フィフス・エイラ
飽きるほどに見慣れた机。飽きるほどに見慣れた光景。
同じように続く毎日。
それでも、まったく同じ日はないように、見慣れた光景もまた、まったく同じ光景ではないのだ。
フィフスは受付を交代し、溜まった事務仕事を片付けていた。
取り急ぎ提出しなくてはならないのは、傭兵組合が招致した元勇者一行のメンバー、ゼノビア・レギンレイブルの対応についてだ。
普通の元勇者一行であれば冒険者協会が出張る必要などないし、招致した組織が対応をするだろう。
ただ、ゼノビアは別だ。
いや、正しくは、『彼』と関係が深かった人物は、別なのだ。
フィフスは書類に文字を打つためにせわしなく動かしていた指を止め、思い切り伸びをした。
作業しているとあまり気にならないが、腰や肩が相当凝っていたようだ。
伸びによって血流が一時的に改善され、頭が呆っとする感じがした。
「フィフスー、それ終わったら休憩入っちゃってー。ちゃんと休んでねー」
「はーい」
同僚の声に応えて、居住まいを正す。
溜まりに溜まった書類は、きっとそう簡単には終わらないだろう。
だから、フィフスは用意していたコーヒーを一口飲み、すっかり冷めてしまっている事に多少眉をしかめながらも、休憩時間を使ってでも早く終わらせようと再び指を動かし始める。
けれど。
正直に言うと、仕事に身が入らなかった。
原因は、きっとあの青年のせいだろう。
確か名前はヨハン・トリスメギストスと言ったと思う。
端正な顔立ちをしていて、利発そうなしゃべり方をする青年だ。
そしてきっと、性格も良さそうだった。
報告しなくてはならない。それが憂鬱だった。
こちらの言葉の一つ一つであんなにも綺麗に目を輝かせる青年。
どこからどうみても善人のような眼差し。
けれど、騙されてはならない。彼は、神敵の子なのだ。
フィフス自身、ずっと悩んで迷っていた事が、ついに現実的な問題として
やってきてしまったのだ。
フィフスの両親は、敬虔なヴァン教の信者だった。
勿論、その娘であるフィフスもそうだ。
父はどんな時も優しく、また正義を貫く強さを持ったとても素晴らしい人間だった。
母はどんな相手であっても愛する事を忘れず、とても魅力的な人物だった。
フィフスは、そんな両親が大好きだったのだ。
そして、その両親が信じるヴァン教には、ある名前が神敵として刻まれている。
ペトロ・マーダー。神の教えを砕こうとする者。魔界より遣わされた人の皮を被った悪魔。
幼い頃、とても怖かったのを覚えている。
彼はなんと勇者一行に紛れ込み、そしてまるで善人のような振る舞いで油断させて人々を堕落させるのだ。
魔王討伐の邪魔をし、人々を堕落させる外道。それが、ヴァン教に伝わるペトロ・マーダーだった。
いつも優しい顔でいる父や母も、彼の話をする時は、怖い顔になった。
けれど。
彼女が彼に初めて会ったのは、冒険者協会に就職し、初めて赴任された町での事だった。
偶然にも、彼が勇者一行を辞めたあと各地を転々とし、今はその街に滞在していた様だった。
彼は仕事を探して冒険者協会に訪れた。
まだ仕事に緊張しているフィフスだったが、彼はにこやかに自己紹介をした。
飛び上がるほど驚いた事を覚えている。
そして、怖くて内心震えた。
彼は黒髪黒目という珍しい容貌なのに関わらず、どこにでもいる男のような雰囲気を纏っていた。
傍らには、金髪碧眼の絶世の美女、ヘルメスと名乗った女がいつもいた。
神敵、悪魔、人類の敵。そんな人物像からかけはなれた凡庸な雰囲気は、逆に恐ろしかった。
そして、ヴァン教から監視の命が下ってからは、フィフスは彼の担当となった。
通常冒険者協会に個別に担当などつかない。彼もそれを訝しんでいたようだが、何かに納得し、諦めた表情で「あんたも大変だな」と笑った。
それから、自分の心の中にある彼への恐怖を隠して監視と業務をこなしている内に、心に疑念が湧いてしまった。
彼は、本当に恐ろしい存在なのだろうか。
普通の人間として接すると、ただの善人だった。
傍らのヘルメスが思いつきで無理難題を言い出し、いつも困った顔をしている彼。
それでもなんとかヘルメスの要望をこなし、安堵した表情をする彼。
魔物の弊害で困っている村を救い、今後の対策まで考えて提案し、村長からお礼にと送られた品々を、「いや、仕事だから。そっちも大変だろう、これは村で使ってくれ」と照れたように辞退する彼。
調査依頼に帯同したフィフスが魔物に襲われたときに、身を挺して命を救ってくれた彼。
彼は勇者ではない。その器ではないのだろう。
それはフィフスにもわかった。
ある日彼が飲みながら語っていたのだ。
「人生で救える人間なんてな。片手で数えるほどしかいないんだ」
町での評判は悪いが、救ってきた近隣の村から多数の感謝を寄せられる彼の言葉とは思えず、フィフスは変な顔になった。
彼は言葉を続ける。
「その場を助けたとして、それがその人の人生自体を救った事にはならない。人を救うなら、その人の人生に寄り添う覚悟と、救うに足る能力が必要なんだ」
そして、彼は自嘲気味に笑う。
「でもな、俺には能力がない。だから見える範囲のできることだけをやってる。それで相手が本当に幸福になるかどうかなんてわからない。才能のない俺には、片手で数えるほども救えない。けれど、一人だけは、人生かけて救ってやりたい奴がいるんだ。俺は人類の勇者にはなれないが、それでも、誰かに必要とされたい欲求はあるんだろうな」
彼は確かに、世界の命運のために何かをする人物とは思えなかった。
ただ、目の届く範囲で、自分のできる事をする。そこに妥協はなかった。
フィフスの胸の奥の疑問は言葉になる。
これが、これこそが慈愛ではないだろうか。
幼い頃に憧れた、正義を貫く勇気。誰に対しても手を差し伸べる優しさ。
それは遠い魔王との闘いではなくて、もっと身近な、こういう人物に自分は憧れたのではないだろうか。
その疑念は大きくなるが、それとは別の疑念が浮かぶ。
彼は、そうやって人の心に付け込むのではないだろうか。
このような善良な人物が、何故ヴァン教で神敵とされているのか、それには理由があるはずだ。
自分はもう、術中にはまっているのではないだろうか。
けれど、善良と思わせることに何の意味があるんだろう。
村々を救って、どう悪魔の企みに利用するというのだろう。
考えてもわからなかった。答えがないからこそ、自分の思いもつかないような事で利用するのではないだろうかと不安が募る。
ずっと、ずっと不安だった。
だから。
彼を裏切ってしまった。
それでよかったのかと、今でも夢でうなされる。
そんな、彼の息子が、何の因果かその後異動を言い渡され、やってきた町に現れたのだ。
仕事が手につかなくなるのもしょうがない。
そんな感傷を振り払うように一口コーヒーを口に含ませると、さっき飲んだ時よりも冷たく、苦い気がした。




