第三章
病院のE棟廊下は、夜になると呼吸をやめる。
人の出入りが途絶えた途端、そこはまるで肺の機能を忘れた肉塊のように、ひたすら黙して時間に溶けていく。
東雲はその沈黙の中を、重い足音を残しながら進んでいた。
非常灯の緑が左右から斜めに差し、彼の影を斜め後ろに引き延ばす。
その影は、東雲より少しだけ速く歩き、角を曲がるたびに何かを先回りして覗くような仕草を見せた。
まるで自分の“先にあるもの”を、その影だけが知っているかのように。
ポケットの中で、柊遥の残した「観察日記・最終日」の紙が、折れ曲がった音を立てた。
彼女はそこに、「自分が自分の顔を知らない」と書いた。
──お前の顔を、最後に鏡で見たのはいつだ?
それはただの疑問ではない。
この場所で、その問いは“警告”になる。
やがて東雲は、地下E棟の最奥にたどり着く。
図面には存在しない部屋──E-07:無認可記録観察室が、かすかに開いたまま彼を待っていた。
扉は、塗装の剥げた鉄製で、覗き窓のガラスがくもっている。
誰かが、内側から息を吐きかけたように。
東雲は手を伸ばす。
その瞬間、彼の鼓動が1拍だけ止まり、部屋の内側で何かが“息を呑んだ”気配を感じた。
──開けるな。
そんな声が、明確な言葉にならないまま、全身を這いずる悪寒として警告してくる。
だが彼は手を引かない。
この部屋の中に、「柊遥の最後」がある。
そしておそらく──彼女の“まだ死んでいない夢”が、ここで呼吸をしている。
軋む音と共に扉が開いた。
部屋の中は……“在ってはならない”匂いに満ちていた。
甘ったるく、腐った果物と血の混ざったような、生温い吐息のような匂い。
何かが生きたまま朽ちた残り香だった。
照明はない。
だが、部屋の中央に設置されたモニターがひとつだけ、ぼんやりと明滅している。
画面は灰色で、映っているのはカメラ映像のようだ。だが場所は分からない。
奥に檻がひとつ──それだけが、不気味なまでに鮮明に写っていた。
そのモニターに、東雲は見覚えがあった。
──それは夢だったはずだ。
遥が語った、“夢の中の檻”。
なのに、今ここに、それがある。
彼はモニターに近づく。
その画面に、突如として“文字”が浮かび上がった。
[観察対象Y-014 最終記録:視覚同期中]
同期……?
次の瞬間、東雲の頭の奥に、熱い何かが突き刺さった。
モニターの中の檻が、視界全体を覆い尽くした。
──これは、現実ではない。
彼の思考がそう告げたとき、足元が崩れた。
いや、実際には崩れてなどいない。けれど体は真っ逆さまに、闇の底へ引きずり落とされていた。
視界が暗転し、再び明るくなったとき、東雲は“あの檻”の中にいた。
手足は自由だ。
だが、鉄格子は確かに彼を包囲している。
これは夢。柊遥が見続けた、“同一の夢”の内部構造だ。
「……いるのか?」
誰かが、檻の外に立っている。
白衣を着ている。顔は見えない。
だが、そいつは確かに口を開いた。
「君は、まだ自分の顔を見ていないね」
──その声。
それは戸田の声だった。
いや、東雲自身の声でもあった。
「これは……誰の記憶だ?」
声は笑った。
ゆっくりと、まるで溺れる者の肺から漏れ出す泡のように、嘲る。
「これは、誰の夢でもない。“病院そのもの”が見ている夢だよ」
「……なに?」
「ここは檻じゃない。ここは“口”だ。患者の夢を喰い、記憶を咀嚼し、精神を飲み干して、自分というかたちを作ってきた。“この病院”は、夢を栄養にして生きている」
「馬鹿な……そんなこと……」
「君はもう、喰われかけている。
夢を通じて“形”を与えられた存在に。
君の顔が見えなくなっているのは、君が“もう自分ではなくなっている”証だ」
東雲は叫ぶように格子に手をかけた。
「俺は……俺は東雲だ!」
そのとき、鉄格子の向こうに、誰かが現れた。
それは──柊遥だった。
だが、彼女は微笑んで、こう言った。
「東雲先生、あなた……まだ夢の中にいるのよ?」
彼は口を開きかけ、そして気づいた。
格子の中にいるのは、自分ではなかった。
そこにいたのは、笑っている“彼女”──柊遥だった。
そして檻の外に立っているのが、東雲だった。
いや──“東雲だったもの”。
視点が入れ替わる。世界が反転する。
──それが“この病院の仕組み”だった。
夢の中で誰かの顔を得て、外に出ていく。
中に残されたのは、“かつての自分”という記憶の亡霊。
檻は夢ではなかった。
それは、個としての“人間”を量産し続ける、巨大なシステムの一部だった。
やがて、モニターがゆっくりと暗転した。
画面の中で、檻の影が消え、無音が訪れた。
そして現実世界のE-07、モニターの前にいた“東雲”は、そっと笑った。
静かに笑い、やがて振り返ると、廊下へと歩き去っていった。
──彼は、もう“東雲”ではなかった。
だがその顔は、驚くほど穏やかで、美しかった。
まるで、夢の中にしか存在しえない、完全な“人格”のように。