第四章
朝が、来ない。
いや、正確には“病院の外には朝がある”のだろう。ただ、地下E棟のこの場所には、永遠に届かない。
まるでここだけが、時間の外側に封じられた“夢の残滓”であるかのように。
廊下の灯りはひとつ、またひとつと消えていく。
それは節電でも、老朽化でもなく──意志のようなものだ。
まるでこの病棟が、目を閉じて眠ろうとしている。
その沈黙の中を、“東雲”は歩いていた。
歩く姿勢は正しく、白衣もよく馴染んでいる。
けれど、その足取りには奇妙な“無重力感”があった。
床を踏む音が、どこかズレて響く。
──まるで、この体が“地面に本当に存在していない”かのような。
彼は、すでに“人格としての東雲”を喪っていた。
だが外見は、見紛うことなく“それ”だった。
記録の中でだけ定着した幽霊。
モニターが映した顔、それを真似て生まれた模倣体。
彼は、そうして生まれた──記憶に棲む残響。
「……戸田先生のカルテ、また書き換えがあったんですか?」
廊下の先から、ナースがひとり歩いてきた。
彼女の名は佐久間。新人だ。
東雲の顔を見るなり、彼女は一瞬だけ眉を寄せる。
何かに気づいたのだ。
だが言葉にはしない。
「……ええ。少し、補足がね。夜中にごめんなさい」
“東雲”は穏やかに微笑む。
その笑みは完璧だ。むしろ、本物の東雲よりも優しげかもしれない。
佐久間はペコリと頭を下げ、通り過ぎていく。
彼女が背を向けた瞬間、“東雲”の目の色が一瞬だけ変わった。
──そこには“観察”の光があった。
彼女を“記録の素材”としてスキャンするような視線。
「あと三日……」
小さく呟いたその言葉には、意味はなかった。
だが、それはまるで“プログラムが再生された音声”のようだった。
⸻
翌朝、E棟には異変が起こる。
看護師の佐久間が、誰にも理由を告げぬまま、退職願を出したのだ。
理由は「体調不良による不安感」。
彼女はそれ以上、何も語らなかった。
が、彼女のロッカーの中からは──一枚のコピー紙が見つかる。
それは、柊遥の残した観察記録の一部と酷似していた。
文字は奇妙に歪んでおり、一部がにじんで読めない。
ただ、最後の行だけがはっきりと残っている。
“あの人の顔が、私と同じ顔になっていく。”
⸻
深夜2時、地下室E-07。
モニターがまた、ひとつの映像を再生していた。
そこには、“別の人物”が座っていた。
顔はまだ曖昧。だが、表情は確かに形を持っている。
[新規観察対象Y-015:同期開始]
システムは夢を見ている。
夢は誰かの記憶を食べる。
食べた記憶から、**“人間の形”**を複製する。
「人間は“顔”で信じてしまうんだよね」
その声は、東雲のものではなかった。
だが、口元の笑い方だけが、異様に“彼に似て”いた。
病院の地下は、誰にも知られず“人間”を作り続ける。
モニターの中でだけ息をして、声を持ち、記憶を得た仮の人格たちが──
今日も、“誰かの顔”を真似て外へ歩き出していく。
それがこの物語の終わりであり、
**“誰かの人生の、始まり”**でもあった。