魔女と牛乳
ある夜地震があった。少なくとも私は地震だと思っていた。
震度2か3か。地震慣れしている日本人にとっては然程騒ぐ程のことではない。私はそのまま熟睡し朝を迎えた。
翌朝、欠伸をしながらぼりぼり腹を掻く。何ともおっさん臭いがそれを咎める者はいない。
田舎在住でおっさん臭いが、私の朝食はシリアルと決まっている。
本当はご飯に味噌汁焼き魚or厚焼き卵などなど、和食が好きなのだが何しろひとり暮らしである。なのでこれは西洋かぶれとかではなく、単なる手抜きだ。
もう一度欠伸をして、冷蔵庫から牛乳を出したところで玄関チャイムが鳴った。
早朝から誰だろう。
何しろ田舎なことなので、時間を問わず、近所のおばさんがお裾分けを持ってやってくることがある。
朝早くの時間なら畑帰りだろう。この季節ならキャベツだろうか、と誰何もせずからりと玄関を開けた私は驚いた。
ハリウッド女優もかくや、という金髪碧眼の美女が胸元も顕なドレス姿で立っていたのだ。しかも背後に黒服にサングラスという男たちを従えている。田舎というのを差し引いても、日本家屋とのミスマッチ感が半端ない。
美女は赤い唇で綺麗な日本語を紡いだ。
「入っても良いか?」
私は間抜け面を晒していたと思う。
玄関引き戸に手をかけたまま固まり、春キャベツにも負けない、そのたわわなふくらみを凝視していたが、それは決して私がエロいからでなく、彼女との身長差のせいで、それが目の前にあったからだと弁解させてもらう。
美女は目を眇め私を見つめた後、もう一度話しかけてきた。
「入っても良いか?」
「あ、はい」
警戒心皆無というなかれ。
あまりの非現実な光景に呑まれ、思考停止状態に陥っていた小市民の私に罪はない。
小市民はゴージャスなものに弱い。少なくとも私はそうだ。
狭いところですが、とか何とかやたら腰を低くして客間に案内する。
客間に通してはたと考える。
祖母から受け継いだこの純日本家屋は、台所と床の間以外はオール畳だ。来客があれば座布団を勧めはするが、ソファーの類はない。
ロングドレスで畳の上に正座させるのもどうかと思い、慌てて台所から食卓テーブルの椅子を持ち出し、彼女に勧めた。
日本人の十八番の『おもてなし』の精神を発揮したわけだが、やはりパニックになっていたのだろう、チープな木製の椅子に優雅に腰掛けた彼女の前に、何故か正座する私。
傍からみれば女王様に傅く家来の図だ。
彼女の背後に立ち並ぶ黒服たちが百面相をしている。恐らく笑いを堪えているに違いないが、私は椅子に座った美女がきちんと靴を脱いでいることに安堵していた。土足で上がられることもそうだが、ヒールで踏み付けられると畳が痛むからだ。
自然と私を睥睨する形になった彼女は、今朝の突然の訪問の理由を説明し始めた。
「私は魔女アレクシアという。職業は…そうだな、国家公務員というところだな」
………何か変な言葉が聞こえたような気がする。
「まどろっこしいのは好かんので、簡単に説明するぞ。この場所は特異点と呼ばれ、政府の管理下に置かれている。私はそこを監視し、管理研究する部門の責任者だ。昨夜その特異点に大きな力場が発生し、この建物が出現したのだ」
簡単にも限度というものがあるのではなかろうか。
政府の管理下とはいったいどういうことだ。先祖代々続くこの土地家屋を、いつの間にか政府が乗っ取ったというのか? この場にちゃぶ台があれば、ふざけんな! と大声出してひっくり返していたところだが、悲しいかな私は由緒正しい小市民である。
結局、目を白黒させながら、悪代官に陳情する農民のように上目遣いで抗議するに止まった。
「特異点? 出現とおっしゃいますが、この家は代々この土地に建っています。登記簿の名義変更も済ませて、きちんと私の所有物件になっていますし、固定資産税の滞納もありません。きちんと国民の義務を果たしてる以上、政府の接収を受ける謂れはありません」
「君の世界ではそうなのだろうが、此方では、この場所は一般人の立ち入りが禁じられている土地なのだよ」
「君の世界? こちら? …こちらとはどちらで? ここ日本ですよね?」
「ここは確かに日本だが、君の知る日本ではない」
簡潔を重んじる魔女は、多次元宇宙とか並行世界とか、よく分からない説明をごく簡単に述べた。
早い話、この世界は、私の暮らしていた世界とは似て非なる場所らしい。
「こうやって言葉が通じるところを見れば、それほど遠い世界ではないとは思うが、君の世界は随分と平和なようだ」
そう言って苦笑し、暗に私が警戒心皆無で、自分たちを易々と招き入れたことを揶揄しているようだ。
確かに警戒心が足りなかったかもしれないが、嫌味が理解できないほど馬鹿ではない。
眉を顰めた私を見た魔女は、こほんと咳払いをひとつして話を続けた。
「特異点にはこれまでも色々なものが出現したが、これほど大きなものは初めてなのだ」
大きいといっても、我が家はせいぜいサザエさんちくらいで、豪邸というわけではない。昔畑だったという庭が少し広いかも知れないが、それでも田舎ではごく普通の大きさだ。
「出現を察知した夜勤の研究員数名が、即時にこの建物の様子見に参じた。そこで一番乗りの功を焦った者が、建物に侵入しようと試みたが、どうしても中に入れなかったようだ」
「え、家人が寝静まっている所に無断で入ろうとしたんですか? それは所謂押し込み強盗的な行為では?」
「そこは謝罪する。深夜火の気も灯りもなく、空き家だと思っていたのだ。で、仕方がないので夜明けを待って、再度隊を編成し調査を開始する予定だったのだが、見張りに残した者から、建物の中で人の気配がすると報告が来たのだ」
監視をしていた者曰く、中の者が『呪術的な結界』を張っているのではないか。であれば、他にもどんな魔術的罠が仕掛けられているか分からない。
ということで調査隊編成の前に、魔女である彼女が、確認の為出張ってきたという。
突っ込み所が満載である。
そもそも他人様の家に訪問するのならば、先程の魔女のように玄関チャイムを鳴らせば済む話ではないか。まあ夜中に鳴らされても困るし、玄関先で先程のような意味不明の話をされても、警察に電話するだけだが。
そう話すと魔女が笑った。
「そのボタンを押すことで、罠が発動するのではないかと思ったようだ」
「はあ。しかしですね『結界』て何ですか。そんな厨二病的なことを言われましても」
玄関は引き違い戸で、二枚の扉の重なった部分にねじ式の鍵がついた、昔ながらの簡単なものだ。しかも田舎は日中鍵をかけない者も多い。
さすがに夜間は鍵をかけるが、入ろうと思えば力技で簡単に突破できる、セキュリティ何それ? なとても貧相なものだ。
私は魔女に、呪術とか結界とかそんなご大層なものではないと説明する。
「昔から『招かれないと中に入れない』という呪術は存在するのだよ」
「はあ」
吸血鬼が登場する古い映画で、そういう場面があったなと思い出した。
ちらりと盗み見れば、作り物じみた美しく妖艶な笑みが帰ってくる。
一旦考え始めると、目の前の自称魔女が得体の知れないものに見えてくる。もしかして、その弓形の濡れた赤い唇の奥に、鋭い犬歯を隠しているのではないのか。
そういえば。
入っても良いか。
彼女は玄関の外で、私の返事を待っていた。
ここで改めて日本人は平和ボケだと自省する。
と同時に、思考停止から復活した私は、これは何やら拙い状況ではないのかと、今更ながら考え始めた。
吸血鬼でなくても、見ず知らずの外国人の集団を易々と招き入れてしまったのだ。
これはヤバイ。とても拙い。拙いどころの話ではない。
怖い。
私は畳の上で縮こまり、ぎゅうと目を瞑った。
「おやおや」
頭上から笑いを含んだ声が聞こえる。
「君はどうやら魔女の素質があるようだ」
恐る恐る目を開けると、相変わらず優雅に椅子に腰掛けている魔女がそこに居た。
が、彼女の背後に居た黒服たちの姿が見当たらない。
私は周囲をキョロキョロ見回した。
視界を閉ざした一瞬のうちに忍者の如く家中に散らばったのか?
特に法に触れるような疚しい物は何もないが、無断で家探しされるのは業腹であるし、祖母が大事にしていた物を破損させられるのも嫌だ。
「お、お付きの方はどこです? 犯罪者でもないのに、家人の許可なく家探しするのは止めてください!」
「意図的に弾き出したのではないのか。ふむ。ではこの家自体が何かそういうものなのかな。とにかく我々の研究所に来たまえ。そこでもう少し詳しい話をしてやろう。何、心配は要らない。意思疎通の可能なものが出現したのは初めての事なのでな。悪い様にはしない、むしろ歓迎するよ、お嬢さん」
「ふえっ?」
魔女の碧眼がぎらぎらと輝き、彼女の繊手が、思いの外強い力で私の腕を掴んだ。
何が何やら分からぬまま、スウェットの上下で、しかも寝癖頭のまま、私はドナドナと魔女に連行された。
結局、邪悪な魔女から解放されたのは二日後だった。
情報過多で頭がパンク寸前、検査と称して散々弄ばれ、口からタマシイが抜けかけて、よたよたと帰宅した私を待っていたのは、出しっぱなしにしていた牛乳である。
二日間、常温で放置されていた牛乳は、怪しい気配を発している。まだ半分以上残っていたというのに。もったいないことである。
翌朝、ぼりぼりと大きな音を立て、シリアルを『素のまま』貪ったのは言うまでもない。
責任者だという魔女に謝罪と損害を請求したい。