107 クラウス語入門 杖が壊れる日
「うーん、やってみた方が分かりやすいか?」
クラウスは、普段のレオナルドとの訓練を思い返した。
レオナルドはいつも「やって見せろ」と言う。
だから、見た方が分かりやすいのかもしれない。
「いいのか?」
「おう。ただ、俺は詠唱が苦手だからコックスみたいにはできないんだけど……」
「詠唱が苦手って……。いや、クラウスがやりやすいようで構わない」
『普通は詠唱や術陣なしでは魔術は発動しない』
――その常識を、コックスは黙って飲み込んだ。
クラウスが常識で測れない存在であることなど、今更だからだ。
「杖はこれでいいか?」
自分がそのまま連れてきてしまったため、クラウスは杖を持っていない。
コックスはそう考え、自分の杖を差し出した。
「いや、杖も壊すといけないから」
杖を壊すって、なんだ。
コックスは思考を止めた。
教えを乞うているはずが、“分からない”だけが増えていく。
「杖って壊れるのか?」
ケイランが不思議そうに尋ねる。
『そんなこと知らなかった』と書いてある顔に、コックスは『俺も、杖が壊れるなんて知らなかったよ』と心の中で返した。
「壊れる。レオナルドも壊れるって言ってた」
「レオナルドも!?」
コックスは思わず声を上げた。
クラウスならまだしも、レオナルドまで杖を壊すのか――と。
そういえば、この二人が杖を使っているところを見たことがない。
訓練で木剣をぽきぽき折っているのと同じように、杖も壊しているのか?
コックスは、戦慄した。
杖とは、魔術を展開するための媒介である。
それ自体に、剣やその他の武器のように衝撃を与えることはない。
なのに何故壊れるのか。
この二人は、自分とは違う世界を生きているのだろうか。
コックスはゴクリと唾を飲んだ。
――もちろん、レオナルドは断じて、杖をしょっちゅう壊してなどいない。
クラウスとの会話の中で「お前の出力じゃ杖が壊れるのも仕方ないかもな」と言っただけだ。
彼はその後自ら実験をして、「品質の劣る杖は、魔力を多く込めて連発すると確かに壊れる」と結論づけた。
しかし、それだけだ。
「壊すことも壊れることもあり得る」
あくまで、それだけ。
そしてレオナルドが、彼の格に合う上質な杖を壊すことはない。
彼が杖を使わないのは単純に、「杖がなくても魔術を使える自分が、あえて杖を持ち歩き、戦闘中に取り出すのは合理的ではない」と判断したからである。
「へぇ……壊れるのか……」
真剣な顔で聞くケイランに、コックスは一般常識を補足した。
「基本的には壊れない。剣だって、手入れを怠ったり、無理をしなければ、劣化はしても急に折れないだろ。それと同じだ」
「……あぁ、なるほど」
クラウスはキョトンとしたが、ケイランは納得した。
やはりクラウスとレオナルドは特別なのだな、と。
「とりあえず、クラウスが杖も詠唱も使わないのは分かった。それで……見せてもらってもいいか?」
コックスは、もはや「きっと分からないだろうな」と半ば諦めながらもそう言った。
「分かった。こうやって――手元をギュッとするんじゃなくて、シュッと向こうにやった方がいい」
腕の曲げ伸ばしとともに放たれた〈氷刃〉は、「ギュッと」なのか「シュッと」なのか。
コックスには、まったく判別がつかない。
ただひとつだけ諦念が浮かんだ。
「無詠唱どころか、話しながらでも魔術を放てるのか」と。
「クラウス、今のは“ギュッと”か? それとも“シュッと”か?」
踏み込んでくれたケイランに、コックスはもう何度目か分からない感謝をする。
「今のは“シュッと”だな。そうすると“スゥッと”なる。“ギュッと”はこんな感じだ」
クラウスがもう一度腕を曲げ伸ばしする。
たしかに、“シュッと”やった“スゥッと”の方が自分の理想に近い気がする。
ただ、どこが違うかと言われると――分からない。
コックスが眉間に皺を寄せて考え込んでいると、クラウスが言った。
「もう一回やるか?」
レオナルドとの訓練で、彼はいつも「もう一回やれ」と言う。
だから、そうするのが当然だと思っているのだ。
「……あぁ、頼む」
クラウスは、魔力量の心配をする必要なんかないんだなぁ。
コックスの心は、どんどん遠くなっていった。
次回のタイトルは、「翻訳の第一人者」です。




