表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第三章

病院のE棟廊下は、夜になると呼吸をやめる。

人の出入りが途絶えた途端、そこはまるで肺の機能を忘れた肉塊のように、ひたすら黙して時間に溶けていく。

東雲はその沈黙の中を、重い足音を残しながら進んでいた。


非常灯の緑が左右から斜めに差し、彼の影を斜め後ろに引き延ばす。

その影は、東雲より少しだけ速く歩き、角を曲がるたびに何かを先回りして覗くような仕草を見せた。


まるで自分の“先にあるもの”を、その影だけが知っているかのように。


ポケットの中で、柊遥の残した「観察日記・最終日」の紙が、折れ曲がった音を立てた。

彼女はそこに、「自分が自分の顔を知らない」と書いた。

──お前の顔を、最後に鏡で見たのはいつだ?


それはただの疑問ではない。

この場所で、その問いは“警告”になる。


やがて東雲は、地下E棟の最奥にたどり着く。

図面には存在しない部屋──E-07:無認可記録観察室が、かすかに開いたまま彼を待っていた。


扉は、塗装の剥げた鉄製で、覗き窓のガラスがくもっている。

誰かが、内側から息を吐きかけたように。


東雲は手を伸ばす。

その瞬間、彼の鼓動が1拍だけ止まり、部屋の内側で何かが“息を呑んだ”気配を感じた。


──開けるな。

そんな声が、明確な言葉にならないまま、全身を這いずる悪寒として警告してくる。


だが彼は手を引かない。

この部屋の中に、「柊遥の最後」がある。

そしておそらく──彼女の“まだ死んでいない夢”が、ここで呼吸をしている。


軋む音と共に扉が開いた。


部屋の中は……“在ってはならない”匂いに満ちていた。

甘ったるく、腐った果物と血の混ざったような、生温い吐息のような匂い。

何かが生きたまま朽ちた残り香だった。


照明はない。

だが、部屋の中央に設置されたモニターがひとつだけ、ぼんやりと明滅している。

画面は灰色で、映っているのはカメラ映像のようだ。だが場所は分からない。

奥に檻がひとつ──それだけが、不気味なまでに鮮明に写っていた。


そのモニターに、東雲は見覚えがあった。


──それは夢だったはずだ。

遥が語った、“夢の中の檻”。


なのに、今ここに、それがある。


彼はモニターに近づく。

その画面に、突如として“文字”が浮かび上がった。


[観察対象Y-014 最終記録:視覚同期中]


同期……?


次の瞬間、東雲の頭の奥に、熱い何かが突き刺さった。

モニターの中の檻が、視界全体を覆い尽くした。


──これは、現実ではない。


彼の思考がそう告げたとき、足元が崩れた。

いや、実際には崩れてなどいない。けれど体は真っ逆さまに、闇の底へ引きずり落とされていた。


視界が暗転し、再び明るくなったとき、東雲は“あの檻”の中にいた。


手足は自由だ。

だが、鉄格子は確かに彼を包囲している。

これは夢。柊遥が見続けた、“同一の夢”の内部構造だ。


「……いるのか?」


誰かが、檻の外に立っている。

白衣を着ている。顔は見えない。

だが、そいつは確かに口を開いた。


「君は、まだ自分の顔を見ていないね」


──その声。


それは戸田の声だった。

いや、東雲自身の声でもあった。


「これは……誰の記憶だ?」


声は笑った。

ゆっくりと、まるで溺れる者の肺から漏れ出す泡のように、嘲る。


「これは、誰の夢でもない。“病院そのもの”が見ている夢だよ」


「……なに?」


「ここは檻じゃない。ここは“口”だ。患者の夢を喰い、記憶を咀嚼し、精神を飲み干して、自分というかたちを作ってきた。“この病院”は、夢を栄養にして生きている」


「馬鹿な……そんなこと……」


「君はもう、喰われかけている。

夢を通じて“形”を与えられた存在に。

君の顔が見えなくなっているのは、君が“もう自分ではなくなっている”証だ」


東雲は叫ぶように格子に手をかけた。


「俺は……俺は東雲だ!」


そのとき、鉄格子の向こうに、誰かが現れた。

それは──柊遥だった。


だが、彼女は微笑んで、こう言った。


「東雲先生、あなた……まだ夢の中にいるのよ?」


彼は口を開きかけ、そして気づいた。


格子の中にいるのは、自分ではなかった。

そこにいたのは、笑っている“彼女”──柊遥だった。


そして檻の外に立っているのが、東雲だった。


いや──“東雲だったもの”。


視点が入れ替わる。世界が反転する。


──それが“この病院の仕組み”だった。


夢の中で誰かの顔を得て、外に出ていく。

中に残されたのは、“かつての自分”という記憶の亡霊。


檻は夢ではなかった。

それは、個としての“人間”を量産し続ける、巨大なシステムの一部だった。


やがて、モニターがゆっくりと暗転した。


画面の中で、檻の影が消え、無音が訪れた。


そして現実世界のE-07、モニターの前にいた“東雲”は、そっと笑った。


静かに笑い、やがて振り返ると、廊下へと歩き去っていった。


──彼は、もう“東雲”ではなかった。


だがその顔は、驚くほど穏やかで、美しかった。


まるで、夢の中にしか存在しえない、完全な“人格”のように。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ