106 クラウス語入門 逃げられない善意
レオナルド、早く貴族学院から帰ってきてくれ……。
レオナルドでもたまにクラウスの言うことが分からない。
そんな事実を知らないコックスは、そうやって祈り始めた。
「クラウスとコックス! 何やってるんだ? 体術の訓練か?」
ケイランだ。
コックスには、救いの声に聞こえた。
だがしかし。
「魔術の訓練をしてるんだ」
にこにことクラウスが答えると、ケイランは少し残念そうな顔をした。
「それじゃ俺は混ざれないな」
それはそうだ。
平民のケイランは、魔術の訓練に混ざれない。
しかしコックスは、このままここで一人やり遂げられるとは思わなかった。
「いや、ケイランも残ってくれ。……俺たちは、もっと分かり合うべきだと思うんだ」
コックスはとにかく口を開いた。
ええいままよと舌を動かす。
「軍において魔術は“貴族のもの”じゃない。“隊が管理する武器”であるべきだ。個人ではなく、部隊での運用。けど平民は魔術に詳しくない。それじゃ困る……だろ?」
言ってみれば悪くない理屈だ――完全にでまかせではあるが。
ケイランは「そうかもな」と頷いた。
「この前の行軍訓練、俺は副班長だった。全体を見なきゃいけない立場だ。けど途中、隊の一部が疲れてるのには気付いたんだが、その理由が掴めなくて……。ダリオが『魔力の消費が大きい』って言ってくれなきゃ、崩れてたかもしれない」
真剣に話すケイランを前に、コックスは少し胸が痛んだ。
――こんな真面目でいいやつを、俺はこれから混乱に巻き込もうとしている。
けれどもう、止まれない。
「だろ? だから使えるとか使えないとか関係なく、訓練を覗いていってもいいんじゃないか?」
「そうだな。……クラウス、俺も混ざっていいか?」
「おう! つっても、今日はコックスの訓練に付き合うだけで、特に面白いことはしないぞ?」
――十分、面白いことになってる。
コックスは、そう思った。
「構わない。むしろそういう普段の感じが見たいんだ」
悪い、ケイラン。
“普段”はこんな感じの訓練はしない。
罪悪感を覚えつつも、コックスは「だよなぁ」と返した。
「で、どんなことをしてるんだ?」
ケイランの問いに、コックスが答える。
「それこそ行軍訓練でさ、俺とクラウスは同じ班だっただろ? それで、そのときの戦闘を見ての助言がほしいって頼んだんだ」
クラウスも「おう」と頷いた。
「へぇ。ちなみにどんな助言なんだ?」
もしかすると、クラウスとよく話すケイランなら、クラウス語が分かるかもしれない。
コックスは、魔術の使えないケイランに、そんな淡い希望を託した。
けれどその望みは、一瞬で砕けた。
「コックスはグゥッて魔術を使ってたんだ。それも悪くないけど、俺は、もっとスゥッとしてもいいんじゃないかって」
「……ん?」
ケイランの反応は、先ほどのコックスと寸分違わなかった。
「悪い、俺は魔術が使えないから分かんないんだが……それってつまり、どういうことだ?」
ケイラン、ありがとう。
まだクラウスと“仲が良い”とは言えない自分には、あれ以上踏み込めなかった。
「何言ってるのか分からん」とは言えなかった。
だが、クラウスと親しく、かつ魔術への知識が浅いケイランならば――もしかして突破口を開いてくれるかもしれない。
そう考えていたコックスは、ケイランに深く感謝した。
「どうって……こう、グゥッとじゃなくスゥッとだな」
クラウスは、例の動きを繰り返す。
ケイランの表情はみるみる曇っていった。
「全然分かんないな……やっぱ俺、邪魔になるよな」
「そんなことない」
ケイランがその場を離れようとした瞬間、コックスは手首を掴んだ。
――決して逃がさない。
コックスの手の力が、そう語っていた。
そしてケイランは悟った。
コイツ、クラウスの言ってることが分からないけど、それを指摘できないから俺を巻き込んだな。
『ハメられた』
ケイランがそう悟ったときには、もう遅い。
「俺は全然気にしないぞ」
彼が逃げようとする前に、クラウスがそう言った。
善意しかこもっていない瞳で。
クラウスは――タチが悪い。
ケイランは、この瞳を見るたびにそう思う。
このキラキラした瞳は、その申し出をひどく断りづらい。
そこにはいつも、純粋な善意しかないからだ。
次回のタイトルは、「杖が壊れる日」です。




