才覚の形③
模擬戦が開始されてから、コギルはどう攻めようかと様々なパターンを脳内で構築した。
袈裟斬りで振り下ろすのがよいか、それとも一番得意な水平に打ち付けるスイングか。
もしくは唐竹割のように脳天から落としてみるのも力が乗るかもしれない。
コギルの全身はギリギリと音を立てる程に力を漲らせており、いつその力を爆発させてもおかしくない緊張感があった。
対してペトロは力を抜いたような雰囲気で、ただ立っているような印象だ。
どう対応すべきかと考えるコギルだが、一つの異常に気付いたのだ。
なぜ、自分はまだ攻撃を行っていないのだろう。
それは奇妙な事だった。普通ならどう攻めるかを考えても一瞬で、動いてから考えるくらいであった。
しかし、自分は何故構えたままで、何もしていないのか。
気持ちはこんなにも滾っているのに、なぜ。
その疑問はまるで目を逸らしたい事実のように、考えようとすると思考が止まってしまう。
だけれど、背筋に流れる汗。早く何か行動しなければと焦る気持ち。それらが、どうして動かないのかと脳を詰問する。
やがて、一つの恐ろしい仮説が脳にドロリと流れ込むように生まれてきた。
動かないのではない、動けないのだと。
例えば目の前に溝があったとする。それを飛び越える動作をするとしよう。
その溝の深さ、広さを視認して、飛び越えるのは簡単だ。
何故なら、飛び越えるイメージが無意識にできており、体をその通りに動かすだけだからである。
けれど、もしそのイメージが全くできなかったとしたら。
どう足を出して、どう着地すれば成功できるというイメージが、自分の中に存在しなかったとしたら。
脳はどの筋肉をどのように動かしてよいかわからなくて、止まってしまうのではないだろうか。
コギルは胸中でかぶりを振る。いや、そんな事はあり得ないのだ。
長年付き合ってきた体の動かし方がわからなくなることなどありえない。
どう動けばどういう結果になるか、そんな事がわからなくなる事はあり得ないのである。
だったらなぜ。
何故、自分はこんなにも動けないのだろうか。
既に心は不安で満たされていて、ペトロとの間合いが遠いのか近いのか、何歩で届くのか、どう斧を振れば当たるのか、そんな事も分からない気持ちになっている。
普段何気なく出来ていた事が、どうやっていたのかを思い出せない。
無意識に踊っていたムカデが、どの足をどう動かそうと意識した途端に踊れなくなったという寓話があった気がするが、それに似た心地だった。
どうして自分がこんな状態になっているのか。
何度目かの脳内の問いに、視線の先、ペトロの姿が、まるでそれが答えのように立っていた。
コギルは心の中で震えていた。その答えに行きつくのが嫌で考えないようにしていたのではないだろうか。
あの目だ。あの目が怖い。
ペトロの目は、一種異様だった。
右目はいっそ優しく、全てを包み込み、荒事など無縁であるかのような穏やかさを感じるのに、左目は違った。
何を考えているのか全く分からない。
そこには思考などなく、ただ目の前に獲物が居れば食う、それだけという鬼気迫る何かがその目にはあった。
それでいて、こちらの考えや思い、全てを見透かしているかのような鋭さもある。
蛇に睨まれた蛙は、逃げる事も敵わずただ固まってしまうという話を聞いたことがあるが、今のコギルはその気持ちが分かった。
何か、なんでもいい、何か動かなくてはならないのだが、まるで体と脳が切り離されてしまったかのように、一切体が動かなくなってしまう。
タチの悪い事に、なんとかしなければと思えば思うほどに、その束縛は強くなって何もできなくなる。
恐らく、最適解は何も考えない事だろうか。けれど、そんな事が今更できるわけがなかった。
心から脳に這いあがってくる恐怖は、もう逃れる事ができない程に思考を浸食してしまっていた。
ハッハッという、浅い呼吸音が聞こえてくる。
誰のものかと視線を左右させるが、その呼吸の主が視界に入る事はなかった。
何故ならば、その主は事もあろう自分自身だったからだ。
軽く恐慌状態に陥りつつあるコギルに向かって、ペトロは心配そうな雰囲気を織り交ぜながら言った。
「来ないのか?」
その声には、純粋な心配が含まれている。
だからこそ、コギルは悔しかった。
まさか、日々厳しい鍛錬に明け暮れてきた自分が、対峙しただけで敗北するなんてあり得ない。
まだ何一つ出せていない。自分の強さを何も勝負の土台に乗せていない。
震えそうな足を止めるために、足の指にギュッと力を入れ。
肩から指先に至るまでのすべてを硬くする。
そうする事で恐怖に抗えると自分に言い聞かせて、ペトロを睨みつける。
隙があるように見えて隙の無いペトロに対して、未だに攻撃を当てるイメージがつかない。
だが、今までの全てを一撃に乗せる覚悟だけは決まった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
そして、コギルは裂帛の気合と共に駆け出したのだった。




