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第二章

病院の地下は、まるで時間に忘れられた内臓だった。

上階では白い照明と消毒薬の匂いが、あたかもここが「正常な世界」であるかのように装っていたが、一段下りるごとに、空気は黴と沈黙を孕んで変質していった。


階段を降りきると、微かに鳴っていた蛍光灯が唐突に沈黙した。

代わりに、頭上の非常灯がぼんやりと灯り、淡い緑がコンクリート壁に斑状の影を作る。


壁面には古い掲示板が掛かっていた。

色あせた紙に書かれた“避難経路”はところどころ剥がれ、今やそれ自身が「迷路」と化していた。


案内役の戸田は、古びたバインダーを抱えながら、まるで儀式でも執り行うかのように、ゆっくりとした歩調で歩を進めた。


「この地下には、“病歴の眠る部屋”があります。正式名称は『記録保管室E棟』ですが、職員の間では“夢の骨室”と呼ばれている」


「骨、ね」


東雲は、その言葉の選び方に引っかかった。

骨とは、すでに肉も皮も剥がれ落ちた“最終的なかたち”だ。

それは記録として残された真実であり、同時に、埋もれるための墓標でもある。


鉄扉の前で戸田が立ち止まる。

ドアには錆が浮かび、表面には数字の焼印があった。


『ROOM 13』


その数字を見たとき、東雲の記憶がわずかにざわめいた。

13──忌み数。

不吉の象徴。

だが、本当の不吉とは「予兆」ではない。「確定」された死の予告状だ。


戸田がキィ、と扉を開いた。


中は、想像以上に狭かった。

縦に伸びた書架がびっしりと並び、その間を通るには肩を縮めねばならない。

壁は断熱材が剥き出しで、空気の流れもなく、まるで地下墓地のようだった。


「この部屋には、過去20年間の“消えた患者”に関する全記録があります。看護記録、医師の所見、投薬歴、そして──夢の報告書」


「夢の、報告書?」


「そう。ここでは、患者が繰り返し見る夢の内容を“観察対象”として記録するのです。精神疾患は夢の中にヒントがある、とされていてね」


戸田が一冊、分厚いファイルを引き抜く。

表紙には赤いインクで手書きのようにこう書かれていた。


【観測対象:Y-014/通称ユリ】


彼女の夢は、規則性を持ち、そして何かを“警告”していた。

記録の冒頭にはこうある。



《観察開始:2022年11月5日》


■夢記録①:

鉄の檻に入れられている。部屋の外には誰かがいるが、顔がない。声だけがする。「君の夢を喰わせてくれ」と言われる。


■夢記録②:

同じ檻の中。今度は床に黒い染みがある。匂いがする。腐った花のような匂い。壁に爪痕がついている。


■夢記録③:

檻の外の「誰か」は、時々形を変える。看護師の柊、医師の神無月、そして……見たことのない“わたし自身”。



東雲は言葉を失った。

これは単なる幻覚の記録ではない。“自己”と“他者”の境界が、夢の中で侵食されていく過程だ。


「ユリは、夢の中で“自分が喰われている”と気づいた最初の患者です」

戸田が呟く。

「夢に侵される者は、最後には自己を失う。“夢を喰う者”の顔を、自分自身と見間違えるようになるんです」


──境界線の崩壊。


“精神の崩壊”とは、単に現実が歪むことではない。

“自分”が“誰か”に侵され、自分ではないものに変質していくこと。


東雲は気づいた。

この病院には「狂っていく者」がいるのではない。

「狂わせていく何か」が、確かに存在しているのだ。


「この記録……柊遥も見たのか?」


「ええ。そして彼女は“ある部屋”に入ってしまった。Y-014が繰り返し夢に見た、“鉄の檻”の部屋にね」


戸田が懐から、もう一枚の紙を取り出す。

そこには、病院の見取り図が描かれていた。だが、印刷された図面に、ボールペンで追加された“手書きの扉”がある。


図面には存在しない部屋。

現実にない、はずの部屋。


『E-07:無認可記録観察室』


「存在しない部屋が、夢の中にしかないはずの部屋が……この病院のどこかに、あるということか」


「あるんですよ、現実にも。あなたが今感じている不快感や違和感は、それを“探知”しているからだ。あなたももう、境界の内側に足を踏み入れてしまった」


沈黙の中で、東雲は自分の鼓動がやけに大きく響くのを感じた。

重たいコートの襟を立てても、背筋に這い上がる冷気は止められなかった。


ふと、棚の隙間に目をやると、そこにぽつんと置かれた一冊のノートが目に留まった。


──柊遥の字だった。


それは彼女が最後に綴った「夢の観察日記」の続きだった。



『観察日記・最終日』


今日、ユリは檻の中でわたしを見た。わたしの顔をしていたと言った。

わたしが笑っていたらしい。「食べてあげる」と。


わたしは笑ってなどいない。でも──


わたしが夢を見た。

檻の中で、誰かがわたしを見ている。

壁の向こうから、声がする。

「君は、まだ自分の顔を見ていないね」



東雲は、立ち尽くした。

彼は今、自分の顔がどんな表情をしているのか分からなかった。


夢は、すでに始まっている。

そしてそれは、目覚めることを許さない種類のものだった。

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