記憶
パタンッと音を立てながら日記を閉じる。何度も読み返したからだろう、ひどくボロボロだ。
あの七日間は十年たった今でも鮮明に思い出すことが出来る。彼女の声が僕の耳から離れたことは一度もない。あの日からずっと、声が、歌が、僕の中に残り続けている。
七月二十二日 夏休みが始まった日。僕はポチオと河川敷を散歩していた。黄昏の中で蝉の声がよく響いていたのを覚えている。なにも考えずにポケーっと歩いていると、突然ポチオが一本の木に向かって吠え始めた。ポチオは少し前から元気がなく、吠えることもほとんど無くなっていたので僕はとても驚いた。
「どうしたポチオ?そんな怖い顔して、お前らしくないぞ。」
そう声をかけたが、ポチオは僕の声を無視して一心不乱に木に向かって吠え続けていた。いや、この場合は吠えるというより威嚇と言った方がいいだろう。ポチオの様子に僕もだんだんと恐怖を感じ始めた。
「ポチオ、ほんとにどうしたんだよ?あの木になんかあるのか?」
ワンッと僕の言葉を肯定するようにポチオが一声吠える。僕は恐る恐るその木に近づいた。すると木の後ろからひょこっと一人の少女が顔を出し
「あれ?大山君じゃん。こんばんは。」
と気さくに挨拶をした。
少女の名前は美空 奈々。転校してきたばかりのクラスメイトだ。恥ずかしい話だが正直に言おう。僕はこの時、彼女に恋をしていた。初恋だった。日記では彼女のことを酷く罵っていたが、あれは小学生らしい照れ隠しだと思って笑ってほしい。
「なんでお前がこんなとこにいんだよ?っていうかもう結構遅いのにこんなとこにいていいのかよ?」
「別にいいじゃない私が何をしてたって。大山こそ何してんのさ?」
「俺は見りゃわかんだろ。散歩だよ、犬の。」
「ふーん」
彼女は微笑む。どこか人間離れしているその美貌に僕の心臓が激しく跳ねた。
「ねぇ大山。ちょっとこっちに来てよ」
彼女に言われるがままに僕は彼女に近づいた。いつの間にかポチオは吠えるのをやめ、小さく震えていた。
「大山はさ、気づいてるの?」
「……何にだよ?」
「……ううん、気づいてないならいいの。だけど大山ってばいっつも私のこと見てるし、こんなところにまで会いに来るからさ。てっきり気づいてるのかと思っちゃった。」
「ばっ、会いに来たわけじゃねぇ!!散歩だ!!散歩!!それに、お前のことなんか見てねえよ!!」
「ふーん……」
彼女が僕を見つめる。蝉の鳴き声を掻き消す程に心臓が音をたてた。
「ねぇ大山。歌ってもいい?」
「……は?」
突然すぎる申し出に僕は戸惑う。彼女はふふっと少し笑って歌い始めた。
知らない歌だった。どこの国の言葉なのかもわからなかった。けれども、彼女の声があまりにも澄んでいて、歌う彼女が美しすぎて。僕はただ、それに見惚れることしか出来なかった。
歌う彼女を沈みかけの夕日が後ろから照らす。すると彼女の背中に透き通った美しい羽が見えた気がした。
気が付けばあたりは暗くなっていて、すでに彼女はいなくなっていた。
「帰ろう、ポチオ」
蝉がうるさい帰り道を僕とポチオはトボトボと歩いた。
七月二十三日 僕はまた彼女に会えるのではないかと期待して前日と同じ時間、同じコースをポチオと歩いた。
彼女に会った木の前。今日のポチオは普段と変わらない。それどころかここ数日間の不調が嘘のように元気だった。
今日もまたあの木の裏にいるのだろうか。
「おーい!!美空ー!!」
返事はなかった。しかし、その時僕はある異変に気づいた。昨日までヤケにうるさかった蝉の声が今日は全く聞こえなかった。そのせいで、美空を呼ぶ僕の声がとてもよく響いたのだ。
何故なのかはわからない。けれど僕は確かに美空が木の裏にいたのだと確信した。だから僕は木の裏へと歩を進めた。そして、予想通り彼女はそこにいた。
一匹の蝉の死体がいた。
僕はそれを見た。
彼女だった蝉を見た。
そして
僕はそれを口に入れた。
その時僕は初めて彼女を感じた。
彼女と一つになれた。