Karte1『不眠症の白ウサギ』1
リビングからの旭光が差し込むカウンターキッチンに立ち、お気に入りのエプロンを身につける。
不思議の国のアリスの少女が着ているエプロンドレスのような、丈の長いロングエプロンだ。
今日はここ最近で一番の快晴らしく、昼にもなればひだまりの魔法にかけられて眠ってしまう子供もいるのではないだろうか。
例えば夏の快晴は、暑さに弱い私にとってはとても辛いものだが、今の時期の春の快晴はただただ気持ちが良い。
天気が良い、それだけで幸せな気持ちになれるのだから、春は素敵な季節だと思う。
電気をつける必要もないくらいの明るさだがさすがに引き出しの奥は見づらい、一応電気をつけよう。
電気をつけても汚れひとつ見当たらないピカピカのオール電化仕様のキッチンは料理の意欲を沸かせてくれるので、『この世界』に来てからは料理がとても楽しいものになった。
完全に私が怠け者なだけではあるのだが『もといた世界』ではガスコンロを使用していたから掃除がとても大変で、その大変さから面倒になってしまい、いつしか掃除そのものを怠るという何ともだらしない生活を送っていた。
生活する上で自炊は必須、掃除を避けるために極力汚さないよう恐る恐るキッチンを使い、それでも出てしまった汚れは見て見ぬふりをする…という怠け具合だ。
そうなると料理も楽しいものではなくなってしまう。
最終的には最寄りの飲食店でテイクアウトしたり、コンビニやスーパーの弁当ばかり食べるようになった。
だけど『この世界』に、ーーいや、『この世界』にもガスコンロを使っている家庭はあるだろうから、この家に、と言った方が正しいか。
この家に住まわせてもらうようになりこのキッチンを使うようになってからは、オール電化のIHクッキングヒーターの利便さのおかげで料理が楽しいものになった。
勿論ガスコンロにも沢山のメリットがあるが、汚れても簡単に手入れができること、そもそも油の飛び散りが少なく汚れにくいこと、私にとってはこれらのメリットの方が魅力的なのだ。
そして、私が料理を楽しいと思える理由はもう一つある。
まだ夢の世界にいるであろう、もしかしたらもう目を覚ましていて部屋でのんびりしているかもしれないが、ある日突然『この世界』にやって来てしまった私のことを救ってくれた、二人の人間。
二人が私の料理を美味しいと言って食べてくれることが、私が料理を楽しいと思えるようになった最大の理由だ。
(まぁ、美味しいって言ってくれるのは、二人だけじゃないんだけどね)
そう心の中で思っていると、私の膝のすぐ近くから弾むように無邪気な声が聞こえてきた。
「ねえねえ!きょうはたまご、なんこつかう?」
「そうだなぁ…昨日作ったおかずが残っててそれも食べるから、たまごはひとつずつで良いかも」
「じゃあ、あやちゃんとぼくと、まひろくんとゆめのさんとメリーさんのぶんで…ごこ!」
「手で五個持ったら落としちゃうから、器に入れてね」
「うん!」
そう返事をして楽しそうに冷蔵庫を開けるのは、私が生まれた時からずっと私のそばにいてくれる、私の大切な家族・テディだ。
大切な家族だけど、彼は人間ではない。
くまのぬいぐるみーー所謂テディベアだ。
ミルクティー色のモヘアで覆われたまんまるな身体、アイボリーの手足のパッドは経年劣化により元々くすんでいたが『この世界』に来てからは日常生活による汚れもついてしまった。
太陽の光で透き通るグラスアイは、モヘアの色とは打って変わって濃く淹れたストレートティー色。
体長五十五センチと、ぬいぐるみとしては比較的大きい作りであるテディは、私と共に『もといた世界』から『この世界』にやって来た瞬間、人間のように動き出したのだ。
そして、動くぬいぐるみの存在はテディだけではない。
『この世界』のぬいぐるみは、持ち主との結びつきが強くなると生命を宿す。
生命を宿したぬいぐるみは、人間のように身体を動かし、人間のように言葉を発し、人間のように感情を持つ。
『この世界』ではごくごく普通の事らしいので、どういう仕組みで生命が宿り、どういう仕組みでぬいぐるみが動いているのかは誰にも分からない。
ごくごく普通のことであるがゆえに誰も疑問を抱かないから、疑問に対する答えも生まれないのだ。
しかし『この世界』では普通のことであっても、『もといた世界』からやって来た私にとっては非現実なことだ。
だけど、事実としてテディはこのように動いているし、テディ以外の他の動くぬいぐるみたちとの出会いもある。
そうなると、どんなに非現実な事であっても“この世界はこういう世界なのだ”と納得せざるを得ない。
そもそも、動くぬいぐるみの存在以前に『もといた世界』から『この世界』…つまり異世界にやって来た事が最大の非現実なのだから、他の非現実な事は異世界にやって来た事によって生まれた副産物的な謎として受け入れるしかないのだ。
ただ、私は言う程この非現実に混乱していなかったりもする。
と言うのも、『この世界』と『もといた世界』の違いは、動くぬいぐるみの存在だけなのだ。
『この世界』にやって来て三ヶ月程経った筈だが、この三ヶ月で知った『この世界』と『もといた世界』の大きな違いはこれしかない。
さまざまな国が存在することも、その国によって文化や言語、宗教が異なる事も『もといた世界』と変わらない。
ちなみに今私がいる『この世界』のこの国は『もといた世界』の日本に似ているーーというより、ほぼ同じだ。
そして『この世界』の海外も『もといた世界』の海外とほぼ同じで、国の名称や言語、地形、法律といった国を構成する基本的な部分は『もといた世界』と異なる部分はないように思う。
"異世界にやって来た"といっても、動くぬいぐるみの存在と、せいぜい企業や商品の名前が違う事くらいしか『もといた世界』と異なる部分がないし、勿論『この世界』の人間は『もといた世界』の人間とは全くの別人で知人も当然いなかったが、それに関しては『もといた世界』で人間関係が希薄だったこともあり特に何も感じなかった。
『もといた世界』の人間とは全くの別人たちがいる世界ということは、文化を生み出した者、歴史を作った者たちも『もといた世界』とは別人ということではあるが、それによって私が困ることは何もない。
なので『もといた世界』で流行っていた異世界転生・異世界転移作品の主人公のような大きな混乱が私にはなかったのだ。
(まぁ、それは『この世界』にやって来てすぐに二人と出会って、衣食住に困る事がなかったから言えるんだよなぁ…本当に感謝してもしきれない)
大きな混乱がなかったとはいえ、何故私が『この世界』にやって来たのかは気になっている。
『もといた世界』で流行っていた異世界転生作品は、現実で命を落とし気が付くと異世界の人物に転生していた…というパターンが多かったように思うが、少なくとも私は命を落としていないし、『もといた世界』の私・花咲彩自身として『この世界』に存在している。
『もといた世界』での最後の記憶もあるが、いつも通り仕事から帰宅し、いつも通り夜ご飯を食べ、いつも通りお風呂に入り、いつも通りテディと一緒にベッドに入った。
いつも通りの日常を過ごし、眠り、目が覚めたら『この世界』にいたのだ。
ーー目が覚めた私は"ある店"の前で呆然と座り込んでいた。
今でこそ混乱がないとはいえ、目が覚めた直後はさすがに混乱した。
確かに自室のベッドで眠りについた筈なのに目が覚めたら外にいて、それも、見知らぬ街並みの見知らぬ店の前にいて。
状況を理解する為の手がかりとして店の看板を見ても、覚えのない住所と電話番号が書かれていて更に混乱することになってしまった。
そんな私を最初に見つけてくれたのが、"ある店"にアルバイト店員として在籍している神崎真宙だった。
「あやちゃん!めだまやき、こげちゃうよ〜!!」
テディの言葉でふと我に帰る。
私は慌ててフライパンの目玉焼きをお皿に移した。
テディが知らせてくれたおかげで焦げずに済んだが、揚げ焼きしたようなカリッとした焼き加減になってしまった。
「カリカリしてておいしそうだけど、どうしたの?なにかかんがえごとしてたの?」
「ううん、おひさまが気持ち良くってぼーっとしちゃっただけ。テディ、この目玉焼きとおかずの小鉢、テーブルに運んでくれる?」
「うん!はこんだら、みんなのことおこしにいっていい?」
「うん、お願いします!」
「はーいっ!」
他のテディベアと比べれば大きい作りのテディではあるが、人間サイズの物となるとやはりテディには大きく、目玉焼きのお皿を一枚ずつ一生懸命運んでくれている。
目玉焼きのお皿の次はおかずの小鉢と、カウンターキッチンからテーブルまで何往復もしてくれているが、人間にとっては数歩程の距離でもテディにとっては面倒な距離だと思うのだが、それさえもテディはるんるんと楽しそうにしている。
自由に身体を動かせる事が本当に楽しいのだろう。
(真宙くんに見つけてもらって、夢野さんを紹介してもらって、夢野さんの心づかいでこの家に住まわせてもらって、テディとも色々あって…)
『この世界』にやって来たあの日は今から三ヶ月程前ではあるが、それでも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
私にとって大切な記憶だから家事の片手間に思い返すのではなく、のんびり過ごせる時間に思い出して幸せな感傷に浸りたい。
あの日のことを思い返すのは今はやめよう。
私とテディ、そして駆け足でテディが起こしに行ったみんなの朝食を仕上げなければ。