ガラ空き電車でループしたい
朝起きてすぐに俺はメールを見た。時刻は午前9時半。
新着メッセージはない。俺はすがるような思いで迷惑メールの方を開いた。
そこには1つ未読のメッセージがあった。俺は今までで一番慎重に、それをタップした。
ーーつきましては、初出勤の日程をーー
「ええっ!?」
はじめて見る文面に思わず声が出た。
なんと、自販機の補充のバイトに受かったのだ。
「ええっ!?」
俺と全く同じ音程で、水端さんは驚く。今日もリクルートスーツを着ている、アパートのお隣さんだ。
大学へ行こうと玄関を開けたとき、ちょうど階段を降りる水端さんを見かけ、思わず声をかけて報告したのだ。
「ほんと、冗談みたいなつもりで応募したんですけど、受かっちゃいました。」
立て続けにバイトに落ちていた俺は、もうどこも受からないような気になっていたので、この採用はまるで夢のようだった。
「夢、叶ってよかったですね。自販機でバイト。」
水端さんが愉快そうに、にこりと微笑んで言う。
「これからはバイト何してるか聞かれたら、自販機って答えます。」
水端さんはまたクスクスと笑った。俺の自販機ユーモアはかなりツボをついたみたいだ。
「でも先を越されちゃったな。私も就活頑張らないと。」
そんな雑談をしていたら最寄り駅に着いた。水端さんとは違う方面だったので、そこで別れた。
平凡な大学2年生の俺は、一人暮らし中の自宅から数駅の、平凡な大学に通っている。
本日、月曜日の時間割はというと、3限のみ。90分間ひたすら昔話研究者の老いぼれの話を聞く "古き文化を学ぶ" という非常に楽な授業だ。
しかしあまりに楽なので、この授業のためだけに大学へ行くのが少々気だるい。正直なところ、行かなくてもあまり支障をきたさないが、俺は割と電車に乗っている時間が好きなので、この授業は電車に乗るための用事と見なしている。
2分遅れで到着した電車の10号車に乗り込み、一番端の席に腰を下ろす。
なんと言っても、この時間の各駅はガラ空きなのが良い。特に10号車は人が少ない。
向かいの座席には、のほほんとした老夫婦。そこから数席空いたところには、眠る男子高校生。ドアの前で立っているのは、美人な読書家。
(平和だ……。)
かく言う俺も、バイトに受かって今日は朝から心穏やかだ。この柔らかい空間の一員として、恥じぬ雰囲気を纏えていることだろう。
2分の遅れを取り戻そうとするかのように、電車はすぐに発車した。
ちょうどいい速さで移り変わる窓の外の風景、老夫婦のささやくような話し声、美人の本にできる影ーー
(俺はそうだな…絵を描く男子大学生にでもなるか。)
そんなことを考えながら電車に揺られている、この時間が好きだ。ぼーっとすることが、電車では許される気がする。普段禁止されているわけではないけれど。
ぽつりぽつりと人が降りていき、それを補充するようにまた人が乗ってくる。
それでもこの車両の平和さは揺らがなかった。一つ前の駅ではベビーカーに子供を乗せた母親まで乗ってきて、いよいよこの車両の幸せレベルは頂点に達したように感じた。いつまでも揺られていたい。
そんな幸せな空間に水を差すかのように、聞き馴染んだアナウンスが流れた。
「次はー、匙加減大学前ー。 匙加減大学前ー。」
その瞬間俺は電光画面を睨みつけた。俺は、俺が思っている以上にこの幸せ空間に浸っていたみたいだ。
降りたくない。ひたすらにそう思った。
今俺が抱えている天秤は、 "大学でほぼ意味のない授業を受けること" と "幸せな空間に滞在すること"
ここで降りて、ちゃんと授業を受ける。これは果たしてユーモラスな選択だろうか。否、つまらない。
俺は自分のポリシーに従い、はじめて匙加減大学前駅を乗り過ごした。少しの罪悪感と、未知の背徳感と、全てを包み込むこの車両の安心感を味わいながら、俺はより深く座席にもたれる。
数分後のことだった。スマホにピロピロと通知が来る。大学の友達からだった。
いぶかしげに内容に目を落とし、その直後目を見開いた。
ーーえ、休み?もしかして寝てる?
ーー今日小テスト
ーーもうはじまるけど
さまざまな思考が頭を駆け巡る。今は匙加減大学前駅から2駅先の駅を出発したところだった。しかし、間に合うか間に合わないかは問題じゃない。俺が何を望むかだ。
ーー忘れてたありがとう
ーーでも今は降りたくないんだ
ーーガラ空き電車でループしたいんだ
こうして俺はこの車両の一員 "サボる大学生" として無事路線一周を果たしたのだった。






