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誰にでも出来る魔法④

 その一言を皮切りに、トーアーサの口は自制が聞かなくなったかのように、するすると言葉が落ちていく。


「子供の頃、私の友達が目の前で『お目々が大きくてかわいいね』って言われてるのを見て、羨ましかった。私は可愛いなんて言われた事なんてないのに。みんなこの目を見て私がつまらなそうにしてるって決めつけて、眠いんだって勘違いして、全然そんな事ないのに」


 独白を始めたトーアーサに、ペトロは目を星を見上げながら相槌を打ってくれる。

 きっと彼の人生経験の中で、こういう時に向き合って聞かない方が話しやすいという答えに行きついたのだろう。

 事実、先ほどまで恐怖を抱いていたのが嘘のように口が滑っていく。


「でも、私は私に誇りを持ってる。親はこの目を好きだって言ってくれた。可愛いとは言ってもらえなかったけど、それでも、好きでいてくれた。だから私は……えっと、何が言いたいんだろ、私」


「いや、分かる。伝えたい事は事象じゃなくて、あやふやな気持ちなんだ。だからどうどう廻りするし、言ってみてもそれで合ってるかどうかわからない。人間なんてそんなもんだ」


「そうかな」


「そうだよ」


「じゃあ、そうかも」


 大分和らいだ雰囲気が、逆に少し気恥ずかしい気がした。

 ペトロはふとトーアーサの方を向き、言った。


「みんなにどう思われるかという事を追及していくのは確かに人生を生きる上で重要だが、自分の幸福という視点では、誰にどう思われるかが大事なんじゃないかな。因みに俺はトーアーサ事を可愛いと思っているけどな」


 歯の浮く言葉とはこの事だろう。こちらの前歯から奥歯の全てがふわふわする様な違和感。

 別段悪い気持ちになっているわけではないが、恥ずかしくて思わず憮然とした表情になってしまうトーアーサ。


 そんな雰囲気を察したのか、ペトロは「よし」と一言発して立ち上がり、続けて言った。


「明日の朝、俺の部屋に来るといい。可愛い弟子に一つ魔法を教えてやろう」


 そう言って、彼は立ち去ったのだった。




 翌朝。ペトロの部屋に向かうトーアーサの眉間には皺が寄っていた。

 彼女の心の中では折角、ペトロの事を尊敬できるかもしれないと思ったのにという残念でならない気持ち。


 その原因は今向かっている先にあった。


 大人の男が、それも強者が女を部屋に呼ぶ。それは、そういう事だ。

 これは何も男だけではなく、女もそういう手段や遊びをする事もあるとは聞いている。

 けれど、世間で聞くのは大体男が多いから、男とはそういう事が好きな生き物なのだろう。

 残念だった。トーアーサは、まだそういう事に触れずに生きていけるだろうと思っていた。

 そういう黒くて汚いものは、もう少し年を重ねてからなんだと勝手に思っていた。

 ヨハンとシモンの父親が自分の子供達と同年代の少女に手を出す事にも残念だと思うが、それ以上に、これから起こる事が憂鬱でならない。


 いつまでも始まって欲しくないと思う反面、早く終わらせてしまいたいという自暴自棄にも似た感情が心で渦巻いていく。


 ついにとうとうペトロの部屋の前まで着いた彼女は、しばし扉の前で深呼吸をした。

 これから起こる事は全て忘れるんだ。心は死んでも、体は死にはしないんだ。

 大丈夫、自分は強い。

 そう心で自分に言い聞かせて目に力を入れる。


 逆に言えば、そうやって自分を欺かなければ、到底向き合えそうもない吐き気と悍ましさだった。


 しかし、こうしていても苦痛は過ぎ去らない。

 誰かに助けて欲しいと願っても、ここはペトロのフィールドなのだ。自分は立場の弱い存在でしかない。


 だから、震える手をもう片方の手で必死に抑えてノックする。

 思い切りノックしたつもりのその音が、か細く小さかった事が彼女の心情を物語っていた。


「ああ、トーアーサかな。入ってくれ」


 中から聞こえたその声。

 トーアーサは勢いよく扉を開いた。

 扉の先では、ペトロが鏡を磨いていた。見やると、どうやら机の上に銀を磨いた鏡が乗っている奇妙な造りだった。

 彼はその鏡をにこにこしながら磨いている。


 鏡すらも汚らわしいものに見えてしまい、一秒もペトロの顔を見たくなかった。


 だから、ずかずかと部屋を横切り、ベッドに座り、乱暴に声を出す。


「やるなら早くしてほしいんだけど」


 その態度にペトロは何かを感じたのか、僅かに怪訝な顔をして言う。


「どうした、何かあったか?」


「別に」


 不機嫌に答えるトーアーサ。対して、ペトロは気を取り直した様子でふっと笑い、鏡の乗った机の前にある椅子を指さした。


「さあ、トーアーサ。ここに座るんだ」


 ベッドで考える事数秒。トーアーサは言われた通りに座る事にした。

 座るトーアーサの頭の上から、ペトロの声が落ちてくる。


「これはなトーアーサ。鏡台というんだ。この世界では珍しいというか、貴族くらいしか持っていない」


 先日のヨハンの話の影響か、この世界という言葉に少し引っかかりを覚えたが、確かにトーアーサは鏡台という言葉すら知らなかった。


「さあ、魔法の下準備だ。この魔法は準備に時間をかければかける程いいんだ」


 そう言ってペトロはトーアーサの顔にタオルを被せる。


「熱っ! ちょ! 熱い!!」


 それは火傷しそうに熱いタオルだった。ペトロは構わず顔に押し付けてくる。


「我慢だ我慢! 肌はな、温めると毛穴が開くんだ。そしてその毛穴の開いた肌を優しくこする。強くこすってはならない、優しくだ」


 言いながら、少し温度の下がってきたタオルを、決して優しいとはいえない強さで顔にこすりつけてくる。

 まるでごしごしという音が聞こえてきそうだ。

 あまりにも乱暴な扱いに、「痛い! 痛い!」と抗議するも、落ちてくる声の雰囲気は変わらなかった。


「そして一旦顔を洗おう。ほら、このタライで洗顔するんだ」


 言って、ようやくタオルを顔から離してくれたその視界には、事前に用意されていたのだろう、机の上にも乗るくらい小さなタライが、床に置いてあった。

 しかし、言う事を聞く気に慣れず、半眼となってペトロに恨みの籠った視線を向ける。

 その様子にペトロは、まるでその反応は想像通りだと言わんばかりの笑顔だった。


「どうした? できないなら手伝おうか?」


「いい!」


 下手に手伝われるとまた乱暴に扱われるであろう事は自明の理である。

 しぶしぶではあるが、タライの傍に屈み洗顔を始めた。


 冷たい水を想像していたそれは、意外と人肌ほどの温度で、最初は控えめにパシャパシャとやっていたが、段々と胸の奥からいら立ちが溢れて、それはまるで活火山にドロドロと流れるマグマのようだった。

 いつしかパシャパシャという音はバシャバシャへと変わり、トーアーサの顔面を水が乱暴に叩くように撫でていく。


 ひとしきり洗顔を終えると、ペトロが渇いたタオルを投げて寄越したので、顔を拭いた。

 乾いたタオルの感触は心地よく、顔を流れていた水が、まるでそこが自分達の居るべき場所だと言わんばかりにタオルに吸われていく。

 

 少しだけ気分が落ち着き、タオルを顔から離して僅かばかりの解放感を吐息と一緒に吐き出し、首辺りにタオルを当てていたトーアーサの視界を、恐ろしい速さでペトロの手が覆った。


「ちょ! なに!? 冷たい!!」


「洗顔すると顔は水分が不足する。だからすぐに美容液で潤わせる必要がある。さらには、その美容液を冷やしておく事で毛穴を閉じさせるんだ」


 何を言っているのか意味はわからないが、まるで張り手か掌底のような打撃を連続して顔面に受ける意味がわからなかった。

 意味は分からないが、考えようにもペトロが連続して手を顔に押し当ててくる為、トーアーサはもう何も考えられなくなる。

 そしてそのペトロの手にはやたらと冷たい液体が塗りたくられており、冷たいし痛い。

 しかし、抵抗しても抑えられるだけなのはわかっているので我慢して耐えると、ペトロの満足気な、「よし」という声が聞こえた。


 これで解放される。そう思って溜息をついたトーアーサの耳に、恐ろしい言葉が入って来た。


「次は乳液だ」


「いやああああああああああああ!!!」


 ペチペチという音ではない、顔にペトロの手が当たる度に「パァン」というまるで激昂した気持ちが乗ったビンタのような盛大な音がするのだ。

 しかし恐ろしいのは、意外と肌の痛みはそこまで大きくないが、骨がきしむように痛み、頭蓋が揺れて意識が飛びそうになってしまうのである。 


(ダメ……このままじゃ……死んじゃう……)


 意識が遠くなりかけたトーアーサの耳に、いっそ朗らかなペトロの声が聞こえてきた。


「なるべく毎日美容液と乳液を付けた方がいい。ヨハンとシモンは嫌がるんだが、君は大人しくていい子だな」


 衝撃の事実だ。ヨハンやシモンもこの洗礼を受けている。それも、毎日ということだろうか。

 あるいは、ある一定の水準以上の強者にとってこれくらいはなんでもないのかもしれない。

 そう思うと、耐えなくてはならない気がして、歯を食いしばり連続して訪れるまるで爆発のような衝撃を耐えていた。


「よし、こんなもんか」


 地獄の終わりは、唐突に訪れた。

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