
「何も聞いてない」短く答える息子の声に、修一は妙な硬さを感じた。
沈黙が食卓を支配する。三人分の呼吸音と、時計の秒針だけが現実を刻んでいく。修一は味噌汁を啜りながら、家族の表情を観察した。美香の目は皿の上を泳ぎ、翔太の指はスマートフォンの画面を無意味になぞっている。
何かが起きている。確実に、何かが。
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午後、修一は会社を早退した。理由は体調不良と偽った。本当の理由は、あの部屋をもう一度確認したかったからだ。
家の前に車を停め、しばらく二階の窓を見上げた。カーテンは閉まっているが、わずかな隙間から室内が覗ける。修一は双眼鏡を取り出し、窓に焦点を合わせた。
午後三時。美香はパートに出ている時間だ。翔太は学校にいるはず。家は無人のはずなのに、あの窓の向こうで影が動いた。
確実に、人がいる。
修一は急いで玄関の鍵を開け、二階に駆け上がった。しかし、八畳間の襖を開けると、そこには何もなかった。寝袋も、コンビニの袋も、すべて消えている。まるで昨夜の光景が幻だったかのように。
ただ、畳に残る微かな圧迫痕と、空気中に漂う人の気配だけが、誰かがここにいたことを物語っていた。
修一は部屋の隅々を調べた。押入れ、天袋、床下。しかし、何も見つからない。侵入者は完全に姿を消していた。
その時、玄関で鍵の音が響いた。美香が帰ってきたのだ。
「お帰りなさい」修一は一階に降りて、なるべく自然に声をかけた。
「あら、早いのね」美香は買い物袋を置きながら答える。「体調悪いって連絡もらったけど、大丈夫?」
「ああ、もう良くなった」
美香の表情を見つめる。何かを隠している時の、あの微妙な緊張感。結婚して十五年、修一にはそれがよく分かった。
「二階、見に行ったの?」美香が唐突に尋ねた。
「え?」
「八畳間よ。気になって見に行ったんでしょう?」
なぜそれが分かったのか。修一は戸惑いながら頷いた。
「何もなかったでしょう?」美香は微笑む。しかし、その笑顔の底に、修一は氷のような冷たさを感じた。
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夕食の時間。翔太が帰宅し、三人が再び食卓を囲む。しかし、昨夜とは明らかに空気が違った。美香と翔太の間に、言葉にならない緊張感が流れている。
「今日、学校はどうだった?」修一が翔太に尋ねた。
「普通」
「普通って?」
「別に何もない」翔太の答えは素っ気ない。しかし、美香を一瞬見つめる視線に、修一は何かのメッセージを感じ取った。
食事を終え、翔太は自分の部屋に引きこもった。美香は食器を洗い始める。修一はリビングでテレビを見ているふりをしながら、家族の動向を観察していた。
午後十時。美香は「先に休む」と言って二階に上がった。翔太の部屋からは音楽が聞こえている。修一は一人、一階で時間を過ごした。
午前一時。家中が静まり返った頃、修一は再び二階に向かった。美香の寝息が聞こえる。翔太の部屋は静寂に包まれている。
そして、八畳間。
襖をそっと開けると、再び寝袋と生活用品が現れていた。まるで昼間の消失が嘘だったかのように。しかし今度は、修一はその場を離れずに観察を続けることにした。
廊下の陰に身を隠し、じっと待つ。午前二時、三時。時間だけが過ぎていく。
そして午前三時半、階段を上がってくる足音が聞こえた。
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階段を上がってきたのは、美香だった。
修一は息を殺し、廊下の陰から妻の行動を見つめた。美香は慎重に八畳間に近づき、襖をそっと開ける。そして、中に向かって何かを囁いた。
声は聞き取れなかったが、明らかに誰かと会話をしている。
修一の心臓が激しく鼓動を始めた。妻は、侵入者の存在を知っている。それどころか、密に連絡を取り合っている。
美香が部屋から出てきた時、修一は反射的に身を隠した。妻は再び一階に向かう。修一は待った。十分、十五分、二十分。
そして、意を決して八畳間に向かった。
襖を開けると、暗闇の中で人影が動いた。修一は思わず声を上げそうになったが、その瞬間、相手が振り返った。
月明かりの中に浮かび上がった顔を見て、修一は愕然とした。
それは、見知らぬ他人ではなかった。
## 第二章 血の秘密
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暗闇の中で振り返った顔は、田中家の長年の秘密を物語っていた。
「兄さん」その人物は静かに呟いた。「やっと気づいたのね」
修一の弟、田中康夫。五年前に行方不明になり、家族も警察も諦めていた男だった。
「康夫?」修一の声は震えていた。「お前、生きていたのか」
「生きているも死んでいるも、もうよく分からない」康夫は自嘲的に笑った。「でも、確かにここにいる」
修一は混乱していた。弟は確かに五年前、借金と女性問題で身を持ち崩し、ある日突然姿を消した。家族は警察に捜索願を出したが、手がかりは何も見つからなかった。そして時が過ぎ、みんな康夫の死を受け入れていた。
「なぜここに? なぜ今まで黙っていた?」
「言えるわけがないだろう」康夫の目は虚ろだった。「俺がどういう状況にいるか、知っているのか?」
修一は弟を見つめた。やせ細り、髪は伸び放題、服は汚れている。まるで社会から完全に切り離された人間のようだった。
「美香は知っているのか?」
「ああ」康夫は頷いた。「彼女が俺を匿ってくれている」
その時、足音が近づいてきた。美香が再び上がってくるのだ。修一は慌てて康夫に向き直った。
「詳しい話を聞かせろ。今すぐに」
しかし、美香の声が廊下に響いた。
「修一? 何してるの?」
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「あ、ああ」修一は振り返った。「物音が聞こえたから、見に来ただけだ」
美香は修一の後ろを見つめた。八畳間の中に康夫がいることを、彼女は知っている。しかし、修一が発見したことを、まだ把握していない。
「何もないでしょう?」美香は近づいてきた。「早く寝ましょう」
修一は美香と康夫の間に立っていた。この状況で何を言うべきか、どう行動すべきか、判断がつかなかった。
「美香」修一は低い声で言った。「俺たちは話をする必要がある」
美香の表情が変わった。覚悟を決めたような、諦めたような表情。
「分かったのね」
「ああ」
「いつから?」
「今夜だ」
美香は深いため息をついた。そして、八畳間を振り返った。
「康夫さん、出てきて」
暗闇の中から、康夫がゆっくりと現れた。兄弟が五年ぶりに向かい合う瞬間だった。
「久しぶりだな、兄さん」康夫の声は乾いていた。
修一は何も言えなかった。弟の変わり果てた姿、妻の隠し事、そして家族の中に潜んでいた巨大な秘密。すべてが一度に押し寄せてきた。
「どうして」修一はやっと口を開いた。「どうして教えてくれなかった?」
「言えなかった」美香が答えた。「あなたには言えなかった」
「なぜだ?」
美香と康夫は顔を見合わせた。そこには、修一の知らない深い事情があることが明らかだった。
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三人は一階のリビングに移った。翔太が起きないよう、声を潜めて話をする。
康夫は痩せ細った体をソファに沈めながら、五年間の経緯を語り始めた。
「俺は確かに借金を抱えて逃げた。でも、それだけじゃない」康夫の目は虚空を見つめていた。「ある人間に狙われていた」
「狙われていた?」修一は眉をひそめた。
「借金の相手は暴力団だった。でも、金の問題だけじゃなく、俺は彼らの秘密を知ってしまった」
康夫によれば、彼が関わった女性は暴力団幹部の愛人だった。その女性から、組織の違法行為について情報を聞かされた。そして、その情報が漏れることを恐れた組織が、康夫を消そうとしたのだという。
「最初は普通に逃げていた。でも、どこに行っても見つかる。そして一年前、ついに限界が来た」
康夫は美香を見つめた。
「偶然、美香さんと街で会った。俺の状況を話したら、匿ってくれると言ってくれた」
修一は妻を見た。「なぜ俺に相談しなかった?」
「あなたは真面目すぎる」美香は静かに答えた。「警察に通報するか、康夫さんを追い出すかどちらかだと思った」
「当たり前だろう」修一の声が大きくなった。「家族を危険にさらすかもしれないんだぞ」
「だから内緒にしてたの」美香の目に涙が浮かんだ。「康夫さんは死ぬかもしれなかった。放っておけなかった」
修一は混乱していた。妻の気持ちも理解できるが、家族の安全を考えれば、康夫を匿うなど正気の沙汰ではない。
「翔太は知っているのか?」
美香と康夫は再び顔を見合わせた。
「実は」康夫が口を開いた。「翔太とは時々話をしている」
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翔太が康夫の存在を知っていたという事実は、修一に更なる衝撃を与えた。
「いつから?」
「半年前くらいから」美香が答えた。「偶然見つけてしまって」
「なぜ俺だけが知らされなかった?」修一の声には怒りが込められていた。
「お父さんは心配性だから」突然、階段から声が聞こえた。
翔太が降りてきたのだ。寝ていたふりをして、実は家族の会話を聞いていたのだろう。
「翔太」修一は息子を見つめた。「お前も隠していたのか?」
「隠してたんじゃない」翔太は大人びた表情を見せた。「守ってたんだ」
「守る?」
「康夫叔父さんを。お母さんを。この家を」
翔太の言葉に、修一は言葉を失った。息子は、自分の知らないところで大人の事情を理解し、家族を守ろうとしていた。
「でも、もう限界だ」康夫が立ち上がった。「俺がいることで、この家族を巻き込むわけにはいかない」
「どこに行くつもりだ?」
「分からない。でも、ここにはいられない」
美香が泣き始めた。翔太も唇を噛んでいる。修一は家族の状況を整理しようとしたが、頭の中は混乱するばかりだった。
その時、玄関のドアベルが鳴った。
午前四時に訪問者など、普通は考えられない。四人は凍りついたように立ち尽くした。
ベルが再び鳴る。そして、ドアを叩く音。
「田中さん、開けてください。警察です」
## 第三章 追い詰められた真実
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警察の声に、リビングの空気が凍りついた。
「警察?」修一は呟いた。「なぜこんな時間に?」
康夫の顔は青ざめていた。「見つかったのか」
美香は慌てて康夫の腕を掴んだ。「二階に隠れて」
しかし、玄関のドアを叩く音は止まらない。逃げる時間はなかった。
「田中修一さんですね。任意同行をお願いします」警察官の声は冷たく響いた。
修一は家族を見回した。美香は震えている。翔太は唇を噛み締めている。康夫は絶望的な表情を浮かべていた。
「どうして俺が?」修一は小声で尋ねた。
「あなたの会社で横領事件が発生しました。関係者として事情を聞かせてください」
横領事件?修一には心当たりがなかった。しかし、警察が家に来るということは、相当深刻な事態なのだろう。
「今すぐに?」
「はい。署まで来ていただけますか」
修一は家族を見つめた。このまま警察と一緒に出て行けば、康夫のことがバレるかもしれない。しかし、拒否すれば更に疑われる。
「分かりました」修一は観念した。「少し着替えます」
「急いでください」
修一は二階に上がり、慌てて服を着替えた。その間、美香と康夫、翔太がどんな会話をしているのか気になったが、時間がなかった。
五分後、修一は警察官と一緒に家を出た。車に乗り込む前に振り返ると、二階の窓から美香が見つめているのが見えた。
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警察署での取り調べは、修一の予想以上に厳しいものだった。
「田中さん、あなたの部署で三千万円の横領が発覚しました」刑事は資料を見ながら言った。「心当たりはありませんか?」
「全くありません」修一は正直に答えた。「そんな大金の横領など、知るはずがありません」
「しかし、あなたの承認印が押された書類が見つかっています」
刑事が示した書類を見て、修一は愕然とした。確かに自分の印鑑が押されているが、その書類を見た記憶がない。
「これは偽造です」修一は主張した。「私はこの書類を見たことがありません」
「では、なぜあなたの印鑑が?」
「分かりません。誰かが勝手に使ったのでしょう」
取り調べは朝の六時まで続いた。結局、修一は容疑者として扱われることはなかったが、事件の関係者として今後も協力を求められることになった。
家に帰る途中、修一は横領事件のことよりも、家族の問題について考えていた。康夫は無事に隠れることができたのか。そして、この状況をどう解決すればいいのか。
タクシーを降りて玄関の鍵を開けると、家の中は静まり返っていた。美香も翔太も、まだ眠っているようだった。
修一は二階に上がり、八畳間を確認した。しかし、そこには何もなかった。康夫は再び姿を消していた。
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午前八時、修一は会社に電話を入れた。横領事件の件で警察に呼ばれたことを報告し、今日は休暇を取ることにした。
美香と翔太が起きてきたのは九時過ぎだった。二人とも修一の顔を見て、何かを確認するような表情を見せた。
「警察は何て?」美香が尋ねた。
「会社の横領事件について聞かれた」修一は簡潔に答えた。「康夫は?」
「安全な場所に移った」翔太が答えた。
「安全な場所って?」
美香と翔太は顔を見合わせた。また秘密にしようとしている。
「教えてくれ」修一の声は強くなった。「もう隠し事はやめよう」
美香は深いため息をついた。
「康夫さんは、昔の知り合いの家にいる」
「知り合い?」
「私の元同僚。事情を話して、一時的に匿ってもらってる」
修一は妻を見つめた。美香は康夫を救うために、どれほど多くの人を巻き込んでいるのか。
「他に知っている人は?」
「あと二人ほど」美香は小声で答えた。「みんな康夫さんの味方よ」
修一は頭を抱えた。事態は想像以上に複雑になっていた。康夫を匿うために、美香は秘密のネットワークを築き上げていたのだ。
「それで、どうするつもりだ?」
「分からない」美香は涙ぐんだ。「でも、康夫さんを見捨てることはできない」
その時、修一の携帯電話が鳴った。会社からの連絡だった。
「田中さん、大変なことになりました」上司の声は慌てていた。「あなたの印鑑が盗まれていたようです」
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会社からの報告により、修一の疑いは晴れた。しかし、新たな問題が浮上した。
印鑑を盗んだのは、同じ部署の同僚だった。その同僚は借金に追われ、横領に手を染めていた。そして、修一の印鑑を盗用して犯行を隠蔽しようとしていたのだ。
「結局、俺も借金問題に巻き込まれたということか」修一は皮肉に笑った。
美香は夫の疲れた表情を見つめていた。
「修一、ごめんなさい」
「何が?」
「あなたにも迷惑をかけて」
修一は妻の手を取った。
「迷惑じゃない。でも、これ以上秘密は勘弁してくれ」
「約束する」
翔太も頷いた。「お父さん、康夫叔父さんのこと、どうする?」
修一は長い間考えた。弟を警察に突き出すことは簡単だ。しかし、それで康夫が殺される可能性もある。家族を守りたいが、弟も守りたい。
「康夫に会わせてくれ」修一は決断した。「直接話をする」
美香は安堵の表情を見せた。「ありがとう」
午後、三人は康夫が隠れている場所に向かった。美香の元同僚のマンションの一室で、康夫は身を寄せていた。
五年ぶりに向かい合った兄弟は、しばらく無言で見つめ合った。
「兄さん、迷惑をかけて申し訳ない」康夫が頭を下げた。
「迷惑じゃない。でも、この状況を何とかしないといけない」
「分かっている。でも、俺には選択肢がない」
修一は弟の絶望的な表情を見つめながら、ある決断を下した。
「俺が何とかする」
## 第四章 闇からの脱出
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修一の「何とかする」という言葉に、康夫は困惑した表情を見せた。
「兄さん、何をするつもりだ?」
「まずは相手が誰なのか、正確に把握する必要がある」修一は冷静に言った。「お前を狙っている組織について、詳しく教えてくれ」
康夫は躊躇していた。兄を巻き込むことへの恐れと、救われることへの期待の間で揺れていた。
「話してくれ」美香が康夫の手を握った。「修一なら何とかしてくれる」
康夫は深いため息をついて、話し始めた。
「組織の名前は『龍神会』。関東一円で活動している指定暴力団だ」
「龍神会」修一はその名前を記憶した。「お前が関わった女性は?」
「組長の甥の愛人だった。三上という男の女だ」
康夫によれば、三上は組織の中でも特に危険な人物だった。違法薬物の密売、人身売買、組織への裏切り者の処理など、表に出せない仕事を一手に引き受けていた。
「その女性から何を聞いた?」
「薬物の流通ルート、警察への内通者のリスト、それから」康夫は声を潜めた。「殺人事件の隠蔽工作について」
修一は息を呑んだ。これは単なる借金問題ではない。康夫は組織の致命的な秘密を握っていたのだ。
「その情報は今どこに?」
「俺の頭の中だけだ。証拠になるものは何も残していない」
「なら、なぜ今も狙われている?」
康夫は苦しそうな表情を見せた。
「実は、その女性が殺された」
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康夫の告白に、部屋の空気が重くなった。
「殺された?」修一は声を潜めた。
「俺が逃げた後、一か月ほどして新聞で知った。事故死として処理されていたが、間違いなく口封じだ」
美香は顔を青くしていた。翔太は固くなった表情で康夫を見つめていた。
「それで、お前も狙われているということか」
「ああ。俺が生きている限り、組織にとって脅威だと思われている」
修一は状況を整理した。康夫が知る情報は確かに危険だが、物的証拠がない以上、警察に持ち込んでも立件は困難だろう。しかし、組織は康夫の存在自体を危険視している。
「兄さん、俺はもう諦めている」康夫は疲れ切った表情を見せた。「いつまでも逃げ回っているわけにはいかない」
「諦めるな」修一は強く言った。「必ず解決策はある」
その時、修一の頭にある考えが浮かんだ。危険な賭けだが、状況を根本的に変える可能性がある。
「康夫、お前の知っている情報を整理してくれ。すべて書き出すんだ」
「なぜ?」
「取引に使う」
美香と翔太は修一を見つめた。
「取引って?」美香が尋ねた。
「組織と直接交渉する」修一は決然と言った。「康夫の安全と引き換えに、情報を渡す」
康夫は驚いた。「正気か、兄さん? そんなことをしたら」
「殺されるかもしれない。でも、このまま逃げ続けても結果は同じだ」
修一の提案は確かに危険だった。しかし、他に選択肢はなかった。
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翌日、修一は単独で行動を開始した。
まず、龍神会の事務所の場所を調べた。インターネットで検索すると、表向きは建設会社として登録されていることが分かった。
次に、三上という人物について情報を集めた。地元の新聞記事やインターネットの情報から、三上が組織の中でも特に権力を持っていることが判明した。
そして午後、修一は決断を実行に移した。
龍神会の事務所に電話をかけたのだ。
「三上さんとお話がしたいのですが」修一は可能な限り冷静に話した。
「どちら様ですか?」電話の向こうの声は警戒していた。
「田中康夫の兄です。お話ししたいことがあります」
電話の向こうが静寂に包まれた。そして、数秒後。
「お待ちください」
五分後、別の男が電話に出た。
「三上だ。何の用だ?」声は低く、威圧的だった。
「弟の件でお話しがしたいのです。直接お会いできませんか?」
「面白いことを言う。場所は?」
修一は事前に考えていた場所を告げた。人通りの多い喫茶店だった。
「一時間後だ。一人で来い」
電話が切れた。修一は震える手でスマートフォンを置いた。
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約束の喫茶店で、修一は三上と対面した。
三上は50代前半の男で、一見すると普通のサラリーマンのように見えた。しかし、その目には冷酷さが宿っていた。
「で、何の用だ?」三上は単刀直入に尋ねた。
「弟の安全を保障してもらいたい」修一は準備してきた言葉を述べた。「その代わり、弟が知っている情報をすべてお渡しします」
三上は興味深そうに修一を見つめた。
「情報? 具体的には?」
「薬物の流通ルート、警察への内通者、それから殺人事件の隠蔽について」
三上の表情が変わった。明らかに動揺している。
「その情報は物的証拠があるのか?」
「ありません。しかし、弟の記憶は正確です」
三上は長い間考えていた。そして、口を開いた。
「面白い提案だ。しかし、条件がある」
「どのような?」
「情報を渡した後、お前の弟は完全に姿を消すことだ。二度と関東には戻ってこない」
修一は頷いた。それは予想していた条件だった。
「もう一つ」三上は冷たく笑った。「お前も同じだ。この取引に関わった以上、お前も危険な存在になった」
修一の血が凍った。自分も家族と離れなければならないということか。
「家族は?」
「知らん。それはお前の問題だ」
修一は絶望的な状況に追い込まれた。弟を救うために行動したが、今度は自分が犠牲になろうとしていた。
しかし、選択肢はなかった。
「分かりました」修一は覚悟を決めた。「条件を受け入れます」
## 第五章 家族の絆
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三上との取引を終えた修一は、家族に事実を告げることができずにいた。
康夫は救われるが、自分は家族と永久に別れなければならない。この現実を美香や翔太にどう説明すればいいのか。
その夜、修一は一人でリビングに座り、家族写真を見つめていた。翔太の成長、美香との思い出、そして康夫との子供時代。すべてが走馬灯のように蘇ってくる。
「お父さん」翔太が階段から降りてきた。「眠れないの?」
「ああ、少し考え事をしていた」
翔太は父の隣に座った。
「康夫叔父さんのこと?」
「そうだ」
「何か解決策は見つかった?」
修一は息子を見つめた。まだ高校生の翔太に、この重い現実を告げるべきかどうか迷った。
「翔太、もしお父さんがいなくなったら、お前は家族を守れるか?」
翔太は驚いた表情を見せた。
「いなくなるって、どういう意味?」
「仮の話だ」
「お父さんがいなくなったら、僕が家族を守る」翔太は真剣な表情で答えた。「でも、お父さんはどこにも行かないでしょ?」
修一は息子の手を握った。
「そうだな。どこにも行かない」
しかし、その言葉は嘘だった。
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翌朝、修一は美香に真実を告げることにした。
「康夫の件で、組織と直接交渉した」
美香は洗濯物を畳む手を止めた。
「交渉って?」
修一は三上との会話を詳しく説明した。康夫の安全は保障されるが、自分も家族と別れなければならないことを。
美香は青ざめていた。
「そんな、なぜ相談もなしに」
「他に方法がなかった」
「でも、あなたまで犠牲になることはない」
修一は妻を抱きしめた。
「康夫は俺の弟だ。責任がある」
美香は泣いていた。
「私たちはどうなるの?」
「お前と翔太は普通の生活を続けてくれ。俺のことは忘れて」
「忘れられるわけがない」
その時、玄関のドアが開く音がした。翔太が学校から帰ってきたのだ。
修一と美香は慌てて涙を拭いた。
「ただいま」翔太の声が響いた。
「お帰り」美香は努めて明るく答えた。
しかし、翔太は両親の表情を見て、何かを察したようだった。
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夕食の時間、修一は家族に別れの挨拶をするつもりでいた。しかし、言葉が出てこなかった。
「お父さん、元気ないね」翔太が心配そうに言った。
「仕事が忙しくて」修一は苦しい笑顔を作った。
「無理しちゃダメよ」美香も心配していた。
修一は家族の温かさを改めて感じていた。この人たちと別れなければならないという現実が、胸を締め付けた。
食事を終えた後、修一は書斎で手紙を書いた。美香への手紙、翔太への手紙、そして康夫への手紙。それぞれに、自分の気持ちを込めた。
午後十時、修一は最後の決断を下そうとしていた。
その時、玄関のドアベルが鳴った。
修一は警戒した。三上が迎えに来たのかもしれない。しかし、ドア越しに聞こえてきたのは、予想外の声だった。
「田中さん、警察です。緊急事態が発生しました」
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警察官は重大な事実を告げた。
「龍神会の幹部、三上が逮捕されました」
修一は驚いた。昨日会ったばかりの三上が、なぜ急に逮捕されたのか。
「容疑は何ですか?」
「殺人と薬物密売です。以前から内偵を続けていましたが、決定的な証拠が得られて緊急逮捕となりました」
警察官によれば、三上の逮捕により龍神会の組織は大混乱に陥っているという。そして、康夫を狙っていた理由も判明した。
「実は、田中康夫さんが知っていた情報の一部は、既に我々も把握していました。彼の証言があれば、組織の全容解明が可能になります」
修一は状況の変化に戸惑った。
「弟は証人として保護されるということですか?」
「はい。正式に証言していただければ、身の安全は完全に保障されます」
修一は安堵した。康夫は救われ、自分も家族と別れる必要がなくなった。
「弟はどこにいるか分かりますか?」
「実は、それで来たのです。田中康夫さんの居場所を教えていただけますか?」
修一は躊躇した。康夫の安全は本当に保障されるのか。しかし、他に選択肢はなかった。
「分かりました」修一は康夫の居場所を教えた。
一時間後、康夫は警察に保護された。そして翌日、正式に証人として証言を行い、龍神会の実態解明に大きく貢献した。
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事件から一週間後、田中家に平穏が戻った。
康夫は証人保護プログラムにより、新しい身元で生活を始めることになった。完全に安全というわけではないが、組織の壊滅により脅威は大幅に減少した。
「兄さん、本当にありがとう」康夫は修一に頭を下げた。「家族を危険にさらして申し訳なかった」
「気にするな。お前は俺の弟だ」
康夫は美香と翔太にも感謝の言葉を述べた。
「美香さん、翔太、君たちがいなければ俺は死んでいた」
美香は涙ぐんでいた。「元気でね、康夫さん」
翔太も目に涙を浮かべている。「叔父さん、また会えるよね?」
「いつか必ず」康夫は笑顔を見せた。
康夫が去った後、田中家の三人は静かに夕食を取った。
「これで本当に終わったのかな」翔太が呟いた。
「終わったよ」修一は息子の頭を撫でた。「もう隠し事はない」
美香は夫を見つめた。「ありがとう、修一。家族を守ってくれて」
「俺たちは家族だ。当然のことをしただけだ」
その夜、修一は二階の八畳間を訪れた。もう誰もいない部屋は、再び静寂に包まれていた。しかし、この部屋で起きた出来事は、家族の絆を深める貴重な経験だったと修一は思った。
秘密と嘘に支配された日々は終わった。これからは、真実と信頼に基づいた家族の生活が始まる。
## 終章 新しい朝
三か月後、田中家は以前よりも強い絆で結ばれていた。
康夫からは時々連絡があった。新しい生活にも慣れ、小さな町で静かに暮らしているという。身元は秘匿されているが、元気に過ごしていることが何よりの安心材料だった。
修一の会社での横領事件も解決し、職場の環境も改善された。同僚との関係も以前より良好になった。
美香は康夫を匿っていた時の緊張感から解放され、本来の明るさを取り戻していた。パートの仕事も順調で、家庭と仕事のバランスも良くなった。
翔太は家族の秘密を共有した経験により、より大人びた考え方を身につけていた。勉強にも身が入り、将来は法律を学びたいと言うようになった。
ある日の夕食時、翔太が口を開いた。
「あの時のこと、時々思い出すよ」
「どんなこと?」美香が尋ねた。
「康夫叔父さんが二階にいた時。最初は怖かったけど、話してみたら優しい人だった」
修一は息子を見つめた。
「怖かったのか?」
「うん。でも、家族だから守らなきゃって思った」
美香は翔太の手を握った。
「ありがとう、翔太。あなたも家族を守ってくれたのね」
修一は家族を見回した。
「俺たちは困難を乗り越えた。これからも何があっても、一緒に頑張ろう」
「うん」翔太が頷いた。
「約束よ」美香も微笑んだ。
その夜、修一は再び二階の八畳間を訪れた。今は完全に物置として使われている部屋だが、あの出来事を忘れることはないだろう。
家族の秘密は時として重い負担になる。しかし、それを共有し、乗り越えることで、家族の絆はより強固になる。修一はそう確信していた。
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。新しい季節の始まりを告げるように。
田中家の新しい朝は、秘密のない透明な光に包まれていた。