第一章
真実を追う彼の周囲でも、人がひとりずつ消えていく。
それは夢なのか、記憶なのか、それとも──現実か。
最初にその噂を耳にしたのは、深夜のコンビニだった。
缶コーヒーを温めていると、若いバイトが誰に言うでもなくぽつりとつぶやいた。
「──あそこ、夢を喰うんですよ」
「……は?」
東雲浩一は、振り向いて訊き返した。
バイトの青年ははっとしたように首をすくめ、「あ、いや」と取り繕う。
「すみません、なんでもないです……ただ、あの病院、変な噂が多くて。夜勤の間にちょっとネットで……」
「“あの病院”って、白鷺精神医療センターのことか?」
「……はい」
東雲は会計を済ませ、缶コーヒーを持って外に出た。
秋の風が肌に冷たく、コーヒーの熱が余計に指に沁みた。
──白鷺精神医療センター。
市街地から離れた山間にぽつんと建つ古い病院。
電車は通っておらず、バスも1日3本しかない。
かつて、ある看護師がここで失踪した。
名前は、柊 遥。
彼女は東雲のかつての教え子だった。警察官志望だったが、事情があって道を変え、医療の道へと進んだ。
彼女が消えたのは三ヶ月前。
遺書もなく、荷物も部屋に残されたまま。
ただ一冊、手書きのノートだけが、ロッカーに置かれていた。
そのノートには、こう記されていた。
『夢の記録』
ユリ:檻の夢。冷たい鉄。誰かが外から覗いている。
野中:毎晩、同じ部屋で首を吊る夢。6月12日に死ぬと言っていた。
私:だんだん夢が重くなる。あの部屋に、何かいる。
東雲はそのノートを、今もバッグに忍ばせている。
警察はすでに捜査を打ち切った。自発的な失踪の可能性が高いとされた。
だが東雲にはどうしても引っかかるものがあった。
彼女の文字は、最後のページだけが震えていた。
それは恐怖か、焦燥か、それとも……何かを見た直後の筆跡だった。
彼女は、消えたのではない。
──“喰われた”のではないか?
東雲は、白鷺病院へ向かう決意をした。
⸻
病院の門は、無駄に重厚だった。
白く塗られた鉄柵が軋む音は、夜の風に溶けていく。
建物は古く、だが手入れはされているようだった。
中庭には落葉が積もり、外灯の影が不気味なシルエットを落としていた。
東雲が訪れたのは日中だったが、病院の空気はどこか夜のように暗かった。
受付で身分を告げると、女性事務員が小さくうなずき、無言で奥に消えていった。
しばらくして、白衣の男が現れる。年配の細身の人物──院長、神無月 光一郎だった。
「……柊遥さんの件ですか。お気の毒でした」
「彼女が消える直前まで担当していた患者について、お話を伺いたい。名前は……ユリ、だったか」
神無月は微かに眉をひそめる。
「……ユリさん。現在も入院中です。彼女に会ってどうするおつもりですか?」
「ただ話が聞きたい。彼女の記録に、“夢”の話が出ていた」
沈黙。
数秒後、神無月はため息をついて首を振った。
「患者の状態は不安定です。面会は……許可できません」
「では、彼女の記録だけでも。カルテや看護記録が見たい」
神無月の目が細くなった。まるで猫のように、敵か味方かを見定めるような視線。
「あなたは警察ではないのですよね? 元、とはいえ。個人の嗜好で医療情報を開示するわけにはいきません」
「嗜好、ね」
東雲は笑った。だが、声は冷えていた。
「柊遥は、ただの失踪者かもしれない。でも、彼女は最期に“誰かが夢を喰っている”と感じていた。あんたらの病院でだ」
神無月は何も言わなかった。
だが、その目に、ほんのわずか──笑みが浮かんだように見えた。
「……それは興味深い。では、あなたに紹介しましょう。**“記録係”の戸田という男がいます。彼なら、何か知っているかもしれません」
⸻
戸田。
白鷺病院の地下資料室に常駐する男。
公式の職員名簿にはその名はない。
東雲が案内されたのは、地階のさらに奥にある資料庫だった。
薄暗い電灯が吊られた狭い空間に、紙の匂いとカビの気配が漂っていた。
そこに、古い眼鏡をかけた中年の男がいた。
目は虚ろで、だが声ははっきりしていた。
「……柊遥のこと、ですね。彼女は“夢”に近づきすぎたんです」
東雲は眉をひそめた。
「近づくって、どういう意味だ」
「この病院には、“夢を喰う部屋”があるんです。正確には、夢の記録だけが残る部屋。……そこに触れた人間は、消えるんです。夢と共に」
戸田は背後の棚から、一冊のファイルを取り出した。
黄ばんだ表紙に、こう記されていた。
『消失患者リスト/2009-2023』
その中には、失踪者の記録が並んでいた。
入院歴、症状、最終記録……そして全員、**“夢についての言及”**が最後に残されていた。
東雲は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
夢の中で、人は何かを視る。
それは未来か、それとも他人の記憶か。
あるいは──喰われた者たちの、最後の叫びなのか。
戸田は言った。
「柊遥は、あの部屋に入ったんです。ユリの夢を記録しようとして。……だから、もう戻れない」
東雲は口を開いた。
「その部屋に、俺を案内してくれ」
戸田は、しばらく黙ったあと、こう言った。
「……やめておいたほうがいい。“あなた”の記憶まで、喰われる」