帰ってきた男
「〜〜〜♪〜♪〜〜〜〜♪」
ヘリウムガスを吸った後のような、何とも言えない変な声が聞こえている。歌声だ。
歌、と言ってもそれは私が認識できる言語ではないので、もしかしたら何かの呪文を唱え呪詛を吐き出しているのかも知れない。
だが聞こえる声音や旋律が楽しそうなので、『彼女』は歌を歌っているのだろうと解釈している。
下駄箱上の花瓶に挿さってゆらゆら揺れている不思議植物アルウラネは、数日前から『歌うフラワーロック』に進化しているのだ。
アルウラネは捕獲されてからずっと、うちの花瓶に大人しく挿さったままでいる。
しかし、どうやら私の就寝中や出勤中など、こっそり花瓶から抜け出して家の中を散策しているようである。玄関から家の奥に続く廊下に水滴が落ちてたことからそれが発覚したのだ。
自由に動き回れるほど回復したというのに、勝手に入ることは叶わないが出るのは自由な仕様の我が家から逃げ出さないあたり、どうやら『彼女』はここが気に入っているようだ。また『家』の側も何らアクションを起こすことが無いので危険はないのだろう。
彼女──植物のアルウラネに性別はない。ただ小さな紫の花を冠したような姿から、私が勝手にそう思っているだけだ。
「今日もご機嫌だねー」
歌声に合わせゆらゆら揺れる、小松菜のように丸みを帯びた肉厚の葉を指先でピンと弾くと、歌声が止まり小さく「キャア」と言う。
不覚にも、得体の知れない不思議植物を可愛いと思ってしまうのは、私がこちらの世界にかなり馴染んでしまったからだろう。
目の前のアルウラネが、伝説 (こちらの世界では事実)のマンドレイクように絶叫しないのは助かるが、歌う花が歩き回るという点は、我が家が普通ではない事の証明のようでなんとも微妙な思いがする。
「家の中を探検するのはいいけど、花瓶から出たらちゃんと足を拭いてよね」
花瓶のそばにハンドタオルを置き、またゆらゆら歌い始めたアルウラネに声をかけてから『魔女の館』への出勤の為、カラカラと玄関を開けた。
「よう」
私は即座に扉を閉めた。
「………あれえおっかしいなあ。ここにいる筈のない人のマボロシが見えるー。まだ寝ぼけてるのかな私」
「くおら! 何閉めてんだとっとと開けやがれっ!」
玄関先に降臨した魔男は開かない扉をガタガタ揺らし怒鳴っている。
優秀な男だというが学習能力はないのか。
片手をあげて気さくな挨拶を寄越した魔男で修復師のアーチボルドは笑顔だったが、その目は笑っておらず、どうやら飛ばされた事への怒りは継続中のご様子だ。
今度は扉をガンガン蹴り付けている。チンピラか映画やドラマの借金取りみたいだ。
というか偉大な俺様アーチボルドの自説では、私に関係なく『家そのものに意思があり』その意思によって害意を持つ輩が排除される、という事ではなかったのか。とすれば今彼が私に向けている怒りは『逆恨み』というやつだ。
………うわあ面倒臭い。
「知ってる人にすっごく似てますがどちら様ですかぁ? 名乗らない人は入れちゃダメって担当官のローガンさんにも言われてるんですう」
「てめえタクミふざけんなよ! 俺様に決まってるだろうが!」
「どこの『俺様』ですかケーサツ呼びますよ。ってか朝っぱらからひとり暮らしの女性の家に突撃をかますアーミーな知り合いはいませんよ! 何ですかそのカッコ、コスプレですか?」
「うるっせえ! こりゃあ軍基地で支給されたものだっ『南極』の! ウィッチじゃなかったら凍死してたぞこの野郎!」
「野郎じゃないし! 私のせいじゃないし! おっかないから蹴るのやめてよアーチーさんの馬鹿っ!!」
ぴたりと蹴りが止んだ。
「……悪かったよ」
「もう大声出さない?」
「出さねえよ」
「本当に?」
「本当にだ。ほれいいから開けろよタクミ」
先程までの剣幕がなりを潜めている。どうやら少しはガス抜きができたようだ。ふうとひと息吐きゆっくり玄関引き戸を開けた──ら、途端に視界が真っ暗になった。
玄関の外から腕が伸ばされ、大きな手が私の顔面を鷲掴んだのだ。
「ははっ馬鹿め!」
「いだだだだだだ!」
「侵入はできねえが、扉さえ開いてりゃ腕の一本くらい魔力の力押しで通過させられるっつうの。前回の時にスッカスカの縁側で確認済みだ、ウィッチ舐めんなよ。わはははは」
私の顔面を掴んだまま高らかに笑うアーチボルド。
乙女の顔を鷲掴みにするとは、やっぱりこいつはチンピラだ。最低だ。
抵抗も虚しく、顔を掴まれたまま玄関の外へずるずると引き摺り出されてしまう。
「痛いってば馬鹿アーチー!」
「まあまあ。丁度いいから『鍵』を調べてやるよ」
「丁度よくないっ!」
アーチボルドが空いている片手でポケットを探り、そこから何かを取り出すのが指の隙間から見えた。きらりと光るそれは先の尖った細い金属の棒で。針、にしては物凄く太いんですがっ?!
それで一体何をするつもりなのか知らないが、そんなもの知りたくもない。
不安と恐怖で、アーチボルドの手を引き剥がすべくジタバタと抵抗するが益々力を込められ顔が痛い。許すまじアーチボルド!
「へっへっへっ。痛くねえから平気だぜ」
「やだっちっとも平気じゃない! やめてよ! やだってば! サドアーチーっ! 変態ーっ!!」
「誰が変態だっ! じっとしてろよ」
冗談じゃない。じっとしていられる訳が無い。
その時視界の端を何かが掠めた。
「ギャッ!」
「うわっ?!」
不意に顔面の拘束が解かれた。
涙目でアーチボルドを見れば、私を掴んでいた彼の手にアルウラネが乗っかっている。いや乗っかっているのではなく、アルウラネはその根を器用に使いアーチボルドに絡み付いているのだ。
しかもそれだけでなく、その根の中ほどに出来た亀裂──口で、アーチボルドの指にガジガジ齧り付いているのだ。
「いてっ! 何だこりゃあアルウラネか? どっから湧いて出た!」
アーチボルドがアルウラネを手から剥がそうと、彼女の葉を掴み力任せに引っ張った。
「ギャアアアアアアアアア!!!!」
「うわあああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
アルウラネの甲高い悲鳴にアーチボルドが両手で耳を塞いで叫んだ。私も同様だ。
阿鼻叫喚である。
「お前たちそこで何をしている」
三者三様の悲鳴が響く中、至極冷静な声が聞こえた。ローガンだ。
登場の仕方はヒーローっぽいが、私やアーチボルドと同じように両手で耳を塞いでいるので台無しだ。
そういえば騒動の最中、鞄の中で携帯が鳴っていた。私が電話にも出ず、勤務開始時間を過ぎても姿を現さない事を訝ったローガンが、わざわざ様子を見に来たのだ。
いつの間にか地面に飛び降りていたアルウラネは、トタタタと私の足元に走り寄り、髭のような根毛の生えた手で私の足をペシペシ叩いている。拾い上げろということなのだろうか?
アーチボルドに噛み付いていた所を目撃していた私は、恐る恐る彼女の様子を窺った。
だがアーチボルドに噛み付いていた筈の亀裂は無くなっていて、前後の区別のつかないただの根に戻っている。
覚悟を決めてアルウラネをそっと掴み上げ問いかけた。
「もしかして助けてくれた、のかな?」
アルウラネは返事の代わりにわさわさ葉を揺らし、また何か歌い出した。やっぱり可愛い。形は朝鮮人参だけど。
「………何故ここにいるアーチボルド」
表情の乏しい顔同様、常に冷静で平坦な話し方をするローガンだが、今はその声音に非難が混じっている。
「なんでって、タクミに帰還の挨拶をしに来たんだよ」
「挨拶されただけのタクミが何故泣いているんだ」
今涙が出ている実感はある。耳鳴りがしているし頭痛もしている。
これは主にアルウラネの悲鳴のせいだが、アーチボルドから受けた仕打ちに半泣きになっていたのも事実だし、何よりムカついていたので沈黙を貫いた。
「挨拶ついでに『鍵』を調べようとし」
「俺のいない所で彼女に勝手な真似をするな」
「彼女? 何だよローガン、こいつはゲートの鍵の力を吸収できる『転移物』だぜ? 人じゃ」
「アーチボルド」
「分かったよ悪かったよ」
アーチボルドが降参だ、と言わんばかりに両手を上げた。
「つう事でタクミ。後でローガン立ち合いでちゃんと調べさせてくれよ」
「お断りですっ! そんなもの刺されたら死んじゃいます絶対に嫌!」
「……刺す?」
ローガンが眉を顰め、アレクシア様顔負けの凍るような視線をアーチボルトに向けた。
「おっかねえなおい。刺さねえよ! ほら見ろ単なる筆記用具の『尖筆』だ。ウィッチ専用のこれをタクミは知らなかったみたいで、目ん玉かっ開いてジタバタするから面白くてつい。ちょっとしたジョークだジョーク」
アーチボルドは全く悪びれた様子もなくカラカラ笑う。
面白い? 冗談? ちょっとした?
力では敵わなかった逃げられなかった怖かった。
──心底恐ろしかった。
それなのに人を一体何だと思って……。
いやアーチボルドがどう思っているか、私はもう知っている。それでも。
この世界で『転移物』と言われても感情はあるのだくそったれ!
「ふざけんなあっ!!」
頭にきて思わず投げつけたアルウラネはアーチボルトの顔面にヒットした。
私の『やっちまえ』という意思を正確に汲んだ彼女は、魔男の鼻先に遠慮なく齧り付いた。
悲鳴をあげ再びアルウラネ引き剥がしたアーチボルドは、鼻を摩りながら悪態を吐いている。
その様子を眺めていると頭にポンと大きな手が載せられた。私を慰める時、ローガンは時々こういう事をするのだ。
「タクミ」
「仕事に行きましょうかローガンさん」
「……了解だ」
アーチボルドを揶揄っているのか、アルウラネは付かず離れず地面でチョロチョロしている。
彼女を踏みつけようと躍起になっている帰ってきた魔男をその場に放置して、私とローガンは魔女の館へ出勤したのだった。