お宅訪問とローガン・その2
片手にペットボトルを握り、当て所なく広い庭の雑草をかき分けて歩く。
この庭には『テキリグサ』の類は生えていないので、草の中でも平気で歩いて行ける。庭のこの辺までは、運動がわりにうろうろすることが多いので、雑草の高さもせいぜい膝下くらいだ。
水分を補給しようと、ペットボトルのキャップに手をかけた時、何かがサンダル履きの足に触れた。
何だろうと眼下を確認するまでもない、それはするすると這い上がって来たのだ。
肌が粟立ち全身の毛が逆立った。
巻きつくように這い上がって来た『それ』はニシキヘビほどのサイズで、私の顔の辺りにもたげた鎌首には綺麗な女の顔が付いている。
人面魚ならぬ人面蛇だ。そして当然『甲種転移物』である。
いや、全身を這い回る、このわさわさとした感触は蛇ではない。
それの正体に思い当たり、一瞬気が遠くなりかけたが、ここで気絶してしまうと一巻の終わりだ。
転移物がシャアアアと大きく口を開いた。
「ひぇっ!」
獲物を噛みちぎるのではなく丸呑みにするためだろう、そこに以前の猫又もどきのような歯はない。
だが蛇と同じで内側に向いた二本の牙がある。毒の有無はわからないが、蛇の生態と同じならば、その牙は咥え込んだ獲物を逃さず、体内に送り込むためのものでもある。
私は両手で抱えていたペットボトルを、その女の口に思いっきり突っ込んだ。いきなり喉奥まで大きなペットボトルを突っ込まれた転移物は、目を白黒させている。
炎天下、私が熱中症になるのを心配した、残念イケメンの担当官殿が寄越したのは、2リットルのペットボトルだったのだ。しかも封を切ったばかりで中身もたっぷりで重量もあった。
転移物の頭がペットボトルの重みで仰反った。それにつられるように、頭の下に続く胴体部分も私の身体から離れ、どさりと草むらに落下した。
落下場所でガサガサ動き回っているが、姿を確認するのが恐ろしく、私はさっと踵を返し一目散に家へと駆けだした。
全速力で駆けているつもりだが足が異様に重く、縁側までの距離が永遠に感じられる。
「た、担当官殿ぉ」
足が縺れ声が掠れる。呼び名が長いので舌まで縺れる始末だ。
背後からカサカサと音を立て、転移物が近づいてくる気配がする。
「ひいいい!」
やっぱりだ! 蛇なら『足音』など立てるはずがない!
縁側に人がいる。
お家訪問のトリを飾るべく、実際に転移物が出現した庭を見せるためか、お客様ご一行を引き連れた魔女様が縁側に出ているのだ。
その集団の奥、高身長で頭ひとつ分飛び抜けている、担当官殿の仏頂面が見えた。
私はなり振り構わず叫んだ。
「ローガン!」
目を見開いた担当官殿が、SPを掻き分けロマンスグレーの某国要人を突き飛ばし、縁側から飛び降りた。
担当官殿のその手には黒い得物が握られている。
いつか自分に向けられるのではないかと危惧している黒い銃が、今はとても好ましい。
私が縁側に辿り着くより早く、こちらに駆け寄って来た担当官殿は、私の腕をぐいと引いた。
つんのめるように彼の胸に飛び込み、思いの外厚い胸板に鼻がぶつかった。痛い。
担当官殿は、自分の体を盾にするように、転移物と私の間に入り込むと引き金を──。
「ローガン、捕獲だ!」
魔女様の声に担当官殿が動きを止めた瞬間、転移物が草むらからバネのように飛び上がり、銃を持つ担当官殿の右腕に巻き付いた。
転移物の全貌を目の当たりにした私の喉がひくりと引き攣る。
ニシキヘビのような太い胴体にびっしりと生えた節足。それがうぞうぞ蠢いている。百足どころの話ではない。千脚の異名を持つ『ヤスデ』だ。
私に2リットルのペットボトルを突っ込まれ、口を閉じることができず、よだれだか体液だかわからないものをだらだら垂れ流し、担当官殿のスーツを汚していく。
担当官殿が私を突き飛ばすように解放した。
「走れ!」
恐怖で腰が抜け、私はその場にぺたりと尻餅をついた。
担当官殿は転移物を必死で引き剥がそうとしているが、複雑に絡み付きびくともしない。女の口はペットボトルに塞がれているので、担当官が噛まれることはないが、その分全力で腕を締め上げているようだ。
仏頂面の担当官殿が顔を顰めた。
その時濃紺のスーツが視界を横切った。ふわりと金木犀の香りがする。
公務員バージョンでスーツ着用の魔女様は、私の横を通り過ぎ担当官殿の側まで行くと、腕に絡み付いている転移物に触れ何かを呟いた。
転移物はぶるりと震え、草むらにどさりと落ち、そのまま動かなくなった。
魔女様は転移物の側に蹲み込み、「こいつは一体何を咥えているのだ?」と顔の辺りをしげしげと眺めている。
「タクミ、怪我はないか」
「にゃ、ないです」
噛んだ。
担当官殿に差し出された左手に掴まり立ち上がったが、私の足は生まれたての子鹿状態だ。
「腕! 腕は大丈夫ですか担当官殿」
「……問題ない」
「でもさっき顔を顰めてましたよね? ちょっと見せてください」
「問題ない」
「担当官殿! もう! 問題大有りですよっ」
「ローガンだ」
「へっ?」
「さっきそう呼んだだろう? 俺はローガンだ」
「たんと」
「ローガン」
なんということでしょう。
果たして担当官殿はこんなキャラだっただろうか?
綺麗な青い目にじっと見つめられた私は、顔が真っ赤になっていると思う。
いやいやこれは炎天下の全力疾走で熱中症になりかけているからだ。
心臓もバクバクいっているが、これは所謂『吊り橋効果』というやつで、決してピンクのハートが飛び交うようなアレではない。
私は『ちょろい私』とは決別したのである。
「おい!」
私が百面相をしていると、後ろから急に強く肩を掴まれた。
体格の良いこのスーツの男はSPだろう。右耳にイヤフォンが付いている。
「貴様何のつもりだ。一体どういうつもりで転移物を喚び出したんだ」
「え? 呼び出し? 何?」
「とぼけるな! この場に要人が多数いると知った上で、わざと危険な転移物を召喚したんだろう!」
「はああ?」
踏んだり蹴ったりというのは、こういう状態を指すのではないだろうか。
お宅訪問を強要され、住処を貶され、暑い中外で待たされ、死ぬほど怖い思いをした上に、あらぬ疑惑をかけられ糾弾されている。
あ、泣きそう。
「何を企んでるんだこのばけ」
私の横を黒い塊が横切った、と思った途端、さっきまで鬼の形相で私を糾弾していたSPが吹っ飛んだ。
黒い塊こと担当官殿は、右腕をプラプラ振りながらくるりと振り向いた。
「やっぱり手を痛めたようだ。手当てを頼めるか、タクミ」
「SPぶん殴っちゃって大丈夫なんですか担当官ど」
「ローガンだ」
「………」
どうやら有耶無耶にするつもりはないらしい。何て頑固で執念深い男なのだろうか。
混沌とした現場に何事かと『お客様』たちも集まり始め、更なる混沌の予感がし始めた。
ここは偉大な魔女様の御威光にすがるしかないと考え、そちらに視線を移した途端、私の背中に嫌な汗が流れた。
魔女様は大輪の薔薇のような、素晴らしく素敵な笑顔を浮かべているが、初対面の私を拉致した時と同じで、子供が面白い玩具を見つけたような、はたまた猫が鼠を甚振るような、そんな目をしているのだ。
「あのう、魔女さ」
「アレクシアだ」
貴女もですか魔女様っ!
お宅訪問の翌日、某国の要人は機上の人となった。
ロマンスグレーの要人は、担当官殿に突き飛ばされたことにいたくご立腹だったが、あの時生け捕りにした転移物を『土産』に持たされると、ころりと態度を変え、ほくほくと自国へ帰っていった。
もちろん危険生物なので、標本の状態だ。
あんな気色の悪いものを喜ぶ神経などさっぱり理解できないが、この世界では金持ちの蒐集家に大人気なのだという。特に今回の転移物は瑕疵のない完全な形のものだ。
貴重な研究対象ではないのかと問えば、あの甲種転移物は以前にも発見されていて、特に珍しいものではないそうだ。
外務省からは、あのSPが喚いていたのと、似たり寄ったりの抗議がきた。
どうやら彼らには、大した下準備もさせず、自分たちの要望をゴリ押ししたことが、騒動の遠因であるという認識はないらしい。
「自分たちの外交能力がお粗末だからと他人の褌を借りた上に、ありもしない陰謀説ですか。危険だ? まあ何を今更。特異点は遊園地じゃありませんのよ。何故魔女の私があの場所の管理を任されているのか、その首が繋がっているうちによく考えてくださいね。ああそうそう、近々人事の刷新があるそうですよ? 私が首を刎ねる前に解雇になりそうですね。おほほほほ」
え? 刎ねる? 切るじゃなくて?
とにかく、エセ貴族と化した魔女様のありがたいお言葉は、外務省のお偉方を切り裂き、彼らはそれ以上何も言えなくなった。
そもそも魔女様の言う通り、特異点は危険な場所だからこそ、政府の管轄下にあり立入禁止区域に指定されているのだ。
担当官殿は始末書を書かされたが、それ以上のお咎めはなかった。
ただ転移物に絡みつかれ、SPをぶん殴った右腕は亀裂骨折で、全治二ヶ月と診断された。
そして。
「あのう、た」
「ローガン」
「まじょ」
「アレクシア」
「勘弁してくださいい!」
私はふたりに呼び方を改めろと迫られているのであった。