第六章
闇がすべてを包むとき、ほんとうに目立つのは「顔」だった。
声は消える。名前は風化する。
けれど人の脳は、顔の輪郭を最も長く記憶に残す。
だから彼らは「顔」から生まれた。
そして「顔」に戻っていった。
E棟、観察室の記録装置が沈黙したのは、夜が明ける直前だった。
機械の呼吸が止まり、赤い録画ランプが点滅をやめる。
まるで“記録すること”そのものが疲れ果てたように。
モニターの前に立つのは、誰だったか。
白衣の袖をたくし上げ、画面に映る自分と向き合うその男──
“東雲”と呼ばれていた彼は、もうそこにいなかった。
顔はある。
声もある。
しかし、“誰の記憶にも一致しない存在”になっていた。
人格という名のファイルは空白。
けれど、表情だけが“生きた記録”として再現されている。
静かに、彼は録画のスイッチを切った。
その瞬間、すべての“観察対象者”たちの映像が崩れ始める。
顔が、ノイズのようにズレていき、笑い、泣き、怒り──やがて何者でもなくなる。
残された記録用紙には、誰かの手書きの走り書きがあった。
「これは自画像ではない。“あなたの顔”のようなものだ」
そう書かれていた。
⸻
二週間後。
旧E棟地下の記録室は「安全上の理由」により閉鎖された。
報道には一切出ない。
関係者は全員、口を閉じる。
だが、確かにそこで“何か”があった。
関係者のひとり、佐久間は今でも夢を見るという。
目を開けたまま、誰かの顔を。
自分に似ている。だが、自分ではない“誰か”を。
「顔が、顔を見ていた気がするんです。まるで、鏡の中の誰かが……
私を、覚えようとしてるみたいに」
⸻
この物語には、犯人はいない。
犠牲者もいない。
ただ、“記録”だけがあった。
そして記録されたものは、人間の輪郭だった。
誰かの夢に出てくるような顔。
誰かの記憶の奥底に眠る声。
すべてが不明確で、けれど確かに存在した──
そして今、あなたがこの物語を読み終えたとき。
ふと鏡を覗いたその一瞬。
もし、ほんの少しだけ……
あなたの顔が「誰かに似ている」と感じたのなら──
それは、きっと“記録”がまだ続いている証拠なのかもしれない。