103 長距離行軍訓練 眠りに落ちて
トラグバインの死骸を置くと、学生たちは着替えのために部屋へ向かった。
施設での宿泊は全員同じ部屋だ。
教官がまとめて管理しやすくするためである。
皆、二段ベッドや床に敷かれたマットレスへ飛び込みたい衝動に駆られていたが、短い休憩だけで身なりを整えた。
軍人として恥ずかしくない格好を作ると、食事へ向かった。
「久しぶりにまともな飯が食える」
下山中そう言っていた学生は、うつらうつらと眠りかけながら食事を口に運んでいた。
三十六人中、半数は食を進められていない。
腹が減っていないわけではない。
もう、食べるだけの体力も残っていないのだ。
「ほら、食うのも訓練の一つだぞ」
オスヴァン教官がパンパンと手を叩きながら言った。
――ここに居るのがイヴァール教官でなくてよかった。
ケイランはそう思った。
イヴァール教官ならば、すでに叱責が飛んでいただろう。
下手をすれば後日罰則がついてもおかしくない。
朦朧とする意識の中、ぼんやりとそんな考えを浮かべて、ケイランはなんとか食事を突っ込んだ。
この日の彼の記憶は、ここで途切れている。
「――クラウス、レオナルド。コイツらを運んでやれ」
食事中にテーブルへ突っ伏し、睡眠の中に溺れてしまった者たちを指して、オスヴァンは命じた。
オスヴァンは、クラウスとレオナルド以外で食事を終えられた者には、「部屋に戻っていい」と許可を出していた。
彼らはふらふらと食堂から出ていき、いまや夢の中だ。
ここに残っているのは、クラウスとレオナルド、そして食堂で眠りこけてしまった生徒たちだけである。
「はっ! ……しかし、オスヴァン教官。恥ずかしながら、私も体力の限界が来ております。指示が遂行できないかと」
レオナルドは声に申し訳なさを滲ませた。
心底感じているというよりも、わざとらしく繕われている。
「限界が来ているように見えないから、指示を出してるんだ」
オスヴァンはため息を飲み込みながら答えた。
普段ならこのような軽口は注意するが、いかんせん周囲が周囲だ。
クラウスとレオナルドは、ほぼ倒れ込んでいる学生たちの中では、まだきちんと振る舞えている。
彼らだけを罰するというのは、筋が通らない。
「自分が全員運びます」
クラウスが言った。
オスヴァンは「おっ」と思った。
クラウスが動くのであれば、レオナルドも動かざるを得まい――そう考えたが、レオナルドは特に口を挟まなかった。
発言を翻し、「ならば自分も運びます」と言うこともない。
こういうとき、大体は『仕方ないから付き合ってやる』といった様子で動くことが多いのだが、今回は違った。
その様子に、オスヴァンは少し驚いた。
「レオナルドは、本当に疲れてるんだと思います。自分はまだ動けるので、みんなを運びます」
クラウスは眉尻を下げ、困ったように言った。
そこに、嘘の匂いはしなかった。
周囲には分からないが、クラウスには分かる。
レオナルドの動きが、ほんの僅かに重い。
それに、早く身体を清潔にして眠りたそうに見える。
――どちらも気付けるのは、クラウスだけだ。
“ただのレオナルド”と、誰よりも近しく、誰よりも濃い時間を過ごした親友だからこそ伝わった。
「レオナルド、疲れてるのか?」
クラウスの言葉で、オスヴァンは確認する。
いつもと変わらぬ表情で立っている青年が、『疲れている』とは感じられなかった。
「はっ! 先ほども申し上げました通り、誠に恥ずかしながら、疲労のため、教官のご指示を全うできない可能性があります」
ハキハキとした声。
乱れのない姿勢。
整った身なり。
どこに、疲労の痕跡があるというのか。
オスヴァンには、レオナルドが疲れているようには見えなかった。
むしろ、本当に訓練に参加したのか疑うほどだ。
――レオナルドは、誰よりも完成された“完璧な侯爵令息”である。
その仮面の下を、オスヴァンでは覗くことができない。
“レオナルド・シュヴァリエ”に、弱さは不要だ。
もちろん、時に演出することもある。
それが最も有効だと判断すれば、レオナルドは迷いなく選び取る。
だが、教官の前でクラウスと並ぶいま、“弱さ”は相応しくない。
だから彼は、表に現さない。
それが、彼の在り方だから。
オスヴァンには未だ、レオナルドから疲労の痕跡を拾えない。
だが、トラグバインの解体以降、彼は確かに他の学生より負荷をかけられていた。
働きを見れば、その言葉は尤もだった。
「……クラウス、本当に一人でできるのか」
「はい。全員運べます」
食事中に眠り込んでしまった学生は十名を超える。
それを一人で運ぶと言い切った。
その声に自信も虚勢もなく、ただ事実だけがあった。
クラウスの健気さに、オスヴァンは今度こそため息を飲み込めなかった。
「はぁ……丁寧に運ぶ必要はない。適当に担いで寝床に放り込め。それと、レオナルドは下がっていい」
「はっ!」
クラウスはすぐ、学友たちのもとへ向かう。
レオナルドはその背中を一瞬見送ると、本当に下がっていった。
レオナルドは、衛生管理として身体を清潔にしてからベッドに入るのだろうな。
そう、クラウスは想像した。
とても眠いときのレオナルドは、機嫌が悪いことが多い。
クラウスはそう認識している。
だから、早く寝て、しっかり休んでくれたらいいなぁと思った。
漸く終わった長い訓練の夜が、静かに訪れていた。
次回のタイトルは、「後日談」です。




