008 いざ、入学式へ
「行ってきます」
玄関口でそう告げたが、応えはない。家の中にはもう、だれもいないのだ。
時刻は午前九時半を回ったところ。
入学式までまだ時間があるが、余裕をもって出ることにした。
母はすでに出勤している。
姉は最後まで一緒に行くと言っていたが、もう子供じゃないからと説き伏せて、学校に行かせた。
そもそも姉の高校でも、新入生を迎える準備があるのだ。
俺の見送りをしていたら、完全に遅刻してしまう。
学校まではバス一本で着くため、向こうで時間を余らせることになるだろう。
バス停までゆっくりと歩いていると、道の先に、制服を着た一人の女生徒が立っていた。
「真琴……?」
中学時代の同級生時岡真琴だった。
「おはよう、武人くん」
「ああ、おはよう。真琴も入学式?」
真琴の家は記憶にないが、この近所ではない気がする。
「うん。昨日……リエと裕子と話してね。だれか一人、武人くんの付き添いをしようってことになったの」
「一緒にって……学校、違うだろ」
彼女は、一宮高校という女子校に通うはずだ。
「でも近いし……ほらっ、時間もあるし」
真琴とは中学三年のときに同じ班だったこともあり、それなりに打ち解けた。
比較的親しい女子の一人だ。
話に出た裕子とリエも同じ。俺を含めた四人で一年間、班活動をしていた。
真琴がここにいるのも、おそらくは俺を心配したから。ならばここは、話に乗っておこう。
「それじゃ、バス停まで一緒に行こうか」
「うん!」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうについてきた。
学校までバスで十五分。特区が狭いせいか、通学にそれほど時間がかからない。
「でも、学校……残念だったね」
何のことだ? と思ったが、俺が共学校に振り分けられたことを言っているのだろう。
「いや、かえって良かったかもしれない。いろんな経験ができるしさ」
そう言うと、真琴は目を大きく見開いて驚いていた。そこまで驚くことだろうか。
「変かな」
「変というか……吹っ切れたの? 前はものすごく思いつめた感じだったから。いまにも消えてしまいそうなように見えたし……」
最後の方は聞こえなかったが、どうやら傍から見て分かるほど、俺は学校に行きたくなかったらしい。
とすればやはり、真琴がここにいる理由も分かる。俺が心配だったのだ。
本来の武人は、俺の身体で登山家になれるほどタフな人生を歩んだようだが、精神的には弱かったのではなかろうか。
「そうだね。いろいろ悩んで、前向きに考えられるようになったかも。これからの人生、どのみち女性は避けて通れないんだし」
この男女比の狂った社会の中では、女性を避けて生きていくのは不可能だ。
だからこそ、本来の武人は神頼み、つまり祠で真剣に祈っていた。
「そう……なの。よかった。もしかすると、もう家から出てこないんじゃないかと思って……心配した」
どうやら、俺はこのまま学校に行かず、引きこもると思ったようだ。
今日、俺が登校しなかったら、家まで様子を見に来たのだろうか。来た気がする。
「悩んだからこそ、前に進めるようになったんだと思う。だから悩んだことを含めて、すべて無駄ではなかったんだよ」
「武人くん、強くなったね。だったら、裕子は悔しがるかも。伊月高校に行きたがってたから」
伊月高校とは、俺がこれから通う学校のことだ。
東京特区に二つしかない共学校で、女子の偏差値はすこぶる高い。おそらく70は超えている。
特区外からの受験も認めているため、片道二時間もかけて通う猛者(註:女性です)もいるとか。
いま話に出た裕子は、受験直前に進学先を伊月高校に変えて猛勉強をはじめた。
もともと頭がよかったが、伊月高校に届くかは微妙。それでも昼夜を問わず、勉強に勤しんでいた。
普通だったら、「そんなに男がいる学校へ行きたいのか」と思うだろうが、そうではない。
純粋に俺が心配だったのだ。それゆえ彼女は、身命を賭す勢いで勉強していた。
記憶にある裕子の姿は幽鬼じみていて、本来の武人は引いていたが、もし言葉が届くなら、「そうではない」のだと伝えたい。
「あの頃、自分のことしか考えられなくて……裕子には悪いことしたな」
「ううん。裕子も分かっているから」
裕子が猛勉強をはじめたのは、俺がそこに振り分けられることが決まったからだ。
彼女は鬼をも殺す勢いで勉強したが、いかんせん時間が足らなかった。受からなかったのだ。
「あそこは勉強だけじゃ受からないんだろ?」
「そうね。試験以外にも謎判定があるのは事実みたい。特区内からの合格者は、容姿、家柄、本人の素行、親の資産や職業も重要って言われているわ」
親の資産は関係ないだろ。いや、あるのか?
「それ、都市伝説とかじゃないの?」
「合格基準は一切公表しないけど、通っている生徒をみると、そういう選抜があってしかるべしってことみたい。あっ、バスが来たわ」
「ここまででいいよ。真琴だって今日は、入学式だろ」
「大丈夫。時間を計算したら間に合うから、正門まで一緒に行く」
「でも……」
「本当にこの時間なら、間に合うから気にしないで」
結局、真琴に押し切られて、一緒にバスへ乗り込んだ。




